第四百九十九話 長い眠り(二)
空が遠い。
遙か遠く、どこまでも遠い。
晴れやかな空は、青い海のようだ。
だとすれば、流れる雲は、青い海に過る白波だろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、彼はあくびを漏らした。
「眠い」
口に出してつぶやいてしまうほどに、睡魔の誘惑が狂おしい。眠れ、眠れと耳元で囁いているのだが、抗う気にもなれないのは、眠ったところでなんの問題もないように思えるからだ。なにもない。なにもする気も起きなければ、なにかをする必要もなかった。なにもかも終わってしまったのだから、続ける道理はない。
見渡す限りの草むらの真ん中に置かれたベッドの上で、彼は胡座をかいている。身につけているのは水玉模様の寝間着で、それは母が彼のために買ってくれた代物だ。そういう記憶だけは、鮮明に思い出せる。
それ以外のなにも思い出せないというのに。
「俺……なにしてたんだっけ」
セツナは、茫然と青空を仰いだ。
なにか、辛いことがあった気がする。
気がするだけで、本当かどうかもわからない。気のせいかもしれないし、思い違いかもしれない。本当に辛いことがあったとしても、思い出せないのなら仕方がない。
「えーと……」
なにかを考える気にもなれず、彼は寝台の上に寝そべった。草むらを駆け抜ける風と音が、耳に心地よかった。意識が遠のいていく。
やっと、眠れる。
そんな気がした。
『どうして? ずっと眠っているじゃないか』
嘲るような声は、ひどく、遠い。
「やれやれ」
そんな言葉を嘆息とともに吐き出して、自分の年齢を考えてしまうくらいには、マリア=スコールも女だった。女ではあったが、だからどう、ということでもない。年齢を感じさせないほど若く見えると評判の容姿は、彼女にある程度の自信と自負を与えてくれていた。彼女がその気になれば、男のひとりやふたり、すぐさま寄ってくるだろう。が、そんなことに現を抜かしている暇は彼女にはなかったし、男を漁る趣味もなかった。
仕事が第一だと、考えている。
だからこそ、仕事の邪魔になるものが存在することが許せないのだ。
たとえば、ついさっき追い出した連中――《獅子の尾》隊長補佐のファリア・ベルファリアと、ミリュウ=リバイエンのことだ。ふたりは、病室で眠り続けているセツナ・ラーズ=エンジュールのことが心配で、側に居たいといってきたのだが、セツナの容態はまだ不安定で、彼の病室に立ち入ることは許可できなかった。
マリアには、それでも食い下がる彼女らを無下に突き放すこともできず、仕方なしに隣室を貸し与えた。王宮の医務室は無駄に広い。一部屋貸したところで、有り余るのだ。問題はなかった。しかし、彼女らにはそれが良くなかったのかもしれない。壁一枚隔てた隣にセツナがいるという事実が、彼女らの不安を増大させたのか、どうか。
ふたりは昼過ぎから口論を始めたのだ。大声でがなり合うというものではなかったが、元より静寂に包まれた王宮の、とりわけ沈黙の保たれる医務室においては、少しばかりの大声が必要以上に強く反響したのだ。マリアは、セツナに影響があるかもしれないと思い、ファリアとミリュウのふたりを即刻退去させた。ふたりは食い下がると思いきや、マリアの命令に素直に従い、去っていった。セツナに悪影響があるといわれれば、従わざるをえないのかもしれない。
マリアは、ふたりのことを詳しくは知らないが、セツナに対して好意を抱いているのだけはわかった。好意があるからこそ側に居たいと想い、好意があるからこそ、マリアの言に従い、医務室を離れたのだろう。
(恋ってやつかい?)
彼女は、自分の人生がそういったものとは無縁なのだという事実を直視したものの、だからといって悲観したりはしなかった。むしろ、気楽だとさえ考えている。恋だの愛だの、視界を狭くするだけではないか。
そんなことを考えながら、もうひとりの邪魔者の存在を認識した。
「で、あんたはいつまでここにいるつもりだい?」
マリアは、医務室の壁に寄りかかる男を見た。怪物染みた仮面で素顔を隠した男の正体を彼女は知らない。凄腕の武装召喚師で、レオンガンドが信頼しているということがわかっていれば十分だと思っていた。素性を探るのは彼女の役割ではないし、そんな趣味もない。
マリアの仕事は、軍医として負傷兵の治療や処置を行うことであり、詮索ではない。
「もちろん、エンジュール伯が目を覚ますまで」
男は、当たり前のようにいってきた。名はカイン=ヴィーヴルだったか。ザルワーン戦争で片腕を失ったという話だったが、マリアには、彼の両腕が揃っているように見えた。幻覚ではないが、実物というわけでもないらしい。よくわからない話だ。
「永遠に眠り続けているかもしれないよ」
「それならそれで構わんさ」
「は」
皮肉も通じないのか、と彼女は悪態をつきたくなったが、やめた。口論は、ファリアたちと同じ轍を踏むことになりかねない。医務室から医者自身が出て行くなど、笑い話にもならない。
「医務室にあんたみたいのがいると、病人さえ寄り付かなくなりそうなんだがねえ」
「苦情なら陛下に具申するといい。俺は王命に従っているだけさ」
「……まったく、陛下の過保護にも困るよ」
「過保護か。彼は刺されたばかりだろうに」
言葉とは裏腹に、彼はセツナのことを哀れんでいるわけでもなさそうだった。
セツナは、昨夜、王宮で開かれた晩餐会の休憩中、エレニア=ディフォンによって殺されかけたらしい。実際、瀕死の状態だったのだから、暗殺未遂事件というのは間違いではない。
脇腹の傷は深かったものの、幸運にも急所を外れていたため、彼は一命を取り留めている。それと、応急処置の手際の良さが、彼の命を救った。
縫合した傷口が塞がりきるのはまだ先の話にしても、意識がまったく戻らないというのは、傷のせいではあるまい。
短剣に塗られていた毒は即効性の神経毒であり、暗殺を完全なものにするために使われたようだった。もちろん、未知の毒が使われた可能性も少なくはなかったが。
「領伯様はまだ狙われているのかい?」
「さあな。刺した連中の狙いがエンジュール伯の殺害なら、諦めはしないだろうさ」
「この厳重な警備の中で事に及ぼうとするのかい」
「それをいうなら晩餐会の夜はどうなる? 賓客も多く、いまの比ではない警備体制が敷かれていたんだぞ」
カインがあざ笑うように告げてきたのは、事実以外のなにものでもない。王宮は現在、物々しい警備体制が敷かれている。王宮警護、王立親衛隊を総動員しての警戒網なのだが、それは昨夜の晩餐会も同じことなのだ。いや、彼の言う通り、同盟国の王子夫妻や将軍が揃っていた昨夜のほうが、厳重な警備が敷かれていたはずなのだ。王宮区画だけではない。群臣街にも、市街にも、鼠一匹通さないほどの警備が行われていた。
それなのに、セツナは殺されかけた。失態どころの騒ぎではない。
「エンジュール伯を亡きものにしたい連中にしてみれば、この程度の警備、どうということはないのさ」
マリアは、彼の言葉に反論する気にもなれなかった、その通りだろう。昨夜以上の警備など、期待できるわけがないのだ。そうである以上、セツナを暗殺しようと考えている連中にとっては、特に問題などないのだ。
「だから俺のような奴が必要なんだろう」
装甲に覆われた左腕を抱えるようにして、彼はいった。龍を模した装甲は、淡い光を帯びている。ただの鎧ではないとでもいうのだろうが、マリアには興味のない話だった。