第五百十三話 背負うもの(一)
「セツナ様あああああああああああ――!」
隊舎全体を揺るがすような大音声とともに凄まじい物音が接近してきて、ファリアは、ミリュウと顔を見合わせた。聞き知った声と音は階下から響いてきており、その迫力の強烈さは、ファリアたちをして目を丸くさせるほどのものだった。
それは、地鳴りのような物音とともに階段を駆け上がると、廊下を駆け抜け、ファリアたちの目の前に飛び込んでくる。
「あああああああああああっ!」
叫び声を上げ続けながら突進してきていたのは、エイン=ラジャールだ。姿を見ずとも、声だけでわかったことではあったのだが。
「うるさい」
「むぐっ」
ミリュウが、目の前を通りすぎようとするエインの口を掌で塞いだものの、勢いをつけすぎていたエインは、止まりきれずその場で転倒した。尻餅をついた彼は、きょろきょろと周りを見てから、ミリュウを睨んだ。相変わらず綺麗な顔立ちの少年は、とても歴戦の軍団長とは思えない。
「なにするんですか! 急いでるんですよ!」
「急ぐもなにも、ここは隊舎で、セツナは安静にしなければならないんですよ」
「そうそう、騒いじゃ駄目よ」
ミリュウが唇に人差し指を当てると、エインは、きょとんとした。そのあどけない表情は、やはり彼の戦歴を忘れさせるのだが、彼がザルワーン戦争で為したことを思えば、その幼さを帯びた言動は演技ではないのかと思えてくる。
エインは、ザルワーン戦争において西進軍の作戦立案者として活躍し、論功行賞でも上位に挙げられており、将来が期待されるひとりだ。セツナたちのように個人戦績で評価されているものたちのような華々しさはないかもしれないが、彼がいなければバハンダール攻略はもっと難航したのは間違いなかったし、ミリュウたちを各個撃破に持ち込めたのも、エインのおかげだった。そして、ドラゴンから征竜野の戦いに至るまで、彼の能力は遺憾なく発揮された。
それだけの能力を有しながらも、普段の彼は、そんなことをまったく感じさせなかった。普段のエインはただのセツナ信奉者だというのが、ファリアの評価であり、それはおそらくなにひとつ間違っていないだろう。
エインは、その場で起き上がると、ファリアを見上げてきた。
「つまり、セツナ様は無事なんですね?」
「ええ。事件からずっと目を覚まさなかったけど、つい二日前に気がついたんですよ」
「そうですか……良かった」
エインが、安堵の息を吐いた。彼のセツナ信者ぶりは、周囲の人間が唖然とするほど熱烈なものである。暗殺未遂事件を聞いた瞬間のエインの様子が手に取るようにわかった。彼は発狂しそうになったのではないか。
「……で、なんであんたがここにいるの?」
「なんで、って、帰ってきたんですよ! 皆さんに続いて、ね」
「ザルワーンは放っておいてもいいんですか?」
「ザルワーンは、現在のログナーよりも余程安定していますよ。ミレルバス=ライバーンが、敗戦後のことを考えていたこともあって、戦後処理で問題が起きることもなければ、各地に反乱の気配もなくて。防衛戦力はザルワーン軍だけでも十分に賄えますしね」
「ログナーよりましっていうけど、ログナー、そんなに酷いの?」
「セツナ様暗殺未遂事件の影響でしょうけど、酷いってものじゃなかったですよ。ログナー解放同盟の活動が活発化していて、マイラムもマルスールも大変な騒ぎでした。都市警備隊も」
「解放同盟……か」
「これからはさらに酷くなるでしょうね。キリル様が死んだとあれば、それを理由に煽らない手はないのですから」
彼は、かつての主君であるキリル=ログナーの名に敬称をつけた。それはエインの無意識によるものなのか、意識的な言動なのか、ファリアにはわからない。しかし、キリル=ログナーが、以前は優れた為政者としてログナー国民に慕われていたことは有名であり、エインがキリルを慕っていたとしても不思議なことではない。もっとも、同輩を殺戮するセツナの姿に惚れたのが、エインなのだ。常識的な考え方は通用しないだろう。
「キリル様の死を無駄にしないためには、ログナー方面の安定が不可欠です。が、それに関してはドルカ軍団長たちに任せておけば大丈夫でしょう。第四軍団もそろそろ帰国の準備に入っているはずですし」
「ふうん……ガンディアも色々大変ねえ」
「あなたも、ガンディア国民で、ガンディア軍人なの。ひとごとじゃないわよ」
他人行儀なミリュウの反応に、ファリアは釘を差すように告げた。ミリュウは手をひらひらさせながら微笑んでくる。
「わかってるって。命令があればすぐにでも飛んでいきますわよ」
「あら、素直ね」
「……セツナがいるもの。なんだって出来るわよ」
彼女が伏し目がちにいった言葉は、本心だったのだろう。ファリアの胸にずしりときた。その重みの意味を測りかねて、ファリアは、呆然とした。
「そうですよ。セツナ様がいる限り、ガンディアは無敵です!」
「……なんとも賑やかだな」
「はは……悪気はないんですよ」
部屋の扉に目を向けたレオンガンドの横顔をまじまじと見つめながら、セツナは苦笑した。これほどの近距離でレオンガンドの顔を見ることができるのは、今回だけかもしれない、などと思ってもいる。
レオンガンドが側近のひとりも連れず、セツナの部屋を訪れたのには驚きを隠せなかった。もちろん、彼ひとりで王宮から《群臣街》の隊舎まで出向いてきたわけではあるまい。隊舎までは護衛やらなにやらで大人数だったのは想像に難くなかった。しかし、隊舎の中に入ってきたのは、レオンガンドひとりのようだった。いつもレオンガンドの背後に控えている女の姿もない。
療養中のセツナに負担をかけないようにと考えてくれたのかもしれない。セツナは、レオンガンドのそういった心遣いが嬉しくてたまらなかった。
そしていまさっきレオンガンドがいったのは、壁一枚挟んだ向こう側で騒いでいた三人のことだ。最初はファリアとミリュウが小声で話し込んでいたようなのだが、そこにエイン=ラジャールが加わったことで、室内まで響くような騒ぎになった。ついさっき、マリア=スコールが怒鳴りつけたことで静まったようだが、それも一時的なものだろう。ファリアはともかく、ミリュウとエインが黙っていられるとは思えない。
もっとも、あまりにもうるさく騒ぎ立てれば、マリア=スコールによって隊舎から追い出されることになるだろうが。
「わかっているさ。それだけ君が慕われているということもな」
「慕われている……」
「そうさ。セツナ、君は君が思っている以上に多くの人に慕われている。君にはわからないことだが、情報部のミース=サイレンなんて、カランを救ってくれた君を神のように崇めているんだ。一度君と会わせてみたいのだが、そうすると彼女は気を失ってしまうかもしれない」
「神のように、だなんて大袈裟ですよ」
セツナは、そういって否定したが、そのミース=サイレンという女性と同じような目線でセツナのことを見ている少年のことを忘れたわけではなかった。
「エイン=ラジャールも、君に神を見ているそうじゃないか」
「エインは……あいつは特別ですよ」
セツナは、ついつい笑い声を上げて、苦痛に顔を歪めた。腹筋が動くと、脇腹の傷が疼いた。完治するまでは笑うこともおぼつかない。不便だが、仕方がないと諦めるしかない。
エインは様々な意味で特別だった。彼は最初、ログナーに属し、セツナの前に立ちはだかった敵だったのだ。ログナー戦争の終幕に立ち会った人物でもあるのだが、アスタル=ラナディースの決断が少しでも遅れていれば、彼もセツナに殺されて死んでいたかもしれないのだという。それなのに、彼はセツナを熱烈に信奉していて、ナグラシアで初めて逢ったときのエインの喜びようは、セツナにとっては衝撃的だった。
「そうでもないんだよ、セツナ。ガンディアがここまで急速に勢力を拡大できたのは、君がいたからだ。君がいて、黒き矛を用いて戦ってくれたからだ。どれほど困難な任務にも不満ひとつもらさず、並み居る敵を蹴散らし、勝利をもたらしてくれたからだ。君がいなければ、ガンディアはログナー制圧にさえ手間取っていただろう。ナーレスがいうんだ。間違いない」
セツナは、レオンガンドの声に耳をそばだてた。レオンガンドの声は、いつ聞いても耳心地がよく、まぶたを閉じて聞き入りたくなったが、さすがにそれはできなかった。主君の前でそのような無作法はできない。ベッドで寝ていることすら、不敬に当たるのではないかと冷や冷やした。
「セツナ。君は、ガンディアにとっては英雄以外のなにものでもないんだ。君を領伯に任命したのも、その英雄的功績を讃えるには、それ以外になかったからだ。わたしに年頃の娘でもいれば、嫁がせたかもしれないな」
そういって、レオンガンドは微笑した。失った左眼を眼帯で隠した顔は、多少厳しさを帯びたものの、カランで会ったときと変わらない美しさと気品があった。無事な右眼は澄み切っていて、わずかな濁りさえ見当たらない。
「そんな君を殺害しようとしたものが国内にいたことは、無念としかいいようがない。済まなかった。君がわたしを護るように、わたしもまた、君を護らなければならなかったというのに、なにもできなかった……」
レオンガンドが謝ってきたことには、セツナは衝撃を受けた。謝られるようなことではないと、彼は心の底から思っている。
セツナが刺されたのは、レオンガンドのせいではないのだ。