第五百十話 彼の目覚めは唐突に(二)
「夢を見ていたんだ」
長い間寝ていたというのに、疲れが取れるどころかむしろ疲労を覚えている肉体に苦笑したくなった。
寝すぎて逆に疲れるとは何事なのだろう。
そんなことを考えつつも、体を動かすたびに脇腹に走る痛みが、殺意の刃を思い出させて、彼の表情を強張らせた。が、周囲の人達を心配させまいと、彼はすぐに笑みを浮かべた。この数日、心配をかけまくったようなのだ。もう二度と、心配させるようなことがあってはならない。
「辛い夢、痛い夢、悲しい夢、怖い夢……いろんな夢を見たんだと思う」
「思う?」
「はっきりしないんだよ。なにもかも夢の彼方でさ」
セツナは、怪訝な顔のミリュウにそう返して、小さく笑った。笑うことでしか説明できないような感情が、心の中に渦巻いている。
長い、とても長い夢を見ていたのは、間違いない。
しかし、夢の記憶は、覚醒とともに欠落してしまっていた。どんな夢を見ていたのか、まったく思い出せないのだ。断片的な感情しか、浮かび上がってこない。そんなことはどうでもいいことなのはわかっている。だれも、夢の内容なんて知りたくもないはずだ。
ゆっくりと息を吐いた。
日差しの穏やかな日だった。ベッドの上から見える窓の向こうの青空が、セツナの胸に妙な懐かしさを刻んでいく。どこか滲んだような青さは、イルス・ヴァレと呼ばれる世界特有の空の色彩なのだ。召喚されて数ヶ月、何度も見てきた空だというのに、いまはなぜか懐かしい。
(何年も眠っていたような気さえしてくるな)
実際は、三日ほど眠っていただけのようだが。
一度目が覚めたのは、昨日のことらしい。夕日が差し込む部屋の様子を少しばかり覚えている。気だるさの中でファリアとミリュウの姿が飛び込んできて、意識が途絶えた。気が付くと、空の色が変わっていたのだから驚きだが、また気を失ったというのなら納得だ。
《獅子の尾》隊舎のセツナの部屋らしい。全面改装してからというもの、あまり入っていないこともあってか、変な居心地の悪さがあった。それは全身を包む倦怠感のせいもあるのかもしれない。
目が覚めて最初に感じたのは空腹感であり、つぎに生きているという実感だった。それから、室内に集まった人々のことを考えた。ファリアにミリュウ、ルウファ、エミル=リジルの姿もあり、カランで出会った少女と警備隊員もいた。ひとりだけ、名前も知らない白衣の女性がいたが、医者に違いない。セツナのことを看てくれていたのだろう。
当初、ぼんやりとしていた意識が、時間とともにはっきりしてくると、腹が鳴った。ファリアやミリュウは、呆れたものだが、医者らしき女性はそれこそ生きている証拠なのだといって、微笑んでくれたものだ。
しかし、数日間眠り続け、なにも口にしていないということは、胃が多少なりともしぼんでいるということであり、食事にも気をつける必要があるとのことだった。スープ類で様子を見るべきだという医者の忠告には従わざるを得ず、スープだけで空腹を満たした。
それから、一時間ほどが過ぎている。
室内の風景はさほど変わっていない。飲み干されたスープ皿がベッドの脇に置かれている程度で、ファリアとミリュウがセツナの顔を注視している状況に変化はなかった。ふたりは、ほっとしながらも、まだ安心しきってはいないとでもいうような緊張感を抱いているらしい。
皆が心配してくれていたことがわかって、嬉しかったというのは紛れも無い事実だった。ファリアもミリュウも取り乱すほど心配してくれていたらしい、というのはルウファからの情報であり、彼はそんなことをセツナに告げ口したため、ふたりから説教を喰らうはめになった。それでもみんなが喜びを隠せないという表情であり、態度なのが、セツナには嬉しくてたまらなかった。
生きていて、良かった。
心の底から、思う。
皆に再び逢うことができて、良かったのだ。
「なんにしても、良かったじゃないか。隊長殿の意識が戻ったんだ。看病したかいがあったというものさね」
そういったのは、医者の女性だった。金髪碧眼の少しきつめの美人は、室内で一番上背があった。軍人にも負けないような体格の持ち主ではあったが、軍人ほど鍛えられた肉体ではないのは一目瞭然であり、軍人かどうかは聞くまでもなかった。エミルと同じく医療班に所属している可能性は低くはないが。
気楽な物言いが、セツナの性格に合うかもしれない。そんなことを考えるくらいには、精神的な余裕が生まれ始めている。
「王宮も昨夜から大騒ぎですよ。陛下はすぐにでも見舞いに行くべきだと仰られたそうですが、隊長、また気を失っちゃいましたからね」
「俺のせいじゃねえし」
セツナがつぶやくと、ファリアとミリュウは視線を逸らしてばつの悪そうな顔をした。ふたりが一斉に飛びかかってきたから、その衝撃で意識を失ったのだとセツナは思っている。実際、それ以外には考えられないのだが、だからどうということはない。おかげで一日余分に寝てしまったが、必要なことだったのかもしれない。
一日余分に寝ても、疲れが取れきっていないのだ。
寝過ぎたから疲れたのか、疲れたから寝過ぎたのか。
セツナにはわからない。
そもそも、疲れていたのかどうかすら、思い出せない。
記憶がぼやけている。
刺された瞬間のことは、はっきりと覚えているというのに、そのときの自身の状態というものは明瞭ではなかった。
『死んでよ』
エレニア=ディフォンの魂の叫びは、いまもセツナの耳に残っている。思い出すたびに胸が締め付けられるのは、その慟哭を黙殺することなどできないからだ。自分には関係のないことだと、切り捨てることができない。割り切れない。
ウェインを殺したのはセツナなのだ。その事実を否定できるはずもない。だからといって、彼女の殺意を受け入れる道理はないのだが。
(一度、殺されたんだな)
傷口がわずかでもずれていれば、応急処置が間に合わなければ、ファリアたちの到達が遅れていれば、セツナが死んでいたのは間違いないらしい。生きているのは奇跡に近いということであり、様々な出来事が良い方向に働いたからこそ、セツナは一命を取り留め、再び、ファリアたちと言葉を交わすことができたのだ。
「お姉ちゃんたちが飛びかかるから……」
と、少女がいった。召喚されて間もなく出会った少女。名はエリナ=カローヌといったか。セツナが燃え盛るカランの街へ赴くきっかけとなった少女は、あのときとは見違えるほど可愛らしくなっていた。元々、可愛らしくはあったのだが。
「あ、あたしのせいじゃないわよ」
「わたしだって、なにもしていないわよ」
ふたりがしどろもどもになる様がおかしくて、セツナは笑いを堪えきれなかった。笑うと、腹が震えて、傷口が悲鳴を上げる。塞がりきってはいないらしく、まだしばらくは安静にしていなければならないということだった。
「だいじょうぶ?」
ふと見ると、エリナの顔が間近にあった。セツナのすぐ側はファリアとミリュウによって占拠されていたのだが、小柄な彼女はものともしないようだった。
「だいじょうぶだよ、エリナ」
セツナは、心配をかけまいと微笑むと、彼女の頭を撫でた。少女は満面の笑みを浮かべた。どこからともなく妙な圧力を感じたが、きっと気のせいだろう。
「だいじょうぶ」
もう一度いって、彼はベッドの上で横になった。上体を起こしていたのは、三十分にも満たない短時間だったが、疲れがでてきていた。
「セツナ?」
ファリアが心配そうな顔をしたが、セツナは、彼女の不安を消すために精一杯の笑顔を見せた。
「少し疲れただけだよ」
そういいながら、睡魔が忍び寄ってきていることを自覚する。もう二度と目覚めることはないのではないかという不安はなかった。ファリアやミリュウ、ルウファたちが見守ってくれているのだ。不安などあるはずもない。
安堵が、眠気を助長しているのかもしれない。
そんなことを考えていると、視界がぼやけた。瞼をこすると、軍医が優しい口調でいってきた。
「疲れたのなら、ゆっくり眠ることですよ、隊長殿。まだ完全に回復したとはいえない状態なのですから」
「うん……そうさせてもらおうかな」
そういわれるまで踏み切れなかったのは、複数の視線が心配そうにしていたからにほかならない。数日間、眠り続けていたのだ。またすぐに眠るというのは、彼女らの不安を煽りかねなかった。
セツナは安心しているからこそ眠るのだが。
「あんたたちも、隊長殿のことを心配するのなら、静かにすることだね」
「いわれなくてもわかってるわよ! ね、ファリア?」
「ええ、当然よ」
なにやら反目し合っているように見える三人だが、険悪な空気になるようなことはなかった。窓から入り込む風が、彼女たちの髪を揺らした。




