第五百九話 彼の目覚めは唐突に
「いつまで寝ているつもりだ?」
嘲るような声が聞こえると、ついさっきまで意識を支配していた睡魔が消えて失せた。かと思えば肉体は軽くなり、気だるさが取れていく。
なにが起きたのか判然としないまま、彼は上体を起こすと、声の主を探して視線を巡らせた。だだっぴろい草原の真っ只中。ぽつんと置かれたベッドの上に、彼はいる。頭上には目に痛いばかりの青空があり、流れる雲の白さには心が洗われるかのようだ。
「そんなことを考えている場合ではないだろうに」
こちらの考えを見通しているかのような相手に憮然としながら、周囲を百八十度見回した頃、声の主が見つかった。
「だれだよ?」
ひとの夢に土足で上がり込んでくるのは、といいかけて、やめた。これが夢なのか、現実なのか、彼の中では定かではない以上、藪蛇になりかねない。
「俺は俺さ」
相手は、どうでもよさそうに告げてきた。実際、彼にとってはどうでもいいことなのかもしれない。
黒い、存在だった。頭の天辺から足の爪先まで黒一色で、眼球すらも真っ黒だった。その黒く濁った眼球の虹彩だけが、赤く発光している。まるで皇魔のようだ、と彼は思ったが、口にはしなかった。
(皇魔?)
胸中で頭をかしげる。皇魔とはなんだったか、思い出せない。皇魔という単語だけが頭に浮かんだのだ。思い出せないということは、思い出さなくてもいいことなのかもしれない。そんなふうに適当に片付けて、彼は相手を再度観察した。背格好は彼と同じくらいだろう。髪の長さも、全体的な輪郭も、彼によく似ている。鏡を見ているような錯覚に襲われるのは、そのせいかもしれない。
「では問うが、おまえはだれだ?」
「……俺? 俺は……」
彼は、答えを考えなくてはならない事実に愕然とした。自分のことだというのに、即座に言葉が出なかった。自分がいったいなにもので、なぜここにいるのか、まったくわからないし、見当もつかない。
「神矢刹那」
苦慮の末、その名を言葉にした時、彼は、意識の奥でなにかが弾けるような感覚を覚えた。なにかが意識の外から記憶の深奥へと逆流してくるのがわかる。セツナ=カミヤ。黒き矛のセツナ。セツナ・ゼノン=カミヤ。竜殺しセツナ。セツナ・ラーズ=エンジュール。いくつもの名前。いくつかの二つ名。いくつもの思い出。いくつもの記憶。数えきれない出会いと別れ。戦いの音。血の臭い。
「そうだ。俺は、セツナだ」
思い出してしまうと、なぜ思い出せなかったのかがわからないくらいに簡単な問題だったということに気づく。
「ようやく、思い出せたのか」
「ああ。思い出せたよ、あんたのおかげで」
セツナはベッドから飛び降りると、黒い存在と対峙した。それがいったいなんなのかも見当がつく。夢にさえ介入してくる黒いものといえば、ひとつしか思いつかない。黒き矛。カオスブリンガー。
「……さっさと目を覚ませ。だれもがおまえの帰還を待ち侘びている」
「目を覚ます? なにをいってるんだか。俺は死んだんだぜ」
セツナは自嘲した。せざるを得まい。油断が、自分を死に至らしめた。長い戦いが終わり、勝利の余韻に浸りすぎたがために、明確な殺意に気づきもしなかった。気を張っていれば、あの使用人がエレニアだということに気づいた時点で、警戒するなりしたはずだった。それをしなかったのは、完全に油断していたからだ。自分が殺されるはずがないと高をくくっていたのかもしれない。
しかし、現実はどうだ。
エレニアの殺意の刃を避けることもできず、腹を刺されて、死んだ。死んでしまった。意識が途切れたということは、それ以外には考えられなかった。
「確かに、このまま目を覚まさなければ、おまえの肉体はいずれ死ぬな」
「だからさ、とっくに死んでるんだよ」
「ならばなぜ、おまえは夢を見ている」
「夢……夢?」
「そうだ。これは夢だ。おまえがいつもみるくだらない夢さ」
「くだらないは余計だ」
口を尖らせて言い返したものの、彼のいうことも間違いではないかもしれないとも思った。死んだのならば、こうしてなにかしらの意志を発することなどできないのではないか。死ねば、意識は途切れ、なにもかも闇に沈む。無になる。
意識があるということは、生きていることの証明なのではないのか。
「死ななかったのか」
「悪運の強い男だ」
「生きているのか」
つぶやくと、全身に力が漲ってくるような感覚があった。ここが夢の世界ならば、意志が力となるのも不思議な話ではない。そして、彼が目の前に現れたことも、夢の世界ならば有り得ることだ。それは、夢と現の狭間に現れるのだから。
「だが、生きて現世に戻れば、待っているのは地獄のような戦いの日々だ」
「それでも、俺は生きたいよ。生きていたい」
「ならば、目を覚ますことだ」
「どうやって」
「さあな」
黒いものは、こちらを見て、笑った。黒いものの輪郭が歪んだかと思うと、あっという間に崩れ去り、一本の矛だけがその場に残された。いつ見ても禍々しいばかりの漆黒の矛は、現実世界で見る時よりも凶悪な面構えに見えてならない。
「身勝手なやつ」
セツナは苦笑とともにつぶやくと、黒き矛の柄に触れた。夢の世界だ。現実のように意識が拡張されることはなかったし、変化が起きることはなかったが、この状況を切り抜けるには、夢の産物であっても黒き矛の力を借りるしかあるまい。
「睡魔ってさ、そういうんじゃないだろう?」
だれとはなしに問いかけたのは、草原の各地に化け物が出現したからだった。皇魔によく似た怪物の数は、千や二千ではなく、草原を埋め尽くすほどだ。たったひとりで戦い抜けるとは思えないのだが、ひとりでないのならば、戦える。
セツナには、黒き矛という心強い味方がいた。
「夢はここまでだ」
「お兄ちゃん……」
エリナ=カローヌの心配そうな横顔を見て、ファリアは彼女の頭を撫でた。心配なのはファリアも同じだし、気が気ではないくらいなのだが、エリナやミリュウがいる手前、、取り乱すことなどできるわけがない。
隊舎に入ったファリアたちは、セツナが運び込まれた部屋に向かった。そこで門前払いを喰らうかと思いきや、軍医に従うのならば入ってもいいと許可を貰うことができ、数日ぶりにセツナの顔を見ることができたのだ。
セツナが運び込まれたのは、セツナの寝室だった。私物などほとんど見当たらない、がらんとした部屋は、一見すると病室のようだった。窓際に配置された寝台の上で、彼は眠っている。眠り続けている。食事も取らないということは、活力を失いつづけるということであり、このままでは衰弱していくだけなのではないか。ファリアはそう思ったが、彼が目覚めなければ、手のうちようがないのも事実だ。軍医の腕の問題ではあるまい。
「で、どうなのよ、実際」
「容態は安定してきてはいるわ。王宮にいるころよりもね」
寝台の隣の椅子に腰掛けたマリア=スコールが、ミリュウの質問に答えた。王宮の医務室にいるべきはずのマリアが隊舎にまで出向いてくれているのは、セツナの回復こそ優先するべきだというレオンガンドの配慮なのかもしれない。
「王宮にいるのがまずかったんじゃないの?」
「どうかねえ。領伯様は夢の中よ? ここが王宮の中なのか、《獅子の尾》の隊舎なのか、わかってもいないんじゃない」
マリアはいって、セツナに視線を移した。つられるようにして、そちらを見やる。セツナは相変わらず、目を覚ます兆候すら見せない。しかしながら、その表情は穏やかで、苦痛を感じてはいないということがわかり、ファリアは安堵を覚えた。
セツナが苦しむ姿は見たくはなかった。
「そっか……。でもさ、容態が安定してきたってことは、回復してるってことでしょ? じゃあ、すぐに目覚めるかもね!」
「え、ええ、そうね」
ファリアは曖昧にうなずいたが、マリアが微妙な表情を浮かべているのを見逃さなかった。軍医が楽観的になれないのは、セツナの回復が簡単なことではない証明ではないのか。
そもそも、セツナがなぜ目を覚まさないのか、その原因がわからないというのだ。痛みが原因ならばとっくに目覚めていてもおかしくはないといい、犯行に使われた短剣に未知の毒が塗られていたのだとすれば、その毒を解明しなければならない。が、どうやらそうではないらしい。短剣の刀身に毒が塗られていたのは間違いないのだが、それは暗殺を確実にするための神経毒であり、体の自由を奪うためだけのものだったのだ。
傷口は深いものの、致命傷にはならなかった。急所をわずかに外れたのだ。それでも、ファリアたちの到着が一瞬でも遅れていれば、彼が殺されていたのは疑いようがない。馬乗りになったエレニアは、セツナに止めを刺そうとしていたのだから。
間に合ってよかった。
いまさらのように思う。
もしあのとき、間に合っていなければ、ファリアたちはこうしてセツナの回復を祈ることすらできなかったのだ。
「お兄ちゃん、元気になってね」
「あ!?」
ミリュウが素っ頓狂な声を上げたので、ファリアははっと現実に戻った。我に返るとはこういうことをいうのだろうと思いながら、ミリュウの騒々しさに笑みを浮かべる。彼女が元気になったのは、ファリアの精神衛生的にも良いことだったのは間違いない。
そんなことを考えていると、ふと、エリナがセツナの寝顔に口づけているのが視界に飛び込んできて、ファリアは頭の中が真っ白になった。
「エリナ!?」
「あんた、いくら子供でも、していいことと悪いことがあるでしょ!」
「え!?」
ミリュウの剣幕にエリナはびっくりしたようだったが、ファリアは、むしろミリュウに加勢した。
「そうよ、エリナ」
「ファリアお姉ちゃんまで!?」
「子供であっても容赦はしないわ」
「容赦はするけど」
「しちゃ駄目でしょ」
「あのねえ……」
「ふたりとも、怖い」
エリナがなにやら漏らした言葉は聞き流しながら、ファリアはミリュウがセツナに接近しようとするのを牽制した。ミリュウは必死だったが、ファリアも必死だった。凄まじい攻防は、マリア=スコールが言葉を発するまで続いた。
「ったく、絶対安静の患者の前で賑やかだね。立入禁止にしてもいいんだよ?」
「えー!? それは困るわ!」
「困りますよ!」
ファリアは、ミリュウとともにマリアに詰め寄った。現状、この部屋を支配するのは、本来の部屋主であるセツナではなく、軍医である彼女なのだ。マリアが決めたことには、ファリアといえど従わざるをえない。そうである以上、立入禁止にされるわけにはいかなかった。
と。
「つーか、うるせえ」
ぼそりと、だれかがいった。
『へ?』
ファリアはミリュウと顔を見合わせ、それから声のした方向に目を向けた。ひとつしかない寝台の上、多少やつれた黒髪の少年が、不機嫌そうに天井を睨んでいる。
血のように紅い瞳が、虚空を見ていた。
『セツナッ!』
ファリアとミリュウは異口同音に叫ぶと、同時に、彼に飛びついていた。
セツナが悲鳴を上げ、《獅子の牙》の隊士たちが隊舎に飛び込んでくる事態に発展したのは、いうまでもない。