第四百九十七話 王都を覆う暗雲(三)
「……しかし、このままではログナー家とログナー解放同盟になんらかの処置を取らざるをえないでしょうね」
「なるほど。それもラインス殿の狙いか」
オーギュストの発言に唸ったのは、デイオン=ホークロウだ。この会議中、左眼将軍はみずから言葉を発するということがほとんどなかったが、それは彼が入り込む余地がなかったからに過ぎないのだろう。彼の頭がついていっていないわけではないのは、その発言からも明白だ。
「ラインスもよく考えたものです。最悪、セツナ殿を殺せなかったとしても、多少なりとも陛下に打撃を与えることができる」
ラインス=アンスリウスは、セツナ暗殺計画の実行犯にエレニア=ディフォンを使っている。なんらかの方法でエレニアと接触していたのだろうが、エレニアの証言からはラインス=アンスリウスや太后派の名前は出てきていない。むしろ、ログナー家やログナー解放同盟といった名がでてきており、王宮内では現在、ログナー家がログナー解放同盟と共謀してセツナの暗殺を企んだのではないかという話題で持ちきりだった。
物語としても、そのほうが面白いのだろう。
ログナー家は、ログナーが王国であった当時、支配者として君臨していた家だ。いまやガンディアの一貴族と成り果て、キリル=ログナーとミルヒナ=ログナーは、王宮区画の屋敷で暮らしているが、その原因を作ったのがセツナだ。黒き矛のセツナの活躍が、ログナーに降伏を促し、ガンディアによるログナーの平定はなされた。セツナさえいなければ、ログナーがガンディアに敗れ去るということはなかったのだ。ログナー家がセツナ個人に復讐するためにログナー解放同盟を使い、エレニアを王宮に送り込んだという筋書きは、太后派の策謀という事実よりも余程真実味を帯びている。
「仕方のないことだ。元より、ログナー解放同盟など潰す価値の無い存在ではあったが、国家転覆を目論んでいるというのなら話は別だ。全力を上げて滅ぼしてくれよう」
レオンガンドは、オーギュストの目を見つめ返しながらいった。こうなった以上、解放同盟を放置しておくことはできない。彼らがラインスに利用されただけにしても、エレニアを使ってガンディア軍の内情を探ろうとしたのは事実なのだ。
そのためには解放同盟の拠点を知る必要があるが、それについては、エレニアから吐き出させればいい。解放同盟との繋がりを自供した女だ。解放同盟の拠点を話すことくらいなんとも思っていないだろう。
「彼らはセツナに血を流させた。血には血で贖ってもらうよりほかはない」
もちろん、ラインスの狙いはわかっている。
ガンディア軍のログナー解放同盟への攻撃をきっかけとして、ガンディア人とログナー人の間に軋轢を生じさせたいというのだろう。だが、それは必ずしもラインスの思い通りにはなるまい。ログナー人の多くが解放同盟の活動に賛同していない以上、彼らへの攻撃がログナー人全体への攻撃とは見なされはしないはずだ。
その結果、ガンディア人とログナー人が、ガンディアの国民としてひとつになるのが遠ざかるのは間違いないが。
「解放同盟はともかく、ログナー家はどうなさるおつもりです。対処を誤れば、陛下が傷を負うことになりかねませんよ」
オーギュストの冷ややかな目は、彼が明言した通りの考え方の持ち主であることを示しているかのようだ。レオンガンドがガンディアにとって最善の道を選ぶことを要求しているのだ。選択を間違えてはならない。道を誤ってはならない。彼の目は、そういっている。
「……エレニア=ディフォンの尋問はまだ続いている。結果を待つことにしよう」
「それが懸命かと」
「彼女がほかに情報を抱えているのならば、の話ですが」
エレニアの証言では、王宮に潜り込む際にログナー家が関与したということだった。ログナー家の助力によって、王宮の使用人になれたというのだ。ログナー家が助力しなければ、彼女が王宮に潜入することはできなかったかもしれない。
(いや……)
狡猾なラインスのことだ。ログナー家が関与していようといまいと、エレニアを王宮内部に潜り込ませることくらいできたに違いない。彼の息のかかったものにエレニアを登用させればいいだけのことだ。難しい話ではない。そして、暗殺事件が起きたとしても、エレニアが勝手にやったことだと白を切ればいい。
今回、ラインスがログナー家を巻き込んだのは、ログナー人とガンディア人の間で不和を起こし、レオンガンド政権に打撃を与えるためだと、レオンガンドたちは考えている。セツナを暗殺するだけならば、ログナー家を動かす必要は薄い。先にも述べた通り、エレニアが勝手にやったことだと言い逃れることができる。もちろん、そんなことでレオンガンドたちが追及の手を緩めることはないのだが。
いずれにせよ、レオンガンドは、ログナー家がセツナの暗殺未遂事件に関与しているとは思ってもいない。しかし、いま、王宮内で取り沙汰されている情報は、真実味を帯びた物語となり始めているのだ。
エレニアがログナー家、解放同盟との関与を証言してしまった以上、仕方のない事だ。が、それにしても情報が漏れるのが早過ぎる。
情報部に、太后派の手のものが紛れ込んでいる可能性は否定しきれなかった。
(オーギュストめ)
ラインス=アンスリウスは、胸中で吐き捨てるようにいった。
遅い朝食を終えたばかりの彼は、王宮の応接室に向かう気にもならず、時が過ぎる音だけに耳を傾けながら、
(サンシアン家など、ガンディアの庇護がなければどこぞで野垂れ死んでいただけの存在ではないか。その事実を忘れているのではあるまいな……)
オーギュスト=サンシアンが、レオンガンドの元に出頭したという情報が彼の耳に入ったのは、昨夜のことだ。セツナ=カミヤの暗殺が失敗に終わり、エレニア=ディフォンは暗殺未遂の現行犯として捕縛されたということもあって、ラインスが内心荒れていたときでもあった。最初、その報告を聞いたとき、彼は我が耳を疑ったものだ。
オーギュスト=サンシアンといえば、太后派が反レオンガンド派であったころからラインスに接触してきた古参であり、ラインスが信頼する人物のひとりだったのだ。家格も申し分なければ、人格的な問題もない。知性もあり、品格もある。ラインスが友と呼べる数少ない人間であり、ラインスは反レオンガンド派の活動方針についてオーギュストと密議を重ねたこともあった。
それだけに、今回の彼の行動には驚きを隠せなかった。
ラインスの元に集まった情報によれば、オーギュストは、セツナが殺されるかもしれないということを《獅子の尾》に警告し、自身の私兵も投じて暗殺を阻止しようと動いていたようだった。それだけで、太后派への裏切り行為であるということは一目瞭然だったが、それ以上に厄介なのは、彼がレオンガンドの保護下に入ったということだ。
オーギュストは、レオンガンドに自身が知りうる限りの情報を伝えたに違いなく、それによって暗殺未遂事件がラインスたち太后派の手によるものだということまで明らかになっているだろう。
ラインスは、それでも余裕の態度を崩さない。いつものように使用人に淹れさせた紅茶の香りに心を落ち着かせながら、時計の針が刻む音色に耳を傾けている。
領伯暗殺未遂という大事件によって王宮のみならず、ガンディオン全体が大騒ぎになっている中、アンスリウス家の屋敷は静寂に包まれていた。彼の妻も子供たちも、領伯暗殺未遂事件に心を痛めているようだが、ラインスの手前、声に出して囁くことすらできないのだろう。ラインスがレオンガンドに対して敵愾心を抱いているということは、公然の秘密なのだ。だれもが知っているのに、だれもが素知らぬ顔をするしかない。妻ですらそうなのだ。子供たちが彼に意見できるはずもない。
最近、子供の教育に失敗したのではないか、と思うことが有る。
どうも、彼の子供たちは、セツナ=カミヤの活躍を喜んでいる節が有る。じきに成人を迎える上の子供など、セツナ・ゼノン=カミヤの部隊に入りたい、などという妄言を吐いているらしく、アンスリウス家の次期当主に相応しくないと妻から叱責を受けていたようだ。
セツナを殺す気になったのは、それもあったのかもしれない。
セツナ=カミヤなど、ただの人間に過ぎないという現実を見せつければ、上の子供も目を覚ますに違いない。そういう思惑もないわけではなかった。
もちろん、我が子を覚醒させるためだけにこんな大それたことをするはずもなく。
ラインスは、ゆっくりと立ち上がった。紅茶はほとんど残っていたが、客人をいつまでも待たせるわけにもいかない。
(オーギュストなどになにができる)
ラインスは、悠然とした足取りで書斎を出た。いくらオーギュストがレオンガンドに加担したところで、ラインスの優位は揺るがない。ラインスは暗殺計画こそ彼らに明かしたものの、文書に残すような愚かな真似は一切しなかった。書類はすべて焼却処分していたし、彼が暗殺を計画したという証拠はこの世には存在しないのだ。
エレニアが生きているというのは誤算だったが、彼女が直接会ってもいなければ、存在を示唆することもなかったラインスのことなど知っているはずもないのだ。エレニアは、ラインスが首謀者だということすら知らないだろう。ログナー解放同盟にしても、ログナー家にしても、ラインス=アンスリウスが関わっていることさえ気づいてはいまい。
いまごろ、レオンガンドたちは悔しがっているに違いない。
太后派を一掃する絶好の機会を得たというのに、なにもできないのだから。
「お待たせして申し訳ありませんな」
ラインスがそういったのは、応接室に入り、客人となる男の姿を確認してからだった。
「いえ。突然訪ねたのです。待たされるのは、当然のことですよ」
「しかし、よろしいのですか? 陛下よりも先にわたしに会うというのは、貴公にあらぬ疑いが及ぶかもしれませんが」
ラインスは、相手の表情を窺いながら、冗談交じりに告げた。半分は本気でもある。レオンガンドに疑念を抱かれるのは、彼としてもやりづらくなるのではないのか。互いに立場のある人間なのだ。軽率な行動を取るべきではない。無論、彼もわかっているはずだが。
「もちろん、陛下には会見を申し入れましたがね。何分、陛下もお忙しいようで」
「なるほど。待ち時間を潰すために、ラインス=アンスリウスを利用した、と」
「はは。相変わらず辛辣な方ですな」
マルス=バールの笑い顔というのは、ラインスには卑しいものに見えてならなかった。ミオンの宰相ともあろうものが見せるような表情ではないと思うのだが、それを指摘するのは馬鹿げている。関係を悪化させるだけのことであり、互いにとって利益のあることではない。
「冗談ですよ。まあしかし、陛下がいまお会いになれないのは、仕方のないことです」
「なにやら大事件が遭ったとか」
彼の口振りは、いかにも白々しく、ラインスは危うく吹き出してしまうところだった。彼が知らないはずもない。彼は、ラインスの協力者なのだから。
「ええ。大変な事件があったのですよ」
ラインスは、わざとらしく事件の詳細を語った。
王宮で催された晩餐会の最中、領伯となったばかりのセツナ・ラーズ=エンジュール伯が刺されたこと。一命こそ取り留めたものの、意識不明の重体だということ。暗殺未遂の犯人としてエレニア=ディフォンが捕縛されたこと。
そして、オーギュスト=サンシアンが太后派を裏切ったこと。
「それは真ですか?」
一瞬青ざめたマルス=バールの顔を見ることができたのは、ラインスとしては僥倖だった。
「ええ、彼は我々と袂を分かち、レオンガンドの庇護下に入ったようです。もっとも、それは大した問題ではありません。彼の証言だけでは、我々を追い詰めることなどできるわけがない、むしろ、ガレオンガンド陛下の首を絞めることになりかねない」
ラインスには、いまレオンガンドが考えていることが手に取るようにわかっていた。レオンガンドは、自分が寵愛する親衛隊長を殺されかけたことに激怒しているに違いない。そして、オーギュストの証言が、彼の怒りをさらに高めているはずだ。政争の場で何度となくやり合ってきたラインスが仕組んだということがわかれば、レオンガンドの怒りは頂点に達するのも当然のことだ。
「あれは劇薬だ」
激情は、思考の平衡感覚を失わせる。