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第五百三話 事件、再び

 眠い。

 ただただ、眠い。

 体はだるく、思い通りに動いてはくれなかった。圧倒的な眠気と、夢の世界への甘美な誘惑を振り切ることは、それほどまでに難しく、彼は何度か抗えずに眠ってしまった。眠るたびに夢を見るのだが、その夢の内容は、目が覚めると忘れてしまう。忘れるということは覚えている必要のない夢なのだろうと思うのだが、妙に気になった。

 気にする必要はない、とだれかがいった気がしたが、そのだれかがわからなくて煩悶した。

 睡魔に抗うように瞼をこじ開けると、見知った天井があった。白塗りの天井に設置された蛍光灯は、点けっぱなしのままだった。電気の無駄遣いと母に怒られるかもしれない。

 長い長い夢を見ていた。

 本当に長い夢だったように思う。

 ひとを殺すような夢だったような気がするのだが、詳細は思い出せない。ただ辛く、苦しいだけの夢だったのだ。きっと。だから脳は思い出すことを拒絶している。

 ゆっくりと息を吐く。

「夢……か」

 なにか、大切なことを忘れている気がする。

 とても大事なことを忘れてしまっている。

 思い出せない。

 思い出そうとしても、頭のなかに靄がかかったかのようで、なにも思い浮かばなかった。

「夢が、どうかしたの?」

 甘い囁きに右隣を見て、彼はどきりとした。青みがかった髪の美女が、彼の隣にいたのだ。惚けているようなまなざしは、彼女が恍惚とした気分の中にいることの証明なのだろうが、彼にはいまいち理解できない。が、すぐに彼女と自分の関係がわかって、彼は納得とともに微笑んだ。

 彼女は最愛のひとであり、同じベッドで寝るのは当たり前だったのだ。彼女のしなやかな腕が字部分の腕に絡みつているのも、いつものことだ。

「夢を見ていた気がするんだけど、なにも思い出せないんだ」

「……思い出さなくてもいいんじゃない?」

「そうそう。辛いだけの夢ならさ」

 今度は左隣から聞こえた。

 驚いて振り返ると、赤い髪の美女が、これまた同じように恍惚とした表情で彼を見ていた。蒼い髪の女性よりも多少年上だろうか。そんなことを考えている内に、彼女と自分の関係もわかった。彼女もまた、彼にとって大切な女性だった。

 ベッドがいつの間にか広くなっている気がするが、気のせいだろう。最初から、三人で寝ることのできるベッドにいたはずだった。

「夢なんて忘れていいのよ」

「現実にこそ、生きなきゃね」

「現実……」

 反芻して、呆然とする。

 現実とはいったいなんなのだろう。

 この夢の様な時間は、本当に現実なのだろうか。蒼い髪の女性はだれで、赤い髪の女性はだれなのか。名前を思い出せなければ、どこで知り合ったのか、どうして一緒にいるのかもわからない。ただ、ふたりが大切なひとだということしかわからないのだ。

「現実」

「どうしたの?」

「ねえ――」

「俺の現実……って、どんなだっけ」

 ふたりの声が聞こえなくなったのは、きっと、それ自体が夢の産物だったからに違いなかった。

 情景がめまぐるしく変わっていく。

 赤く、紅く。

 血のように。

 炎のように。

「死んでよ」

 慟哭が聞こえたのは、彼が現実を認識する必要に迫られたからかもしれなかった。



「まったく……人の気も知らないでいい気なものさ」

 マリア=スコールは、別段変化のないセツナ・ラーズ=エンジュールの寝顔を見つめながら、そんなことをひとりごちた。

 真夜中の病室は、当然、彼女と患者以外だれもいない。その上、魔晶灯の光もなければ、完全に閉めきった窓から月明かりが差し込むこともなく、完璧に近い闇の世界が形成されている。完全な闇には不完全な静寂が横たわる。聞こえるのは患者の寝息であり、規則正しい音色は、彼の容態が多少は安定していることを示しているのだろう。

 セツナが瀕死の状態で医務室に運び込まれてきたのが八日の夜のことだった。それから二日が経過しているにも関わらず、彼は目覚めの兆候さえ見せなかった。縫い合わせた傷口はまだ塞がりきってはいないのかもしれないが、それは時間の問題だ。時間が解決してくれる。しかし、彼の意識が戻るのかどうかは、時間が経過すればどうにかなるというものではなかった。

「隊長さんの大切な部下は、不在のあんたの代わりを務めなきゃならないから、大変なんだよ。わかってんのかね」

 いったところで、セツナが返事をするはずもない。健やかな寝顔は相変わらずで、その寝顔たるや、とても戦場で鬼神の如く暴威を振るう黒き矛の召喚師とは思えなかった。ごく普通の少年そのものであり、彼が領伯に任命された事実すら忘れてしまいかねないほどだ。寝顔ほど無防備なものはないが、その無防備な顔を見れば、その人物の本質が多少は窺えるものなのかもしれない。ふと、そんなことを思った。

 不意に背筋に緊張感が走って、彼女は息を止めた。軍医として戦場を見てきたマリアだったが、このような緊張感を覚えたことは一度たりともなかった。気配がある。足音は聞こえない。だが、空気が動いているのがわかった。なにかが、こちらに向かって近づいてきている。

 静かに振り返ると、闇に慣れた目が黒い物体を捉えていた。

「気づかなければ、恐怖を覚えることなく死ねたものを」

 低くくぐもった声は、黒い物体が発したものだった。暗殺者なのは疑いようもない。セツナに止めを刺そうというのだ。王宮警護の厳重な警備を掻い潜ってここまで潜り込んできたのは、賞賛に値するのかもしれないが。

「あんたたちも懲りないねえ」

 マリアは、冷ややかにつぶやいた。セツナを殺させるわけにはいかないのは、医者として当然のことだ。

「黙れ」

「貴様には洗い浚い話してもらうがな」

「なっ!?」

 なにか物凄い音がして、黒い物体が左へと飛んで壁に激突した。音だけでそう認識したのだが、マリアの記憶では左手には壁しかなかったので、間違いはあるまい。一瞬前まで黒い物体が立っていた場所に、別の人物が立っている。カイン=ヴィーヴルだ。

「遅いんじゃない?」

 マリアがいったのは、カインは医務室に入ってすぐの部屋に待機していたはずであり、暗殺者が入ってきたときに気づくはずだった。寝ていたわけでもあるまい。

「まさか、暗殺者が正面から入ってくるとは思いもしなかった」

「窓は閉じてるんだ。正面から入ってくるしかないんだけどね」

「そうだったな」

 素っ気なく同意したカインは、すぐさま暗殺者へと歩み寄った。カインの一撃を食らい、壁に激突した暗殺者は、気絶してしまったらしく、動く気配さえなかった。

「事件から二日後……か。多少は気が緩んだところを狙ったと見るべきか。陛下の敵は、余程エンジュール伯が邪魔と見える」

 カインが暗殺者の身ぐるみを剥がすのを音だけで聞きながら、マリアはセツナに視線を向けた。彼は相変わらず暢気な寝顔を浮かべていて、彼女は肩を落とした。

「なるほど……そういうことか」

「え?」

「こいつは、ログナー家の使用人だ。つまり、領伯暗殺事件にログナー家の直接的な関与を示す証拠というわけだ」

 カインが告げた言葉が示すのは、ガンディアの政情が荒れるということにほかならないのではないか。

 マリアは、胸騒ぎを覚えた。



 ファリアたちがガンディオンに帰還したのは、十月十一日正午のことだ。

 王都に帰還を果たした迎撃部隊は、王宮でレオンガンドの賞賛と激励を受け、部隊を解散。各自、本来の部署に戻った。ファリアたちは元より《獅子の尾》として参加していたため、解散するまでもなかったが。

 十日午後、カルセルア丘陵に展開したガンディア軍は、アザーク軍と戦闘を開始。戦闘は一時間足らずで終わり、小競り合いといっても過言ではないような戦いしか起こらなかった。

 初手で勝敗が決したといってもいい。

 ガンディア、アザークの両軍はふたつの丘の上に布陣しており、睨み合いのまま夜を越え、朝を迎えるだろうとだれもが思っていた。だが、アザークの一部隊が突如動きを見せ、均衡を破ったことで、戦闘が開始された。

 アザークの一部隊に対応したのは、ファリアたち《獅子の尾》である。ルウファを隊長代理とする《獅子の尾》は、まさに獅子奮迅の活躍を見せた。まず、ルウファとファリアによる遠距離攻撃で敵部隊の動揺を誘うと、ミリュウが突貫した。ミリュウは、独自の召喚武装を用いて、敵部隊に多大な打撃を与えることに成功し、ファリアとルウファの追撃が敵部隊の被害を拡大させた。

 敵部隊は瞬く間に半壊、そこへガンディア本隊の弓射がとどめを刺す格好となった。突出した部隊が潰走したことで、アザークの残りの二部隊は浮足立った。《獅子の尾》が丘を駆け上った頃には、アザークの全部隊が撤退し始めていた。

 ファリアたちは、独自の判断で追撃戦を展開。アザーク軍を追い立て、多少、戦力を削り取ることに成功した。

 アザーク軍がカルセルア丘陵から完全に去ったことを確認して、ファリアたちは本隊に合流。勝利を報告した。そして、迎撃部隊はカルセルア丘陵を引き払い、王都へと帰還を果たしたのだ。

 セツナ不在の《獅子の尾》が活躍したことは、王都のひとびとに多少の安堵を与えたようだった。セツナがいなくとも、《獅子の尾》は強力な部隊だということがわかったのだ。安心もしよう。

 王宮への道中、ファリアたちは王都のひとびとから数多の声援を受けた。セツナのいち早い回復を願う声、セツナの復帰を望む声、セツナが領伯になったことを祝福する声、ファリアたちの活躍を喜ぶ声――声援のほとんどは、セツナに関することばかりだったが、それは仕方のないことだ。《獅子の尾》といえばセツナを隊長とする部隊だったし、セツナはガンディア躍進のきっかけであるということは国民のだれもが知っていることだ。暗殺されかけたセツナを心配する声が多いのは、必然だった。

「セツナ、凄い人気なのね……」

 ミリュウがつぶやいたのは、レオンガンドへの報告を終えて、隊舎へ戻る道中だった。

 ファリアはうなずいたが、彼女自身、実感としては程遠いものがあった。なぜならば、平時は王宮と群臣街を行き来するのが彼女の日課であったし、戦時は外征先に出向いていて、国民からの人気の高さを実感することなどできなかったからだ。セツナが王都の人々の心を掴んでいるのは、なんとなくは理解していた程度に過ぎない。

 王都凱旋時のセツナへの声援の多さは、レオンガンドに次ぐものであり、彼の人気の高さはそこで認識したのだ。

 そんな彼が刺され、いまも意識不明だという事実は、国民に不安を与えているに違いない。

「医務室に寄りたかったな……」

 がっかりするミリュウに、ファリアはあることを思い出して口を開いた。

「セツナ、医務室から移されたそうよ」

「え? どうして? っていうか、どこに?」

「昨夜、セツナの病室に暗殺者が忍び込んだらしいの」

「そんな!?」

 ミリュウが驚愕したのは無理もない。王宮は厳重な警備体制が敷かれているはずなのだ。暗殺者が忍びこむ余地などあるはずがないと考えるのが普通だ。ファリアもその話を聞いた時は、血の気が引いたものだ。

「カインが返り討ちにしたということだけど、陛下は事態を重く受け止めたのよ。ここまで警備体制が酷いと、王宮に置いておくのはむしろ危険なのではないかってね」

「そうね……そうよ。うん」

「それで、セツナは《獅子の尾》隊舎に移送された、って話」

「えー!? じゃあ、いつでもセツナに会えるってことね!」

「会えるかどうかはともかく、わたしたちが守らなきゃ駄目ってことよ」

 ファリアは、ミリュウの早合点に呆れつつも、注意した。浮かれて彼の寝室に飛び込まれても困る。

『王宮警護は信用できないからな。その点、《獅子の尾》の武装召喚師たちならば、信用に値する。そうだろう?』

 レオンガンドが囁いた言葉を、ファリアは忘れようがなかった。

「わかってるわよ!」

 俄然やる気が出たのか、ミリュウの表情が明るくなったことにファリアはほっとした。

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