第四百九十五話 王都を覆う暗雲
「暗殺未遂事件において実行犯として拘束されたのは、エレニア=ディフォン。年齢は、二十六歳。ログナー人で、ログナーの首都マイラム出身。ディフォン家は、ログナーの名家テウロス家の分家だそうです。エレニア=ディフォンは、女性でありながら騎士となり、ログナー時代のアスタル将軍の側近として活躍していたということです」
王宮応接室に集まった貴族たちが、一用に渋面を作って、報告に耳を傾けている。領伯暗殺未遂事件から一夜明けたこともあり、表面上は静謐を取り戻したかに思える王都だったが、実際のところは衝撃的な事件の話で持ちきりという有り様だった。王宮はまだしも、市街など酷いものだというのが彼の手のものからの報告だった。
戦争に敗れ、ガンディアの一貴族に成り下がったとはいえ、王家時代に培った情報網はまだ生きていた。それに一貴族としてログナー家が生き延びるためには、情報収集こそが重要だというのは、キリル=ログナーが口を酸っぱくしていっていたものだ。
「同じくアスタル将軍の片腕だったウェイン・ベルセイン=テウロスと恋仲であり、戦争中、彼を殺したセツナ様を殺すことで恨みを晴らそうとした、というのが今回の暗殺未遂事件の真相ということです」
そんな中、エリウスは、血の気が引くような思いで、報告に耳を傾けている。王宮の一角に設けられた貴族たちの社交場たる応接室には、彼以外にも多数の貴族たちが顔を揃えている。ガンディアを揺るがすような大事件を経たいま、貴族たちの一挙手一投足は、それぞれの立場を明確化するものに違いない。
例えば、レオンガンド派を標榜する連中は、事の重大さに顔面が蒼白になっていた。“うつけ”と謗られたレオンガンドがガンディア国民の信頼を得ることができたのは、度重なる戦いに勝利してきたという結果であり、それらの戦勝にもっとも貢献してきたのがセツナ・ゼノン=カミヤだ。その彼が刺され、意識不明の重体だというのだ。元よりレオンガンド派だったものたちさえ不安を抱いているのは、もし、セツナが死んでしまったら、レオンガンドはどうなるのか、ということだろう。立場は不安定になり、レオンガンド派は崩壊してしまうのではないか。そんなことまで考えなければならないほど、レオンガンド派の結束は弱いらしい。
一方、太后派の貴族たちも、セツナ暗殺未遂事件に対しては表面上痛ましい表情を見せている。太后派の首魁ラインス=アンスリウスは、セツナが運び込まれた医務室を真っ先に見舞ったという。面会こそできなかったものの、ラインスは、その場にいた《獅子の尾》の幹部たちに激励の言葉を残している。太后派にとっても、セツナを失うことは痛手なのは間違いない。太后派が望んでいるのは、レオンガンドの失脚であり、ガンディアの破滅ではないのだ。ガンディア躍進の立役者たるセツナを殺すことで利益を得られるとは考えにくい。
もっとも、ガンディアがここまで拡大した以上、黒き矛のセツナは不要だと結論づけたとしても、何ら不思議ではないし、エリウスは、太后派がエレニアを王宮に招き入れたのではないかと考えている。でなければ、なんの当てもないエレニアがガンディオンの王宮に使用人として忍びこむことなどできるわけがない。
(エレニア……)
エリウスの記憶の中では、エレニア=ディフォンは、常にアスタル=ラナディースの傍らにいた。冷徹な女騎士という仮面を纏っていたことも知っている。本質的に戦場には向かない人物だったということも。すべてアスタル=ラナディースから伝え聞いた話だったが、彼女が側近のことを勘違いしているとは思い難い。テウロス家の分家であるディフォン家の長女であった彼女が騎士になったのは、一にも二にもウェイン・ベルセイン=テウロスの力になるためだった。彼の側にいるためだったのだ。もちろん、そんな個人的な理由だけで、簡単に騎士になれるはずもない。血の滲むような努力をして、彼女は騎士となり、アスタルの側近となった。そして、アスタルの片翼であるウェインとの愛を育んでいた。
彼女が、犯行に及んだ原因は、そこにある。
愛するひとを殺されたから。奪われたから。
それだけだ。だが、そこに命を懸けるにたるだけの想いがあったのだ。
無論、だからといって、エリウスには彼女に同情することはできなかった。エリウス=ログナーは、ガンディアに帰属したログナー人の代表として、王宮に努めている。ログナー人がガンディアという国で生きていくためにはどうすればいいのか、日夜考えていたし、そのための努力を惜しまなかった。ログナー人がガンディアに溶け込むには、時間がかかるのは間違いない。しかし、ログナー人の代表である自分がいち早くガンディアに溶けこむことができれば、ログナーの人々もまた、ガンディアという国の一部になっていけるはずだと、彼は考えていた。
それが貴族の役割なのだと思っていた。
そんな折、事件が起きた。
エリウスたちのこれまでの努力が、すべて水の泡になるかもしれない。ログナー人への軋轢が激しくなったとしても、何ら不思議ではなかった。
「まったく……嘆かわしいことだな。これだからログナー人というのは信用ならない。ログナー人など、王宮に入れるべきではなかったのだ」
ゼイン=マルディーンが声を荒らげたのは、彼が極度のログナー人嫌いだからだろう。もっとも、彼がログナー人を嫌っているのには正当な理由がある。ゼインの息子は、バルサー要塞を巡るログナーとの戦いで命を落としているのだ。
そういう事情もあってか、応接室には、ゼインの発言を咎めるものはいなかった。この時間帯、太后派が半数以上を占めているということもあるのだろうが。
エインは机の下の震える手で握り拳を作ると、静かに告げた。
「そういう問題ではないはずです」
「ほう? ログナー人であるエリウス殿の見解、お伺いしたいものだ」
「そうですね。どうやらエレニア=ディフォンは、ログナー解放同盟との関わりを示唆しているようですよ?」
ゼインの隣で追従笑いを浮かべているのは、ラファエル=クロウという青年だった。《獅子の爪》隊長ミシェル・ザナフ=クロウの双子の弟である彼は、兄とよく似た容貌の持ち主だったが、それを指摘されるのを嫌っている。同じであることを嫌い、その挙句、太后派についているのだから世話がない。
「それがなにか?」
エリウスは、冷ややかな目でラファエルを一瞥した。白皙の貴公子は、自分のほうが立場が上であるということを理解しているのだろう。エリウスの些細な抵抗にも悠然とした態度だった。
「お父上に尋ねられるといい」
「父上に? 父上とログナー解放同盟に関係があるとでもいうのですか?」
「なにもそこまではいっていませんよ。しかしながら、キリル殿の屋敷のものがログナー解放同盟の人間と接触しているという話を小耳に挟んでおりましてね。これから陛下に申し上げようとしていたところなのです」
「……!」
エリウスの耳に自身の心音が聞こえたのは、気のせいなどではあるまい。彼は我知らず席を立つと、貴族たちの視線が自分に集中するのを認めた。しかし、勢い良く立ち上がったことをごまかす方法などはなく、彼は、一同に儀礼通りの挨拶をした。
「急用を思い出しました。失礼します」
そういって、エリウスは王宮の応接室を出た。廊下に出ると、レノ=ギルバースが待ってくれていた。彼は、エリウスとともに龍府から王都まで帰還した人物であり、ログナー方面軍の軍団長である。彼ほどの人物が側にいてくれるのがどれほど心強いのか、いまになって骨身にしみている。
「どうされたのです。血相を変えて」
「嫌な予感がする。屋敷に戻る」
「嫌な予感? それに屋敷に戻るとは?」
「セツナ伯の暗殺未遂事件のことだ」
応接室から王宮の外へ向かう道すがら、エリウスは、周囲にひとがいないことを確認しながら囁いた。どこに聞き耳を立てている人間がいるかわかったものではない。特にここは極秘情報の渦巻く王宮区画だ。様々な勢力の密偵がそこかしこに潜んでいるのは間違いなかった。レオンガンドの手のものもいれば、太后派の密偵もいるだろう。当然、エリウスの息のかかったものも潜んでいる。もっとも、本当に知りたい情報というものは、そう簡単に手に入ったりしないものだが。
「父上か、あるいは家のものが関わっている可能性が浮上した」
「まさか」
「そのまさかがありうるんだ。ログナー解放同盟……君も知っているだろう」
「……ええ。もちろん」
「彼らが、父上の屋敷のものと接触していたらしい」
「それだけですか?」
「それだけならいいさ。それだけなら、問題はないんだ。それだけならね」
エリウスは自分に言い聞かせるようにいいながら、道を急いだ。キリル=ログナーの屋敷は、王宮区画の東側城壁付近にある。エリウスは基本的に王宮内部で生活しているため、屋敷を訪れることは少なかったが、それは、キリルとミルヒナがログナー時代とは打って変わったように仲睦まじく暮らしているからでもあった。まるでログナー時代が悪い夢であったかのような変わり様には、エリウスすら唖然としたものだ。
キリルは、王として生きるには繊細すぎたのかもしれない。風雅の中で余生を過ごすいまのほうが性に合っているに違いないのだ。ザルワーンの属国となって後、キリルが酒色に溺れていたのは、そういった繊細さの反動だったのかもしれない。
ガンディアに帰属してから約三ヶ月。適度な食事に適度な運動をこなすようになって、キリルは見違えるような体型になっている。
ログナー邸に辿り着くと、使用人の出迎えを受けた。エリウスは、キリルとすぐに逢うために、使いを先に走らせていたのだ。屋敷内に通されると、キリルの部屋に案内された。キリルの部屋には、キリルだけでなく、ミルヒナの姿もあった。この数ヶ月で若々しさを取り戻した父の姿は、エリウスの理想とする父の姿そのものだった。
「エリウス。どうやらわたしは大きな過ちを犯したようだ」
なにかを覚悟したかのようなキリルのまなざしは、エリウスにある決断を求めるものだった。