第四百九十三話 因果は廻る(六)
ミリュウの立てる寝息だけが聞こえる静寂の中で、ファリアは眠れぬ夜を過ごしていた。
事件があった。それも大事件などという生易しいものではない。現場を目撃した瞬間の衝撃は、生涯忘れ得ぬものだろう。父の死や母の消失に匹敵するだけの出来事だった。
ファリアは彼女の太腿を枕にして寝ているミリュウの顔を覗きこんで、その髪を撫でた。炎のように赤い髪は、いまは血の色を思い出させる。が、彼女に当たることなどできるはずもない。ミリュウはミリュウで精一杯にやっているのだ。
ミリュウの顔を見ていると、閉じた瞼と睫毛が濡れているのがわかる。彼女は、眠る寸前まで泣いていたのだ。いや、泣き疲れて眠ってしまったといったほうが正しいのか。とにかく、彼女にとってはそれほどまでに深刻な事件だったのだ。当然だろう。ミリュウにとって彼は依存対象なのだ。依存するべき相手が殺されかけたのだ。
彼女はまた、すべてを失うところだった。
『セツナが死んじゃったら、わたし、わたし……』
ファリアに泣きついてきたミリュウの表情は、十代の少女のそれであり、彼女が十年もの間魔龍窟に閉じ込められ、外界と隔絶されていたことを思い知らされた。他人とのまともな触れ合いもなければ、心が成長するはずもない。そんなミリュウを邪険に思えないのは、彼女の性格のせいなのか、セツナの人徳なのか。
室内を見回す。魔晶灯ひとつ灯されていない室内は、夜の暗闇に支配されている。聞こえるのはミリュウの寝息だけで、いまが真夜中であるということを再確認する。
彼女たちがいるのは、王宮内の医務室の一室だ。セツナが担架で運び込まれた先であり、彼はすぐさま軍医に診てもらっていた。セツナは一命を取り留めたものの、意識は回復しておらず、容態も不安定ということもあって、ファリアたちは面会することも許されなかった。
無理をいって、隣の部屋で寝泊まりすることだけは許してもらえたのだ。
ファリアもミリュウも、ルウファさえも、セツナの身を案じ、少しでも近くにいたいと考えていた。馬鹿馬鹿しいことかもしれない。しかし、セツナを想う気持ちに嘘や偽りはなかった。少なくとも、彼のことを考えている間は、様々な雑念から逃れることができた。
ファリアには、考えなければならないことがあった。リョハンのこと、護山会議のこと、《協会》のこと、アズマリアのこと。だが、セツナのことを思っている間は、そういった現実の問題から目を逸らすことができた。もっとも、現実から目を背けたところで、セツナが意識不明の重体という別の現実が目の前を塞ぐのだが。
セツナが医務室に運ばれたあと、様々なひとがセツナを見舞うために訪れている。レオンガンド、ナージュ、デイオン将軍は無論のこと、太后グレイシアやラインス=アンスリウスまでもセツナの回復を祈った。ルシオンの王子夫妻やミオンの突撃将軍、ガンディアの軍団長たちに主だった貴族までもが彼の医務室を訪ねてきたのは、セツナが領伯という立場に任じられたからだろう。
セツナのために怒りを露わにするリノンクレアの姿が、ファリアには嬉しかった。それは、彼女がセツナを認めてくれている証明だった。
(セツナ……)
ファリアは、ミリュウの髪を撫でながら、睡魔の足音を聞いた。ようやく眠れる。
セツナ・ラーズ=エンジュール暗殺未遂事件は、その夜のうちに王都中に広まった。
王宮内で起きた事件であり、王宮内にいた人間しか知らない情報だったが、どれだけ固く口止めしたところで、情報という目に見えないものの流出を完全に防ぐことはできない。ましてや、黒き矛のセツナが暗殺されかけたという事件は、あまりに衝撃的であり、王都の住民が知れば、即座に拡散するのは火を見るより明らかだった。たとえ、情報封鎖が万全であったとしても、彼の敵対勢力が王宮の外に流布したのは間違いない。
王都に満ちた情報は、いずれ王都の外へも広がるだろう。領伯にして王宮召喚師、王立親衛隊《獅子の尾》隊長の暗殺未遂事件は、ガンディアの汚点として知れ渡ることになるのは、疑いようがない。そして、この機に領土侵攻を企む勢力が現れたとしても不思議ではなかった。ガンディアは、黒き矛のセツナというたったひとりの少年を主力とする国なのだ。その主力が意識を失っているいま、ガンディアの戦力は激減しているといってもいい。
もっとも、ガンディア、ログナー、ザルワーンという三国分の戦力に対して喧嘩を売ってくるような国は、ガンディアの近辺には見当たらないのだが。
セツナ暗殺未遂事件により舞踏会は中止されたが、晩餐会の参加者のだれもがそれもやむなしと思っただろう。主賓のひとりといってもいい人物が刺され、意識を失ったままなのだ。そんな状態で暢気に踊っていられるほど、無神経な人間は少ない。特に、セツナは領伯として貴族の仲間入りを果たしたこともあり、表面的であっても彼のことを気遣うのは、貴族のたしなみとして当然のことだった。
王宮晩餐会の招待客のほとんどは、厳正な身体検査のあと、王宮から去っている。貴族たちは王宮区画内に住んでいるため、厳密には王宮から去ったとは言い難いが。
身体検査は形だけのものといってもよかった。暗殺未遂事件に使われた凶器はとっくに押収されていたし、犯人も捕まえている。協力者が潜んでいたとして、凶器や関係者であることを証明するようなものを持っているはずもない。それに、関係者と思しき人物は、すでにレオンガンドの掌中にあった。
「一命を取り留ることができたのは、その場に居合わせた衛生兵の応急処置のおかげでしょうね。少しでも遅れていれば、出血多量で死んでいたかもしれません」
「そうか……よかった。本当に良かった……」
マリア=スコールの報告を聞いて、レオンガンドは、心の底から安堵を覚えた。宮殿内の医務室である。真夜中ということもあり、静寂と闇が支配的な空間だった。室内を照らすのは光量の少ない魔晶灯であり、辛うじて軍医の顔立ちがわかるくらいの明るさが保たれている。
セツナは、医務室の奥の寝台で寝かされており、安静を保つため、関係者以外だれひとり立ち入ることはできなかった。王であるレオンガンドでさえ、その関係者には含まれていない。つまり、マリアの掲げる関係者とは、医療関係者のことであろう。
ファリア、ミリュウ、ルウファという《獅子の尾》の隊士は、セツナの側で回復を待ちたいとマリアに直訴したが、マリアに一蹴されている。それでも泣きつくファリアたちに根負けしたのか、三人には隣の部屋を貸し与えていた。王宮の医務室が暇を持て余しているからできた芸当だと彼女は愚痴っていたが、マリアなりの優しさには違いない。
マリア=スコールは、ザルワーン戦争では第四軍団とともにナグラシアに駐屯し、ガンディア軍の後方支援及び補給線の維持という役割に従事していたが、本来は、ガンディア方面軍の軍医である。ガンディア方面軍の医療班でもっとも自由な立ち位置におり、王宮の医務室が彼女の根城となることも多かった。
レオンガンドは、静かに深呼吸をした。胸の奥に仕舞い込んだ怒りが、いまにも噴き出しそうになるのを抑えることに必死だった。怒り。怒りだ。怒りしかなかった。セツナを殺そうとした犯人だけではなく、そう仕向けたものたちすべてへの怒りが、胸の奥底で渦巻いている。このままでは日常の政務に支障をきたすのではないかと思うほどの激情が、彼の視界を狭めている。その事実に気づきながらも、レオンガンドにはどうすることもできない。
怒りを鎮めるには、すべてを終わらせるよりほかはないのだが、そんなことができるのかどうか。
「セツナのことは君に一任する。君のつぎの上司だ。丁重に頼む」
「ええ。わかっております」
「それにしても、君に敬語は似合わないな」
「こんなときに冗談をいえるのなら、心配する必要はなさそうですね」
「ああ。心配はいらないさ。なにもな」
レオンガンドは、マリアに笑いかけると、席を立った。隣の部屋を覗きこもうかと思ったが、やめた。医務室を出て、衛兵の巡回する王宮内を歩いて行く。レオンガンドに暗殺者の魔の手が及んだとしても、なんの心配もないのは、彼らのような衛兵が常に巡回しているからではない。衛兵だけならば、レオンガンドに危害を加えることは難しくはなかった。衛兵を太后派の息のかかったものだけにすればいいのだから、簡単なことではないにせよ、不可能なことでもない。
しかし、レオンガンドには完全無欠の護衛が付いている。
「黒き矛のセツナといっても、所詮はただの人間ですか」
レオンガンドが呼びもしないのにアーリアが気配を見せるのは、それだけでめずらしいことだった。艶のある女の声は、いまは彼の神経を逆撫でにするだけなのだが。
「……そうだな」
「陛下も安心されましょう。彼は怪物ではないと証明されたのですから」
「黙っていろ」
艶やかな笑い声とともに気配が消える。
反論が思い浮かばなかったのは事実だ。実際、セツナが化け物ではないということが、レオンガンドに与えた安心感は大きい。セツナは人間であり、腹に短剣を刺すだけで致命傷になりうるということが証明された。それは彼が敵に回ったとしても、対抗しうるということにほかならない。もちろん、そんなことがあってはならないし、あるべきではないのだが、そういうことまで考えなくてはならないのがレオンガンドの立場なのだ。
そして、レオンガンドが想像した様々な状況のひとつに、セツナが殺害されるというものもあった。戦場で死ぬことは、普通に考えられる。どれだけ強い戦士であっても、流れ矢ひとつで死ぬ可能性もあれば、正体不明の召喚武装の前に殺されることだって十分に考えられる。それでも黒き矛とセツナならばなんとかやってくれると信じているからこそ、彼を前線に投入したり、最難関の任務を押し付けてきたのだ。そして、彼の思惑通り、セツナはどんな任務も、どんな苦境も乗り越えてきた。どれだけ傷を負い、どれだけ強敵が相手であっても、彼は勝ち抜いてきたのだ。
(だからといって、気を抜いたわけではないのだがな……)
レオンガンドは、セツナを信じすぎていたのかもしれない。セツナを過信していたのかもしれない。黒き矛のセツナは、確かに凶悪だ。数多の戦いで勝利をもたらしてきたガンディア最強の戦士であり、救国の英雄という呼び名が相応しいたった一人の人物だ。ドラゴンを撃破した、まさに怪物であり、超人だった。
だが、彼はただの人間なのだ。十七歳の少年に過ぎない。それも、異世界に生まれ育ち、戦乱とは程遠い環境で生きてきていた。こちらに来てからというもの、戦いの毎日だが、だからといってなにもかも順応しきれているのかというと、そうではないかもしれかった。
王宮の中ということもあり、油断をしていたとしてもなんら不思議ではない。晩餐会でこそ緊張していたが、それは、彼がそういう場に慣れていないからこその緊張であり、殺意に対する防衛としての緊張ではなかった。
彼は、他人の悪意に鈍感というわけではないはずだったが。
そんなことを考えている間に、レオンガンドは、戦略会議室に辿り着いた。真夜中。自室に戻って寝てもいいはずだが、とてもそんな気にはなれなかった。王宮は静まり返っている。数時間前まで騒然としていたものだが、いまとなっては事件があったことすら嘘のようだった。
(すべて嘘ならばよかった。夢ならばな)
だが、起きてしまったことを嘘にすることはできない。現実問題として、セツナは暗殺されかけたのだ。王宮の警備体制の問題が浮き彫りになるとともに、ガンディアが内部に敵を抱えているということが明らかになってしまった。内乱の可能性さえ考慮しなければならない。
扉を開くと、バレット=ワイズムーンとゼフィル=マルディーンの姿があり、ふたりは、オーギュスト=サンシアンを尋問していた。
実行犯の女エレニア=ディフォンはまだ意識を失ったままであり、彼女から情報を絞りだすのは、朝になってからになるだろう。
(聞き出すことくらい、いますぐにでもできるだろうに)
レオンガンドは、自嘲するように胸中でつぶやいた。恐れがある。エレニア=ディフォンの証言ひとつで、この国がひっくり返る騒ぎになるかもしれない。彼女が個人的な恨みでセツナを殺そうとした、というのならばまだいい。彼女を処罰するだけのことだ。しかし、もし、エレニアの背後にレオンガンドでさえ予期せぬ人物がいたとすれば、どうなるだろう。
レオンガンドはいま、瀬戸際に立っているのかもしれない。
「遅かったじゃないですか。全部話し終えてしまいましたよ」
オーギュストの余裕ぶった物言いが、レオンガンドは気に食わなかった。