第五百十六話 かつて見たもの
「ともかく、君が目覚めてくれて、本当に良かった。君が目覚めなければ、エレニアが死罪になっていたのは間違いないし、なにより、わたしの怒りに歯止めがかからなかっただろう。わたしが暴君にならずに済んだのは、君のおかげなのだ。改めて礼を言うよ。ありがとう、セツナ」
主君たるレオンガンドが頭を下げてきたことがあまりに衝撃的過ぎて、セツナは頭のなかが真っ白になった。どう反応すればいいのかわからないだけではない。一瞬、恐慌状態に陥ったといっても過言ではなかった。なにより、セツナは、レオンガンドに礼を言われるようなことはなにもしていないのだ。
セツナはエレニアに刺され、眠っていただけなのだ。むしろ、周囲の人たちに不安を与えたことで責められてもおかしくはないと思っていた。それなのにレオンガンドは感謝するというのだ。セツナの思考が混乱するのは、当然だった。
「そんなこと……」
「冗談、というほどでもないんだよ、これが。わたしは、君を失いたくない。君を失うのは、翼をもがれるのも同じなのだ。だから、死ぬなよ。生きて、わたしとともに戦い抜いてくれ」
「はい!」
セツナが力強くうなずくと、レオンガンドは少しばかり驚いたようだったが、すぐに笑顔になった。隻眼のレオンガンドも悪くはない。むしろ、優しすぎた風貌の中に厳しさが生まれ、獅子王の名に相応しくなりつつある。
「……目覚めたばかりなのに長話をしてしまったな。疲れただろう? ゆっくり休むといい。しばらく戦争は起きないし、小競り合いなら君の出番はない。傷を癒やし、疲れを癒やせ。それも君の仕事のひとつだ」
「はい」
セツナは、レオンガンドの気遣いに心から感謝するとともに、彼が主で良かったと再確認した。セツナはこれまでさんざん無理をしてきたのだ。どんな状態であっても、矛の力で突破してきた。肉体が傷だらけであっても、精神が疲弊し尽くしていたとしても、カオスブリンガーの力技で戦い抜いてきた。レオンガンドが望むのならば、いますぐにでも戦場に飛ぶことだってできるし、そうするだろう。
セツナは、これまでそうやって戦い続けてきた。
疲れが、知らず知らずのうちに蓄積していたらしい。
事件の後、すぐに目覚めなかったのは、そこに原因があるのではないか。軍医のマリア=スコールがいうのだから、間違いはなさそうだった。
レオンガンドは、しばらく窓の向こうに視線を漂わせたあと、なにかを思いついたのか、表情をほころばせた。
「そうだな……歩けるようになったらエンジュールに行ってみるのもいいんじゃないか?」
「エンジュールに?」
「君の領地は温泉が湧き出ているそうじゃないか。湯治に赴くついでに領地を見て回るのも悪くはあるまい。なに、時間はたっぷりとある。隊の連中も連れてでかけるのもいい」
レオンガンドがくすりと笑ったのは、扉の向こうの三人の反応を予想したからかもしれない。彼女たちが聞き耳を立てているだろうことは、疑いようがなかった。
セツナは、一瞬半眼で扉を見やったが、扉の隣に立つ軍医と目があっただけだった。マリア=スコールとはそれほど言葉を交わしたわけではないが、さっぱりとした気持ちのいい女性という印象がセツナにはある。ファリアやミリュウが彼女にまったく頭が上がらないのが面白くもあった。レオンガンドに視線を戻す。
「本当にいいんですか?」
「長い戦いが終わったんだ。たまには、羽根を伸ばしてくるべきだ」
レオンガンドの言葉には、感慨が込められていた。が、そのことについてセツナが思いを重ねる暇もなかった。すぐさま部屋の外で物音がしたかと思うと、物凄い勢いで扉が開け放たれ、紅い影が室内に飛び込んできたのだ。
「さっすが陛下! 話がわかる!」
「ちょ、ちょっとミリュウ!」
「それは《獅子の尾》だけですか!? 俺もついていきたいんですが!」
真っ先に飛び込んできたのはミリュウで、ファリアはそんな彼女を抑えようとしていたらしい。エインは、ミリュウに負けまいとしたようだが、身長と運動力の差が響いたようだった。
「……まったく、にぎやかな連中だな」
口々に喚く三人の様子に、レオンガンドが微苦笑を漏らしたのを見やりながら、セツナもまた笑うしかなかった。
「休暇を許したのは《獅子の尾》だけだ。ログナー方面軍には、ログナーの治安維持のために働いてもらう必要がある」
「そんなあ……」
「ただし、ログナー方面の不安が解消されたのであれば、セツナたちの休暇に帯同することを許可しよう」
「エイン=ラジャール、ただちにログナー方面に赴き、治安維持に全力を尽くしてまいります!」
「頼むぞ」
レオンガンドがそういったのは、エインの姿が室内から掻き消えてからだった。レオンガンドの一言一言に顔色を急変させるエインの様子は面白くもあったが、同時に彼の素直さが現れてもいた。そして、行動力の凄まじさは、圧巻の一言だろう。その行動力が、戦場においては戦術を練る力になるのかもしれない。
エインがいなくなっただけで静寂に包まれた部屋の中で、ミリュウがぽつりとつぶやいた。
「……なんていうか、単純ねえ」
「あなたもでしょ」
ファリアがため息をついて、やれやれと頭を振った。
単純で扱い易いのは、自分も同じなのかもしれない。などと、ひとごとのように考えながら、セツナは傷痕の痛みに顔をひきつらせた。
「実にセツナ様らしいお答えですな」
ゼフィル=マルディーンが納得したようにつぶやいたのは、王宮への道中のことだった。
「ああ。しかし、予想通りではある」
彼ならば、あの少年ならば、極刑を望んだりはしないことはわかりきっていた。彼は元来、おとなしい子犬のような人物だ。戦場では黒い嵐となって惨禍を撒き散らしているのだが、戦時と平時では別人のように変わってしまうのがセツナという少年だった。性格そのものが変わっているのではないかと思うほどの豹変ぶりには、一時期、レオンガンドも恐怖を感じたほどだ。
戦場のセツナは、敵も味方も畏怖する化け物じみた存在である。一騎当千を地で行く怪物であり、彼の前に敵はないといってもいいほどだった。ドラゴンすら撃滅するのだ。もはや彼に敵うものなどいないのではないかと思うのだが、果たして。
そんな彼が平時では年相応の少年に変わってしまうのだから、人間というのは不思議な生き物だ。いや、人間が不思議なのではない。彼が不思議なのだ。平時のセツナ・ラーズ=エンジュールは、どこにでもいそうな朴訥な少年であり、その性格的に考えても、エレニアを殺したくはないという結論に至るのは、火を見るより明らかだった。
そして、彼はレオンガンドたちの思った通りの結論を出した。エレニア=ディフォンを殺さないで欲しいという彼の望みは、そのままレオンガンドたちの方針となった。
「これで、彼女を生かす正当な理由ができたということですね」
「被害者が望んでいるんだ。これ以上の理由はあるまい」
「太后派はそれを許すでしょうか」
「許すまい。彼らとしては、暗殺未遂事件はなんとしてもエレニアの死でもって終わらせたいはずだ。ログナー家を潰せなかった以上、エレニアだけでもわたしに殺させたいのだ」
エレニア=ディフォンを極刑に処せば、ログナー人の感情を煽る材料になりえた。たとえエレニアが暗殺未遂事件の実行犯であり、極刑に値するだけの重罪人であったとしても、すべてのログナー人が極刑を承認するわけではない。無論、国民感情を考えるならば、ガンディア人の気持ちも考える必要はあるのだが、刺されたセツナは生きているのだ。キリル=ログナーが責任を取って死んだだけで、溜飲は下がるだろう。
つぎに考えなければならないのは、ログナー人の感情である。
キリル=ログナーは、ログナー人にとっては、悪王であるとともに偉大なる国王だった。全盛期はシウスクラウドと並び立つ英雄であると喧伝されたほどの人物であり、ザルワーンに敗れ、属国に落ちるまでの彼は確かに英雄の風格があった。しかし、ザルワーンの属国となったログナーを待っていたのは、ナーレスによる策謀である。
キリルが酒色に溺れ、愚物と成り果てたのもまた、レオンガンドとナーレスの陰謀によるところが大きかったのだが、その事実を知っているものは少ない。
ともかく、キリル=ログナーが、暗殺事件の関与を否定しながらも、家と国を護るために死を選んだことは、ログナー人にとって衝撃的な事件だったはずだ。エレニアによるセツナ暗殺未遂事件の衝撃の余波が消えぬうちに起きた大事件は、ログナー方面になんらかの影響を及ぼすのは間違いなかった。
が、それでも、キリルが死ぬ以外に、ログナー家の窮状を救う方法はなかっただろう。あのままキリル=ログナーの審問が始まっていれば、ログナー家は暗殺未遂事件の首謀者に仕立てあげられたのは、太后派の動きを見れば明らかだ。ログナー家が関与しているという状況証拠が積み上げられていた。キリルが釈明するだけでは、どうすることもできなかった。
だから彼は、死を選んだ。
だから、エリウスは、父に死を命じた。
父を殺すことで、家を護った。
「キリルの死を無駄にしてはならないのだ。ログナー方面で問題が起きれば、それは彼の死を冒涜することになりかねない。彼はみずからの死を以って家を守り、国を守り、ログナー人を護ったのだ。我々も、彼に護られた。それを忘れてはならない」
レオンガンドは、自分に言い聞かせるように言った。
言い聞かせる必要があった。
忘れかけていたことを思い出させたのは、エリウスとキリルのその行動なのだ。