第四百九十八話 長い眠り
夜を越え、朝を迎えても、昼を過ぎても、セツナは目を覚まさなかった。王宮の医務室を預かる軍医マリア=スコール特製の鎮痛薬の効能によるものなのか、痛みに呻くようなこともなかったのは、ある意味では良かったのだろう。少なくとも、彼が苦しんでいるという情報を聞かなくていいのだから。
ファリアが目覚めたのは、医務室に泊まり込んだ三人の中で一番遅かった。真っ先に起床したのはルウファであり、彼は人数分の食事を確保するために王宮内を駆け回ったそうだが、そこまでする必要はなかっただろう。《獅子の尾》は王立親衛隊である。使用人に命令すれば、即座に運んできてくれたはずなのだが、彼はそれをしなかった。気分を紛らわせる必要があったからなのかもしれない。まるで兄弟のように仲のいい人物が刺されたとなれば、ルウファだって衝撃を受けざるを得まい。
ファリアは、ぼんやりと、遅い朝食をとっていた。時計は既に正午を過ぎ去っており、昼食といってもいい時間帯だったのだが、起床してからなにも食べていない彼女には、それが朝食だった。冷め切ったスープとパンは、手につけようとしたとき、エミルが昼食にと運んできた料理にすり替えられてしまった。ファリアとしてはどちらでも良かったのだが、エミルの厚意を無碍にすることはできない。焼きたてのパンをちぎって口に運び、それから、隣の椅子で膝を抱える少女に目を向ける。少女。少女というほかない。
ミリュウ=リバイエンは、二十六歳であり、ファリアよりも年上なのだが、その精神年齢はファリアよりも余程幼い。その幼さは強烈な個性であり、煩わしく感じることもあれば、時には可憐でさえある。
彼女は、テーブルに乗せられた昼食に一切手を付けていなかった。セツナのことが気がかりで、食事も喉を通らないというのだろう。午前中のファリアがそうであったように、だ。しかし、ファリアは食べなくてはならないと思い、無理をして食事に手を付けていたのだ。食べている、というよりも胃に押し込んでいるというほうが正しいのかもしれない。
部屋には、ファリアとミリュウしかいない。医務室というよりは病人が療養するための病室であり、彼女たちがここで寝泊まりできたのは、マリア=スコールが許してくれたからだ。セツナは、隣の部屋で眠っているという。眠ったまま、目を覚まさないのだという。
セツナが一命を取り留めたのはエミル=リジルの応急処置が迅速かつ正確だったからだという話をマリアから聞かされたとき、ファリアは、エミルに心から感謝したし、彼女を連れてきたルウファにも同じだけの感謝を述べた。ルウファは当然のことをしたまでといい、エミルもそれに習ったが、とても当然のことのようには思えなかった。ルウファの機転とエミルの技量があって、はじめて、セツナは九死に一生を得たのだ。ふたりがいなければ、セツナはいまごろ死んでいたかもしれない。
ファリアがオーロラストームを召喚し、運命の矢を射るまでの時間的猶予があったのならば話は別だが、猶予があったとして、そんな決断ができたのかどうか。セツナには一度、運命の矢を射っている。それによってセツナは生還したが、そのために寿命を削られているのだ。二度目となると、どれほどの寿命が失われるものなのか。もちろん、死んでしまうよりはいい、と思うのだが、
ルウファは職務を果たすため《獅子の尾》の隊舎に戻っており、エミルはマリアの手伝いをするために病室からいなくなっていた。だから、ファリアとミリュウのふたりきりなのだ。白い部屋。窓もなく、通気性は悪いといっても過言ではない。室内には寝台がふたつあり、寝台と寝台の間に衝立が置かれている。寝ようと思えば寝台で眠ることもできたのだが、ファリアもミリュウも、部屋の片隅に置かれていた長椅子で眠ってしまった。ルウファはちゃっかり寝台で眠ったようだが。
「ちゃんと、食べなさいよ」
ファリアは、野菜がたっぷりはいったスープに口をつけてから、いった。寝台の隣に用意されたテーブルは、ルウファが運んできたものらしい。
「食べたくない」
「駄目よ。ちゃんと食べなきゃ」
「そんな気分じゃない」
「あなたねえ……」
「ファリアこそ、よく暢気に食べていられるわね……」
「なにを」
ファリアはむっとして、彼女を睨もうとした。しかし、睨めつけることはできなかった。ミリュウは泣いていたのだ。泣き腫らした顔をさらに歪めていくように、泣いていた。涙が頬を伝い、こぼれ落ちていく。
「セツナが目を覚まさないのよ? セツナがこのまま目を覚まさなかったら、あたし、どうすればいいの?」
ミリュウは、まるで救いを求めるようにいってきた。幼い子供がそこにいる。ファリアは愕然としながらも、彼女の気持ちがわかるような気がした。そうだ。彼女は、一度、すべてを失っているのだ。
「あたしがここにいるのは、ここにいられるのは、セツナが側にいてくれるからなのよ。セツナがいないガンディアなんて、あたしにとってはなにもないのと同じだもの」
ミリュウはそう言い切った。仲良くしているように見えるファリアもルウファも、彼女にとってはなんの価値もないといっているようなものだが、実際、そのとおりなのかもしれない。彼女にしてみれば、セツナが一番で、それ以外は数にも入らないのだろう。極端な考え方だが、それが武装召喚術の後遺症というのならば頷ける話だ。
それに、すべてを失ったミリュウに場所を与えたのがセツナだというのは、間違いないのだ。セツナは、ミリュウに居場所を提示した。ガンディアにいてもいいと告げ、《獅子の尾》に入ることを認めているともいった。地位も名誉もなにもかもを喪失した彼女が、セツナに依存しきってしまうのも、無理はなかった。
(あなたは、そうでしょうね。でも、わたしは……)
そこまで胸中でつぶやいて、彼女は自問した。
(わたしは……?)
どうなのだろう。
ファリアがガンディアにいるのは、どういう理由だったのか。
考えるまでもない。
ファリア・ベルファリア=アスラリアは、アズマリア討伐の使命を果たすために、リョハンからガンディアへと来たのだ。それは、アズマリア=アルテマックスの目撃情報の多さが群を抜いていたからだ。それ以上の理由はなかった。もし、アズマリアがザルワーンで数多く目撃されていたのならば、ファリアの派遣先はザルワーンになっていただろう。
もっとも、ザルワーンは《大陸召喚師協会》未開の地であり、ザルワーン政府からアズマリアの情報が提供されたことは一度もなかったのだが。
ともかく、ファリアは、使命によってこの国を訪れた。使命を胸に秘め、局員として働く内にレオンガンドやリノンクレアと顔見知りになり、レオンガンドからはベルという愛称で呼ばれるほどの間柄になった。ガンディアに愛着が湧くのは当然の帰結だろう。しかし、ファリアが優先するべきは使命であり、他国でのアズマリアの目撃情報が増大すれば、そちらへ流れるつもりだった。
そんな折、セツナが現れた。ランス=ビレインと名乗った武装召喚師を撃破し、カランの大火を消し去った少年は、瀕死の重傷であり、ファリアは彼に運命の矢を射ち込んで命を救った。
それが、彼との出逢いだった。
まさか、彼がアズマリア=アルテマックスの関係者であるとは知る由もなかったが、運命の矢は、彼女に運命的な出会いをもたらしたのは間違いない。
そして、セツナがアズマリアの弟子を自称したことがきっかけで、ファリアは彼を監視対象とした。彼に付き纏っていれば、アズマリアが現れるかもしれない。可能性は低いかもしれないが、なんのあてもなく探し回るよりは高確率だろう。彼女の思惑は当たった。アズマリアが現れ、セツナが彼女によって召喚された異世界の存在だという事実を知った。
異世界から召喚された存在を父に持つファリアは、セツナに親近感を抱いた。が、それ以上に、アズマリアがセツナに固執していることが判明した以上、セツナから離れる理由はなかった。セツナの側にいれば、いつかはアズマリアと巡り会えるという確信が得られたのだ。
それから、ログナー戦争、ザルワーン戦争と立て続けに戦いが起きた。戦いの中ではアズマリアの気配を感じることはなかったが、セツナのことを知っていった。セツナという少年のことを考える時間が増えた。
打算や利害抜きに、彼のことを見ている自分に気づいた。彼を見ていたいと想っている自分を知った。彼のことをもっと知りたいと考えているのだと、悟った。
それがいったいどのような感情なのか、ファリアにはわからない。
少なくとも、ミリュウのように依存してはいないはずだ。ファリアはファリアの足場に立っている。しかし、その足場がいまにも崩れ落ちそうな事実も知っている。アズマリア討伐任務から外された以上、足場が揺らぐのは当然のことだ。安定させるには、リョハンに戻り、護山会議に直訴するしかない。でなければ、彼女の願いは果たされない。
アズマリアをみずからの手で討つ。
それ以外にファリアの望みなどなかったのだ。
(いままでは、そうだった……。いままでは?)
胸中でつぶやいて、愕然とした。
自分はいま、なにをいったのだろう。
「わたしたちがいるわよ」
「やめてよ。慰めにもならないわ」
「辛辣ね」
「でも事実よ。ファリアだってそうでしょ?」
「え?」
「ファリアには、セツナの代わりが務まるひとがいるの?」
こちらの反応が以外だったのか、ミリュウは、むしろきょとんとしたような顔で聞き返してきた。
「……いるわけないでしょ」
答えて、ファリアは自分の気持ちに気づいた。