第五百十八話 感謝
「温泉、温泉、温泉っ!」
「まさか長期休暇を頂けるとは思いませんでしたよ」
ルウファが喜びを隠せないといった風につぶやいたのは、《獅子の尾》隊舎の食堂でのことだった。ルウファ謹製の食堂はまだ正常に機能していないものの、厨房にはバルガザール家から連れてきた調理人が待機しており、ファリアたち《獅子の尾》隊士の注文に素早く対応してくれていた。
もっとも、食堂にいる四人と一匹のうち、だれひとり食事をしているものはいない。ファリアは紅茶を飲みながら、食堂に持ち込んだ書類に目を通していたし、ルウファも同じだ。エミル=リジルは子犬のニーウェと遊んでおり、ミリュウはというと、なにやら踊っていた。
十月十三日の午後一時過ぎ。
ファリアたちは、昼食を終え、ゆったりとしたひとときを過ごしているのだ。
(ゆったり、ね)
ファリアは、胸中でつぶやいて、少し不思議に思った。暗殺未遂事件から昨日までの数日間、生きた心地がしなかったというのがファリアの実感である。悪い夢を見続けているような、そんな感覚。セツナが刺されただけでも衝撃的だったのだが、彼が何日も目を覚まさないというのは心臓に悪すぎた。しかも、彼の傍で見守ることも許されない時間が長かった。精神的に追い詰められていくような日々。それでも、彼の覚醒を信じて待つしかなかった。
なぜそうまで苦しくて、辛いのか。
そのときのミリュウは、まるで鏡写しになった自分であり、つまり自分もまた、彼を強く想っているのだということがわかる。いや、わかっていたことだ。認識してさえいたことだ。がだ、それを直視すれば、いまの関係性が崩れてしまうことが怖かったのだ。いまのままでも、十分に幸せだと、彼女は考えていた。
よくよく考えれば、そういった関係性はミリュウの出現によって完膚なきまでに破壊されているのではないか、とも思えるのだが、ファリアはあえて知らぬ顔をしていた。知らぬ顔をしなければ、理性を保てないのではないか。恐れは、彼女の視野を狭めた。
もっとも、事件から今日に至るまで、セツナのことだけを考えていればいい時間は、彼女にとっては幸福以外のなにものでもなかった。もっと辛い現実から視線を逸らし続けることができたのだから。
だが、そういった偽りの幸福時間は終わりに近づいている。
ファリアは、その事実を感じながらも、見て見ぬふりをしようとした。もう少しの間、セツナのことだけを考えていたいと思った。でなければ、決断に踏み切ることもできない。そんな気がした。
「陛下の気前の良さったらないわね。まあ、あれだけの戦争が終わったばかりだもの。すぐさま外征なんて行えるわけないんだけど」
「おーんせーん!」
「積極的に戦争を行うだけの国力はありませんしね。ザルワーン戦争だって、ガンディアの財力の殆どを投じたっていう話じゃないですか。国が傾きかけたっていう噂ですよ」
「そんなの、太后派が流している噂でしょ。確かに、ガンディアの全戦力を投じたわけだし、資金も資源も使い倒したとは言うけれど……さすがに国庫が尽きるほど使い切りはしないでしょう」
とはいったものの、ファリアに確証があるわけではなかった。ザルワーン戦争は、入念に準備されたものではない。勝利の確信があって始まった戦いではなかった。
ナーレス=ラグナホルンが拘束されたという確たる情報が入ったために、レオンガンドは開戦に踏み切るしかなかったのだ。ナーレスの五年に渡る工作を無為にしないためには、ザルワーンの体制が整うまえに攻めこむしかない。ガンディアの全戦力が動員されたのは、勝敗の見えない戦いだったからであり、同盟各国への援軍要請も、勝利を少しでも呼びこむためのものだった。資金も大量に投入されただろうし、財政が傾いたという話もあながち間違いではないのかもしれなかった。
ザルワーンは、大国だ。ガンディアを大きく上回る兵力に、ランカインのような武装召喚師を保有し、総合的に見ても勝ち目はなかった。ガンディア軍に所属する兵士たちも、まさか勝てるとは思っても見なかっただろう。都市をひとつふたつ落とせたら御の字と考えているものがいても、おかしくはない。むしろ、そのように考えるのが正常だった。
奇跡的な大勝利。
その立役者がセツナ・ゼノン=カミヤであり、彼はその功績をもって領伯に任じられた。そして、拝命の夜に暗殺未遂事件が起きている。それから五日が経過した。王都は落ち着きを取り戻し、王宮も、表面的には正常化しているようではある。キリル=ログナーの死という衝撃的な事件が起きても、王宮そのものに影響がないというのは、ある意味では恐ろしくも在るのだが。
太后派によるログナー家への追求が弱まると、レオンガンド率いる現王派が勢いを得た。レオンガンド派は、ザルワーン戦争の成果を掲げた。まさに歴史に残る大勝利は、レオンガンド派貴族や軍人の発言力を強めたようだ。当然、《獅子の尾》はレオンガンド派である。《獅子の尾》だけではない。王立親衛隊の三隊は、レオンガンドによって選び抜かれた精鋭であり、その名誉は、レオンガンドへの忠誠心をより高めるものとなっていた。
「温泉!」
「うるさいわね」
ファリアが半眼を向けると、ミリュウが動きを止めた。どうやら彼女は、エンジュールでの休暇が待ち遠しくて仕方がないらしく、今朝からひとりで盛り上がっていた。
「温泉なのよ、温泉」
「いや、そんな顔でいわれても」
ミリュウが至極真面目な顔をすると、良家のお嬢様になるのだから卑怯だとファリアは思った。
「むー……君たち、乗りが悪いわね。そんなだからセツナに追い出されるのよ?」
「いやいや、どう考えても、ミリュウさんのせいでしょ」
「そうよ。ひとりで温泉祭りなんてしてるから、先生に怒られるのよ」
「巻き添えでわたしたちまで追い出されましたね」
と、エミルが抱えていたニーウェがミリュウに向かって飛びついた。ミリュウは、華麗に受け止めると、大事そうに抱える。彼女にとってその黒い毛玉がいかに大切なのか、ファリアには想像もつかない。
「エミルなんて、先生の助手なのに」
「なんであたしが悪い、みたいになってんのよ! もうっ!」
「……ここならいくら騒いでもいいっていっても、限度があるわよ。セツナの部屋まで響くような大声はださないでね」
「わかってるわよ!」
ミリュウは怒った顔で言い返してくると、ニーウェを抱えて、食堂を飛び出していってしまった。ニーウェを連れて行ったということは、セツナの部屋に向かったわけではないのだと思い、ファリアはひとり安堵した。ミリュウの賑やかさ、華やかさは、暗くなりがちないまの隊舎にはなくてはならないものではあるのだが。
「《獅子の尾》が賑やかなのは、絶対、ミリュウさんのせいですよね」
「間違いないわね」
ファリアは、くすりと笑った。
「賑やかなことだ」
窓辺に立った男のつぶやいた言葉は、風に乗ってセツナの耳に届いた。窓の向こうの青空を背景にするには、あまりに不似合いだと思ったが、それはいわなかった。どうでもいいことだ。
彼が賑やかだといったのは、階下のことだろう。ここは《獅子の尾》隊舎二階にあるセツナの自室なのだが、一階の、しかも少し離れた位置にある食堂からの騒音が、セツナたちの耳をくすぐっていた。
「悪いかよ」
口を尖らせる。
尖らせたくて尖らせているわけではない。無意識にそうなってしまうのだ。脊椎反射のようなものだ。なおしようがなければ、なおすつもりもない。
「悪い、などとはいっていない。ただ正直な感想を述べただけだ」
「そうかよ」
寝台の上に寝そべったまま相手の姿を見るには、頭を多少持ちあげねばならず、長時間見続けることは難しかった。見ている必要はないのだが、視界に収めて置かなければ安心できない。相手が相手だ。
カイン=ヴィーヴル。またの名をランカイン=ビューネル。最初に遭ったときの名はランス=ビレインだったか。忘れたくても忘れられない名前だ。ランス=ビレインには、一度殺されかけている。
「……君は俺を嫌っているな」
「あんたを好きになんてなれるか」
「好きになってほしくもないさ。気味が悪い」
彼は冗談めかしていった。カインがそのような軽薄な言葉を吐くのはめずらしいと思ったが、案外そうでもないかもしれないとも考えなおす。ログナー潜入任務時のことを振り返ると、カインは印象よりも口が軽いというか、おしゃべりだったことを思い出した。
その口の軽さできついことをいうのだから、たちが悪い。
室内には、セツナと彼と、それに軍医のマリア=スコールがいた。マリアがここにいるのは、セツナの状態がもう少し安定するまでは看護しておく必要があるかららしい。セツナとしては、脇腹の傷痕以外、なんの問題もないのだが。
マリア=スコールは、軍医として外征に従軍する傍ら、王宮の医務室も受け持つほどの立場にあり、本来ならばセツナひとりに時間を割いている場合ではないはずであった。そのことを尋ねると、彼女こそがルウファの噂していた《獅子の尾》専属の軍医なのだということが判明して、驚いたものだ。
エミル=リジルは彼女の部下となり、《獅子の尾》は戦闘員四名、医療班二名の変則部隊となったのだ。しかも、戦闘員四人のうち三人には肩書きがあり、純粋な戦闘員はミリュウ=リバイエンただひとりという異常事態だったが、《獅子の尾》の運用法を考えると、特に問題はないだろう。いつだって最前線に飛び込むのが隊長であるセツナの役割なのだ。
ぼんやりと、風に揺れるカーテンを眺めていると、昨日聞いた話を思い出した。セツナがここにいる理由である。
口を開き、声をかける。
「……あんたが、護ってくれたんだってな」
三日前の真夜中、王宮の医務室で眠っていたセツナの元に暗殺者が現れ、カインによって捕獲されたという事件があったらしい。気を失っている最中のことで、セツナの記憶にはまったくないのだが、その場にいたというマリアがいうのだ。間違いはない。
「ああ。陛下の御命令でな。まあ、君には死んでほしくないからな。命令がなくとも、そうしただろうが」
カインが事も無げにいってきたことが癪に障る。
「……なんでだよ」
「君には期待している」
「なにを……」
「君ならば、君と黒き矛ならば、この乱世の果てになにがあるのか、見せてくれるのではないかとな」
「はっ……くだらねえ。馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てて、そっぽを向く、すると、マリアの白衣が視界に入ってきた。マリアは、ベッドのすぐ横においた椅子に座り、運び込んできたらしい机に広げた書類と睨み合っている。マリアが物音に気づいたのか、こちらを見た。どこかきつい印象を与える顔つきは、微笑んだ途端、慈母のように見えてくるのだから不思議だった。
「だが、君は戦い続けるのだろう?」
カインの追い打ちのような言葉が、セツナの耳に突き刺さった。
「戦うしか、ないのだからな」
「……わかってるよ、そんなこと」
視線を再びそちらに向けると、カインは窓際から移動していた。部屋から出て行くつもりなのだろう。話に飽きたのか、それとも、言いたいことを言い終えて満足したのか。なんにしても、彼が周囲からいなくなると考えるだけで、セツナは心が軽くなる気がした。
視線だけで彼を追いかける。片腕を失った狂気の武装召喚師の表情は、仮面に隠されてわからない。彼がなにを考え、なにを思い、なにを望んでここに来たのか、セツナにはまったく理解できなかった。それでも、彼のおかげで生きているという事実を思えば、声をかけざるを得なかった。
「あ、いい忘れてた」
「ん?」
カインが足を止めて、こちらを振り返った。仮面の向こうの目が、ぎらぎらと輝いているように見えた。
が、セツナは彼の期待に応えることはできないのだ。
「護ってくれて、ありがとう」
「そんなことか」
「生きていて、生きて皆と逢えて、本当に嬉しかったから」
「……そうか」
カインはそれだけを残して、部屋から出て行った。木の扉が閉じて、小さな物音を立てる。静寂が生まれた。階下も静かなものだった。
気づくと、視界が滲んでいた。
慌てて涙を拭うと、視線に気づいた。
マリアがこちらを見て、優しく微笑んでいた。