第四百九十四話 憎しみの果て
彼女が気づいたとき、視界に飛び込んできたのは、想像とはまったく違う光景だった。調度品もなにもない空間ではあったが、冷たい石牢などではなく、有り体に言えば普通の部屋に放り込まれていたのだ。
拘束されてはいたが、寝台の上に寝かされており、扱いは決して悪いものではなかった。背中や首が悲鳴を上げていたものの、気絶したときのことを考えれば、当然の痛みのように思えた。なにかに吹き飛ばされ、背中から壁に激突した記憶がある。
彼女は、自分が生きているということが不思議でならなかった。
(どうして?)
エレニア=ディフォンは自問したが、答えは出なかった。ログナー解放同盟の計画では、エレニアはセツナを殺した後、殺される手筈になっていたのだ。セツナを殺したとしてもその殺害犯であるエレニアが死ねば、少なくともアスタル=ラナディースに災禍が及ぶことはないだろう。
エレニアがログナー解放同盟の計画に乗ったのは、恩人であり憧れであり、同時に嫉妬した相手でもあったアスタルに害が及ばないように配慮すると約束してくれたからだ。家の存続しか考えないディフォン家がどうなろうと知ったことではないが、エレニアとウェインのために尽力してくれた大恩人の人生に影を落とすようなことだけは絶対にしたくなかった。
もっとも、冷静に考えてみれば、アスタル=ラナディースに害が及ばないはずはないのだが。
彼女は、寝台の上で仰向けになって、自嘲した。
(生きている……わたしは、生き残ってしまった……)
死ぬつもりだった。
殺して、殺されるつもりだった。
ウェインを殺した男を殺して、自分も死ぬつもりだったのだ。
それですべてを終わりにしたかった。
ウェインのいない世界など、生きていく価値がない。
しかし、生き残ってしまった。死ねなかった。殺されなかったのだ。計画通りに事が運ばなかったのは、ログナー解放同盟の手際が悪かったからなのか、情報が筒抜けだったのか。後者ではあるまい。エレニアは確かにセツナを誘い出すことに成功し、彼の急所に刃を突き立てることができた。あの一撃で瀕死の重傷を負わせることができたのは間違いなかったが、死んだことを確認することはできなかった。とどめを刺す前に、彼女の意識が途切れたからだ。邪魔が入った。結局のところ、その邪魔のせいで、彼女は殺されなかったのかもしれない。
(生きている価値もないのに……)
エレニアは、憮然としながら、天井を眺めていた。
いますぐにでも死にたかったが、死ぬ前に確認しなければならないことがある。セツナの生死である。彼が死んだのならば、エレニアは喜んで死ぬだろう。しかし、彼が一命を取り留めたというのならば、無念のまま死ぬことになる。
ガンディアは、セツナを手にかけた人間を生かしてはおくまい。
どちらにせよ、死ぬのが定めならば、アスタル=ラナディースに迷惑のかからない死に方が良かった。ただそれだけの理由で、彼女はログナー解放同盟の計画通りに動いた。
その結果がこの惨状なのだとしても、彼女は自嘲することすらできなかった。
疲れ果てている。
いっそ、舌を噛み切って死のうかと思ったが、実際問題、舌を噛み切るだけの力を発揮することはできそうになかった。諦念とともに、時が過ぎていくのを待った。
ガンディア王室直属の情報部による尋問が始まったのは、彼女が目覚めて一時間も経たない頃合いだった。
中年の男と若い男、若い女が、彼女を閉じ込めている部屋に訪れたのだ。彼らは情報部という聞きなれない組織名を語り、それぞれに名乗った。ウィル=ウィード、ジャン=ジャックウォー、ミース=サイレン。どうせ死ぬのだ。彼らの名前など覚える必要はなかったが、なぜか耳に残った。
尋問が始まる前、彼らによってセツナが一命を取り留めたということが知らされた。エレニアは、彼らが虚偽を述べているようにも見えず、殺せなかった事実を受け止めた。無念だが、こうなった以上仕方のないことだ。呪いながら死ぬよりほかはない。
尋問は、苛烈を極めるかと思ったものの、あっさりとしたものだった。
セツナに恩義があるというミース=サイレンという女だけが激昂していたが、ほかのふたりが冷静だったおかげで、エレニアが拷問にかけられたり、暴力行為にさらされるといったことはなかった。それもそうだろう。エレニアは、彼らの質問に対し、黙秘を貫くなどという無駄なことをしなかった。なにもかもすべて答えた。
エレニア=ディフォン。ログナーのマイラム出身。テウロス家の分家であるディフォン家の長女として生を受けて二十数年。ログナーの騎士となり、幾度と無くガンディアとも戦ってきた。アスタル=ラナディースの腹心と呼ばれたこともあれば、女騎士として名を馳せたこともあったかもしれない。しかし、彼女を突き動かしていたのは、功名心でもログナーへの忠誠心でもない。
愛だ。
ただ一途にウェインのことを想っていた。
ただそれだけが、彼女を支える力だった。
エレニアの、人生のすべてだった。
「最愛のひとを奪われたとき、ひとは、どうなると想いますか?」
尋問の最中、彼女はだれとはなしに問うた。
「ただ絶望し、底なしに沈んでいくんですよ。この世のすべてを呪いながら、ひとも神も呪いながら、堕ちていくんですよ」
堕ちた先にはなにもない。
ただ、漠たる闇が広がっているだけだ。
呪詛と怨嗟に満ちた闇が、魂を呪縛していくだけなのだ。
「だからといって、許されることではないわ」
「あなたは大切な人を奪われたことがないから、そんなことをいえるのよ」
「不幸自慢? 馬鹿げているわね。でも、いいわ。教えてあげる。わたしの家族は皆死んでしまった。カランが大火に遭ったときにね」
ミース=サイレンの鋭いまなざしだけが、エレニアの記憶に刻まれた。もちろん、彼女の言葉がエレニアの心を動かすようなことはない。エレニアの心は、いまや空白に等しかった。なにもない空っぽの白さが、彼女になにも感じなくさせているのかもしれない。
「そのカラン大火を終わらせてくださったのが、セツナ様なのよ」
セツナという名前を聞くだけで怒りに打ち震えていたはずの心がなにも感じなくなったのは、いつからなのだろう。ミース=サイレンがセツナを賞賛する最中、それだけが気になった。
(どうして、なのかしら?)
セツナ=カミヤの脇腹に短剣を突き立て、彼が力なく崩れ落ちるのを見届けた。黒き矛のセツナといえども、急所の一撃で倒れるか弱い人間だった。反撃さえしてこない少年の胸に刃を突き刺せば、それで終わったはずだった。いや、血が流れきるのを待つだけでよかったかもしれない。
最初の一撃は、致命傷だった。
ウェインの敵を討つことができた――。
けれど、エレニアの心は晴れなかった。ただ白く、染まっていった。涙が止まらなかった。理由はわからない。わからないが、ひとつだけ理解できたことがある。
セツナを殺したところで、ウェインは、もう二度と、彼女に微笑んではくれないということだ。
死んだものは死んだままだ。殺した本人に返してと叫んだところで、返ってくるはずもない。彼は死んだ。行き着く先が地獄であれ、天国であれ、二度と彼女の前に現れることはない。わかりきった事実を再確認しただけなのかもしれない。再度確認して、確信したのだ。自分は、なんて無意味なことをしたのだろう。
復讐の無意味さを理解したところで、なにが変わるはずもない。
彼女は、それでもセツナを殺さなくてはならなかったのだ。セツナを殺して、自分も死ぬ。死ねば、ウェインの元へ行けるかもしれない。
それだけが唯一の望みだった。