第五百十七話 かつて見たもの(二)
レオンガンドたちが王宮に戻ると、エリウス=ログナーとオーギュスト=サンシアンが待っていた。エリウスにせよ、オーギュストにせよ、こうなった以上レオンガンドを頼らざるを得ないし、そんな彼らを側に置いておくのはレオンガンドとしてもやぶさかではない。
太后派の策謀によって父親殺しを決断したエリウスにしてみれば、太后派につくことなどできるはずもない上、中立派を装うことなど不可能に近い。彼は、レオンガンドの告げた真実によってラインス=アンスリウスが首謀者だということを知り、太后派への敵意を募らせるに至っている。
一方、オーギュストは、太后派の会合に顔を見せてはいるようだが、彼が裏切ったがために暗殺計画が失敗に終わったということで、敵視されているようだ。当然のことであり、同情の余地はなかった。もちろん、彼が太后派を見限ってくれたからこそ、セツナを失わずに済んだのだが。
「ログナーにはエイン軍団長を向かわせることにしたそうですね」
「エイン=ラジャールならばまず問題ないだろう」
「ええ。なんの心配もしていませんよ」
エリウスは微笑んだが、目は一切笑っていなかった。王宮大会議場での演説以来、彼が心から笑っている様子を見た覚えがなかった。
「それから、エレニアはなんとしても殺させないつもりだ」
「……太后派が許すとは思えませんが」
「彼らがどう言おうと、セツナが許すというのだ。だれがセツナに反論できる? できまい。無論、法を重んじるのならば、彼女を許すことはできないが……」
「これ以上、ログナー人を苦しめることはできない、と」
「そういうことだ」
オーギュストの言葉にうなずいてから戦略会議室に辿り着くまで、レオンガンドは無言を貫いた。特に話題とするべきものがなかったということでもない。考える時間が必要だった。
エリウスを見るたびに湧き上がる思いが、レオンガンドに初心を思い出させる。自分が王の座についたのはどういう事情だったのか。なぜ、こうしてガンディアの王として臣民の上に君臨し、兵を動かしているのか。
「……以前からわかっていたことですが、陛下はお優しいですね。罪人であっても利用価値があれば生かし、使う。政敵を力で圧するなど以ての外だと考えておられるようだ。極力、人死のでないやり方で国を変えようとしているのでしょう?」
会議室に入って早々オーギュストが口にしたのは、皮肉以外のなにものでもなかった。
ゼフィルが眉を顰め、バレットがオーギュストを睨む。エリウスは微笑を湛えたまま、オーギュストとレオンガンドを見ている。
「太后派……いや、ラインス=アンスリウスが国益を損なうだけの害悪だということが判明した以上、力で攻め滅ぼせばいい。いまのあなたにならばそれができる。それだけの軍事力を支配している。ガンディア、ログナー、ザルワーン……三国の軍事力を背景に脅すだけでも、太后派を制圧することはできましょうに」
オーギュストの台詞は、彼がいうようにガンディアという国のことを第一に考えたものだった。レオンガンドの感情や心理を完全に無視したものであり、だからこそ鋭く、だからこそ突き刺さるのだ。もちろん、必ずしもその考えが正しいとは言い切れない。力を用いれば、歪が生じる。レオンガンドが力を維持し続けることができるのならば、彼のいったようなことを実行すればいい。軍事力を背景に太后派という害悪を王宮から一掃すれば、レオンガンドに権力を集中させることも可能だろう。そうなれば、ガンディアの行動力は迅速さを増すに違いない。
レオンガンドの夢を叶えるには、それ以上に最良の方法はなかった。
「なにを恐れておられるのです?」
オーギュストは、レオンガンドの目を見ていた。まるで心の中まで見透かすような視線は、彼の演技や演出ではない。
レオンガンドは、彼の目を見つめながら、しばし逡巡した。
「……ゼフィル」
「はい」
隣に座っていたゼフィルが立ち上がり、会議室の扉に向かう。彼は、レオンガンドがなにをいわんとしているのか察したのだ。以心伝心とはこのことだろうが、なにも特別なことだとは思っていない。レオンガンドの四人の側近は、それができるからこそ側近なのだ。
ゼフィルは扉を開けると、廊下の様子を確認したあと、扉に鍵をかけた。普段ならば扉の外に待機させている親衛隊の隊士は今回はいなかった。会議の内容を聞かれるわけにはいかなかったからであるが、レオンガンドがすべてを話すには好都合な状況ではあった。
レオンガンドは、戦略会議室が万全な状態になったことを認めると、怪訝な顔のオーギュストに視線を戻した。オーギュストは自分の身に災厄が振りかかるのではないかと身構えたようだが、レオンガンドがそんなことをする人間ならば、太后派などとっくに潰しているだろう。オーギュスト自身がいったことだ。
「ゼフィル=マルディーン、バレット=ワイズムーン、スレイン=ストール、ケリウス=マグナート。それにナーレス=ラグナホルンだけが知っていることだ」
レルガ兄弟も知っていたが、ふたりは死んでしまっている上、この場で出していい名前ではなかった。同じ理由でアーリアの名も口にしなかった。
「わたしは、この国のために父を手にかけている」
レオンガンドの告白に、オーギュストはさすがに愕然としたようだった。エリウスにはそれとなく伝えてはいたことだが、確証を得たことで衝撃を受けたらしい。
「だれかがやらねばならなかった。でなければ、この国は生に執着する化け物の餌場に成り果てただろう。そうさせることはできなかった。それだけは、なんとしてでも阻止しなければならなかったのだ」
「化け物の餌場……?」
「外法機関。貴公も聞いたことがあるだろう?」
「ええ。陛下が、外法機関の生き残りを囲っているという話くらいは」
「そのわずか数名の生き残りがガンディアを憎悪しているのはなぜかわかるか? 彼らは、シウスクラウドを病から救うために捧げられた贄だったのだ」
おぞましい人体実験は、彼らに人外の力を与えこそすれ、シウスクラウドを救う手段にはならなかった。何年経っても成果の上がらない外法機関の研究者たちにシウスクラウドが激怒したのは、ある意味では当然だった。既に英雄の風格を失っていたシウスクラウドは、病を克服することだけを考えており、それ以外のことは余事であるとでもいわんばかりだった。
外法機関の存在を知ったレオンガンドは、ナーレスらと協力して外法機関を潰した。五年以上前のことだ。そのとき、レルガ兄弟とアーリア三姉妹とエレンという少年を保護している。アーリアの妹のひとりイリスとエレンは、ガンディアを嫌い、飛び出して行ってしまったが。
レオンガンドが外法機関を撲滅したことを告げると、シウスクラウドは、まるで悪い夢から覚めたように我に返った。レオンガンドは、英雄が戻ってきたと喜んだものだ。たとえシウスクラウドの心がどす黒く汚れきっていたとしても、自分を取り戻してくれたのならば、喜ぶよりほかはなかった。
だが、それですべてが丸く収まったわけではなかった。
「父は……シウスクラウドは、最後まで生を諦めなかった。なんとしてでも王座に返り咲き、ガンディアの獅子王として戦国乱世に躍り出ようとしていた。そのためならば国民にいかな犠牲を強いても構わないというのが、シウスクラウドの考えだったのだろう。彼は化け物と成り果てた。外法機関に生き残りがいたのだ」
シウスクラウド・レイ=ガンディアが、王宮の地下の闇に潜む化け物に成り果てた事実を知っているものは、少ない。病の悪化を理由に、余人を近づけることを禁じていたからだ。レオンガンドやグレイシアですら、シウスクラウドに近づくこともできなかった。死期を悟ったのだと、レオンガンドたちは思っていた。
死ぬときはひとりで死にたい。
シウスクラウドの残した言葉が、レオンガンドたちの行動を縛っていた。
「それで、陛下はシウスクラウド様を手にかけられた、と」
「怪物を退治したまでだよ」
レオンガンドが涼しい顔で告げると、オーギュストは鼻白んだようだった。オーギュストがシウスクラウド信者だったのは、彼が反レオンガンドを掲げていたことからもわかる。反レオンガンド派に走ったものの理由の多くは、英雄シウスクラウドの息子が“うつけ”だったことへの反発であることが多い。英雄の子は英雄でなくてはならなかったのだ。そういう意味では、レオンガンドが“うつけ”を演じずとも、反感を買ったのは間違いないだろう。英雄と凡庸では、天と地ほどの差がある。
「シウスクラウドという名の怪物をな」
涼しいのは、表情だけだ。演技だけだ。胸は痛む。心臓に刃でも刺さっているかのような痛みがある。鈍く、緩やかな痛みは、しかし、確実に精神を蝕み、心を壊死させていくものだ。
「だからだろう。それからというもの、わたしは王家に連なるものを傷つけることを極端に恐れた。怪物を退治した痛みを飲み下してもなお、恐怖が募った。わたしは道を誤っているのではないか。魔王への道を歩んでいるのではないか。わたしは、本当に間違っていないのか」
レオンガンドが話している間、ゼフィルもバレットも表情ひとつ変えなかった。ふたりは、ケリウスやスレインとともに、ガンディオンの怪物と対面した数少ない人間であり、数名余りの生存者だった。醜く肥大しただけの怪物とは戦闘などは起きなかったのだ。目撃者のうち、側近以外には死を命じたというだけのことだ。
「わかっている。その結果が、この惨状なのだということも、太后派の、ラインスの増長を許したのだということも。そして、すべてはわたしの甘さが招いた事態だということもな。セツナを傷つけたのは、エレニアでも、ログナー解放同盟でも、ラインスでもない。わたし自身なのだ」
このような災厄を招いたのは自分自身だということを認めた上で、レオンガンドは、オーギュストの言を拒絶した。
「だが……いまはその時期ではない。せめて、ログナーとザルワーンが安定してからでなければ、なにもできないのだ」
「では、それまではわたくしが太后派を抑えておきましょう」
オーギュストは平然と言い放つと、唖然とする面々に向かって言葉を続けた。
「陛下がガンディアのためにその手を汚され、お心をお痛めになられたという事実には、感銘を受けましたからね。わたくしも、この国のために命を懸けなければなりません。わたくし、オーギュスト=サンシアンはガンディアのために人生を捧げると決めたのですから」
そういうと、彼は、太后派への工作が進行中であるということをレオンガンドたちに明かした。