第五百十九話 呪い
闇がある。
深く暗い無明の闇が、延々と続いている。
彼は、その闇の中をたったひとりで歩いている。明かりも持たず、供回りもなく、ただひとりで進んでいる。
地は平坦で、無限に長く続いているように思える。思えるだけで、実際はどうなのか、彼にはわからない。
彼はただ、この無明の闇を踏破しなければならないという使命感に駆り立てられていた。闇の向こうにはなにがあるのだろう。光を期待してはなるまい。彼は心したが、それでも期待に胸が膨らむのはしかたのないことかも知れなかった。
音もなく、風もない。
ただの闇を歩いていると、ふと、自分がなにものなのかがわからなくなる瞬間が訪れる。疑問が生じると、その瞬間に自分というものが闇に溶けてしまい、肉体を構成していた要素が泥のように流れだしていった。肉体。いや、自我といったほうが正しいのかもしれない。この闇の中、彼は自分の体を自分の目で直接見て確かめたわけではなかった。ただ、感覚として、肉体があると認識していただけのことにすぎない。二十数年生き抜いた肉体は、傷だらけというほどではなく、片目を失ったのが最大の負傷であり、それ以外は極めて健康的で、いかにも順風満帆な人生を歩んできた人間のそれだったはずだ。
闇に溶けていく感覚の中で、彼はそれでも前進を試みるのだが、もはや方向感覚は失われ、天地さえも定かではなくなってしまっていた。そもそも、この闇に天地があったのかどうかさえ疑わしい。
悪い夢だ。
彼はつぶやいたつもりだったが、声にさえならなかった。
悪い夢。
夢を見ているのだ。
何度も言葉を発そうとしたが、肉体が闇に溶けた以上、声を響かせることなどできるはずもなかった。そもそも、足音さえも掻き消えていたのだ。音はすべて、闇に吸い込まれるのかもしれない。
無音の、無限の闇の中で、彼は、膝を抱えることもできず、茫然とした。
『レオン。わたしの愛しいレオン』
不意に耳朶を震わせたのは、心に響き、震わせるような声だった。辛く、苦しい響きを秘めた音色。それは母の嘆きだ。母の悲嘆に暮れる声というのは、どうしてこうも心を震わせ、胸を締め付けるのか。子供の本能なのか、それとも、自分の感受性が豊かすぎるのか。
『レオン。レオンガンド。我が子よ。我が強き子よ』
つぎに意識を貫いたのは、刃のように鋭く、鋼のように猛々しい響き。烈しさと気高さを内包する声音は、幼少期から現在に至るまで、彼にとっては憧憬そのものといえた。父がまだ英傑としての風貌を失わなかったころの声は、いまでも彼の魂を奮い立たせるのだ。
なぜ、そんな声が聞こえたのか、彼にはわからない。
そもそも、肉体は闇に溶けており、耳も鼓膜も形を失っているのだ。音を拾うことなど、できるはずもなかった。なにも聞こえず、また、なにも見えない。そこで彼ははたと気づいた。無限の闇と認識していたものは、ただ視力を失っていたからなのかもしれない。
闇が続いていたのではない。
光がないのではない。
光を感じることができないから、なにも見えないのではないか。
そう思ったとき、彼の視界に閃光が走った。
『レオンガンド。我が子よ、それがおまえの名だ。獅子の中の獅子となるのだ。レオンガンドに』
そのシウスクラウドの言葉は、彼の記憶にはなかった。どれだけ思い出そうとしても、その言葉を聞いたという記憶の断片さえ掘り起こせない。ただの妄想なのか、夢なのか。それとも、物心がつく前の記憶なのか。
『レオンガンドのガンドは、ガンディアのガンドと同じなのですよ』
言い聞かせるようなグレイシアの声は、あまりにも若々しく、そしてこれもまた、聞き覚えのない言葉だった。ただ、似たようなことは何度となくいわれてはいる。己の名の意味を知ろうとするのは、だれであれ、よくあることだろう。
レオンもガンドも獅子という意味を持ち、レオンガンドはまさに獅子の中の獅子という意味の名前だった。シウスクラウドは、レオンガンドにどれほどの期待を込めていたのだろう。彼は、待望の第一子にガンディアの将来を託すつもりで、その名を与えたに違いない。
『まったく、無様よな……』
視界に映るのは、変わり果てたシウスクラウドの姿だった。人間の骨格を思い出させないほどに変形した肉体は、数倍に膨張し、奇妙に変色していた。硬化した皮膚はヒビ割れ、中から臓器のようなものが見えていて、それはシウスクラウドの呼吸に合わせて律動していた。それはもはや、人間とは呼べないものであったが、彼は目を背けることもできなかった。
『レオン。レオンガンドよ。我が子よ。我が後継者、我が意志の継承者よ。しかと見よ。これが愚王の行末よ。生に執着したものの末路よ』
やめろ。
彼は叫んだが、目の前の光景に変化はなかった。
『それでも、わたしは生きたかったのだ。生きて、返り咲きたかった。あの場所へ。あの戦場へ。あの戦国乱世に、もう一度、夢を見たかった』
シウスクラウドは、夢を追い続けていた。
不治の病を得たがために病床から離れることも許されなかった彼だったが、それでも、夢を見ることはできた。見た夢を現実化させるのはどうすればいいのか。シウスクラウドは考え続けたのだろう。そのひとつが、肉体を回復させることだ。病を克服することさえできれば、王として返り咲くことはたやすい。ガンディアの臣民は、彼の帰還を待ち続けていたのだから。
だが、そのために外法機関などという研究組織を作り上げ、国民を実験材料にしていった罪は裁かなければならない。
それは、獅子王のすることではない。
魔王の所業であろう。
『魔王。魔王か。そうかもしれぬ。魔王なればこそ、このような姿に成り果てても、夢を見ていられるのだろうな』
聞いていられなかった。
『よいのだ。それで――』
剣を突き入れた時、シウスクラウドは確かに笑った。笑っていた。その笑みがいまも彼の網膜に焼き付いて離れない。目を閉じると、瞼の裏に蘇るのだ。化け物の、怪物じみた、英雄の笑顔が浮かび上がるのだ。
「やめろ!」
叫び声が聞こえて、彼ははっとした。視界に光が戻ったかと思うと、前方に寝そべった女がこちらを見て、不思議そうな顔をしているのが見えた。
「あら、陛下は不機嫌でいらっしゃる?」
「……ここは」
「陛下のお部屋でございますよ」
アーリアはご機嫌取りのつもりか、冗談めかしていった。艶やかな黒髪が魔晶灯の光に輝いているようにみえる。いつもはなにを考えているのかわからない灰色の目は、いまはなぜか、レオンガンドのことを心配そうに見ている。
「俺の部屋……」
レオンガンドは、茫然とつぶやいた。さっきまで見ていたものが夢だということに気づいたのは、それからだった。確かに現実味のない出来事だったが、シウスクラウドの最期に関してだけは、異様なほどに現実感を帯びていた。全身から嫌な汗が噴き出しているのがわかる。アーリアが心配そうな顔をしているのは、そのせいかもしれない。レオンガンドがそのような姿を見せることは少ない。
「悪夢でも見ましたか」
「そういえば、あの場にはおまえもいたんだったな……」
レオンガンドがぼんやりとつぶやくと、アーリアはきょとんとした。
「なんの話です?」
「父を殺したときのことさ」
告げて、彼は背後に向かって倒れこんだ。天蓋付きの寝台は、相も変わらず彼とアーリアだけの空間だった。ただ、レオンガンドはアーリアに触れようとはしなくなっていたし、アーリアもレオンガンドを求めてはこなかった。
心境の変化は、状況の変化によるものだろう。
「シウスクラウド……様、のことですね」
「無理をしなくてもいい。おまえにとっては憎悪の対象だろう」
レオンガンドは、天蓋の闇を見据えたまま、いった。アーリア、イリス、ウル、レルガ兄弟、それにエレンとかいう少年だけが、外法機関の研究を生き抜いた。たった六人。何百人以上もの命を弄んだ挙句、ある種の成功例として生き残ったのがたったの六人である。
まるで魔龍窟のようだ、と彼は思った。
魔龍窟はザルワーンの武装召喚師育成機関だが、何百人もの貴族の子女が投じられ、生き残ったのはミリュウやランカインたち数名だったという。その生き残りのほとんども、ザルワーン戦争で戦死している。ミリュウとランカインだけが魔龍窟の生き残りであり、奇しくもガンディア軍に所属していた。
ザルワーンといえば外法でも有名だ。外法機関の研究者たちがザルワーンから流れてきたという話も、あながち間違ってはいないのかもしれない。
「陛下御自ら、わたしたちの恨みを晴らしてくれたのですから、もう、いいのです」
「それでもおまえやウルは、俺を恨んで当然なんだ。俺は、おまえたちの命を弄んだガンディアの王なのだからな。すべての責は、いまや俺にある。過去の罪も、俺が背負う。背負わなければならない。それが王になるということだろう」
そうはいったものの、父殺しの業は、いまだに自分の行動を縛り付けているのだから、世話がない。父を殺したという事実が呪いとなって、彼の意識を苛み、血筋への異常な執着となってしまっているのではないか。冷静になって考えれば考えるほど、そう思えてくる。
グレイシア、リノンンクレアだけでなく、ジゼルコートやラインスといった血縁者への抑え切れない想いは、すべて、シウスクラウドの命を終わらせたあの日から始まっている。
もし、シウスクラウドを手にかけたりしなければ、父殺しの苦しみを味わっていなければ、ラインスを攻め滅ぼすことにも躊躇はなかったのだろうか。
不意にアーリアが姿勢を正したかと思うと、彼女らしからぬ慎ましやかな表情で告げてきた。
「ならば、御命令くださいませ。陛下が命令ひとつ下されば、政敵の首のひとつやふたつ、すぐにでも手に入れてみせましょう。まずは手始めにラインス=アンスリウスなどはいかがですか?」
レオンガンドは、アーリアの提案を黙殺すると、寝台から脱出した。アーリアに命じれば、それで終わるのは間違いない。このくだらない政争は、太后派貴族の死によって幕を下ろすことになるだろう。彼女を認識することなどだれにもできないのだから、彼女を暗殺者として差し向けることほど容易なことはない。
「俺にラインスになれというのか」
つぶやいたときにはアーリアの気配は消えていたが、彼は気にもとめなかった。アーリアはレオンガンドの命令を無視してラインスを暗殺したりはしないだろう。余程のことがない限り、彼女が勝手に行動するということはない。
嘆息する。
ガンディアのためならば悪魔にも魂を売るのではなかったか。
(俺は……なにを迷っている)
血迷い、惑った挙句、大切な部下が死に至るところだった。
これでは、小国家群を統一するなど、夢のまた夢ではないのか。
それでは、いままで踏み躙ってきた者達に申し訳が立たない。
彼は、ただ、吼えた。