第四百九十一話 因果は廻る(四)
『セツナッ!』
絶叫したのは、ファリアだったのか、ミリュウだったのか。おそらく両方なのだろう。
目撃証言を辿り、王宮内を駆け抜けたファリアたちが目撃したのは、通路の床に倒れた少年に跨がり、振りかざした短剣をいまにも振り下ろそうとする女の姿だった。
つぎに飛び込んできたのは、通路の床を染めた赤だ。網膜に焼きつくかのような鮮烈さは、その血の意味するところを瞬時に理解してしまったからに違いない。血。命の源。その流出はつまり、死に近づいているということにほかならない。倒れている少年が死ぬ。少年はセツナだ。セツナが死ぬ。死ぬというのか。そんなこと、あってはならない。あるべきではない。彼はまだ死んではならない。彼のことは、まだなにも知らないのだ。知らないのも同然なのだ。ファリアの頭の中に散乱する数多の思考が、彼女を混乱させる。だが、足は止まらない。全速力で疾駆する。足が壊れても構わなかった。今ならまだ間に合う。まだ、死んではいない。
一瞬、女がこちらを見たのは、ふたりの叫び声が通路に反響したからだろう。だが、それがまずかった。女は、こちらを一瞥した瞬間、セツナに向かって短剣を振り下ろしたのだ。
「やめてっ!」
「やめろおお!」
ふたりは叫んだが、女が手を止めるはずもなかった。しかし、短剣の切っ先がセツナの胸に突き刺さろうとした瞬間、女の体が吹き飛んでいった。なにか見えない巨人の手で投げ飛ばされたかのようだった。通路の壁に背中から激突した女の元へ、ミリュウが殺到する。ファリアはなにが起こったのかを理解するよりも、セツナへと急行した。
「殺してやるっ! 殺してやるわっ!」
ミリュウが怒り狂って呪詛を撒き散らす中、ファリアはセツナの元に辿り着いた。眼前に純白の翼が翻る。ルウファと、彼のシルフィードフェザーだ。女を吹き飛ばしたのは、彼の召喚武装の能力だったのだ。
「王宮内を探し回るのなら、これしかなかったんです」
必要のない言い訳を漏らすルウファを尻目にファリアはセツナの傷を確認した。傷口は一箇所。左脇腹を貫いていた。出血量が多く、一見して重傷に見えた。痛ましさに目を背けたくなるが、そんなことできるはずもない。幸い、セツナは呼吸をしている。か細く、次第に弱まっているように感じるのは、気のせいだと思いたいところだが。
「医者を呼んで! 早く!」
「焦らなくて大丈夫ですよ。一緒に来てもらったから」
「ここはわたしに任せて下さい」
心強い台詞を吐いたのは、エミル=リジルだった。彼女はログナー方面軍の医療班に所属する衛生兵だ。医療に関しては、少なくともファリアやミリュウたちよりも数段頼りになる人物といってよかった。
「お願いするわね」
ファリアは、セツナのことをエミルに一任すると、セツナの顔を見た。出血のせいで蒼白になった顔面は、なぜか苦痛を感じている様子はなかった。気を失っているのだとしても、痛みを感じているのならば表情は歪むものではないのか。奇妙なことだ。もしかすると、短剣に神経毒のようなものが塗られていたのかもしれない。
セツナを確実に殺害するには、それくらいの準備は必要だ。
動悸を抑えつけるように呼吸を整えると、彼女は後ろを振り向いた。通路の壁際では、ミリュウが犯人の女を取り押さえている。持ち前の膂力で壁に押さえつけ、逃れられないようにしているのだが、犯人の女は抵抗する素振りも見せていない。凶器の短剣は床に落ちていて、ミリュウの靴が踏みつけていた。犯人は、完全に制圧されたのだ。しかし、ミリュウの怒りがそんなもので収まるはずもなく、彼女は女を押さえつける力を次第に強めているようだった。
「やめなさい、ミリュウ」
「どうして? この女はあたしのセツナを殺そうとしたのよ!? ファリアはなんとも思わないの?」
「想わないわけないでしょう」
ファリアは冷ややかに告げると、女の首に当てられたミリュウの肘に触れた。このまま力を込められれば、女は間違いなく圧死するだろう。もっとも、女は既に意識を失っており、死んだとしても、その事実に気づくことはなかっただろうが。
「わたしだって、あなたと同じ気持ちよ」
彼女は、自分の感情を偽ることなくいった。いいながら、ミリュウの肘を掴む手に力を込める。互いに鍛えぬかれた武装召喚師同士。体格も似通っていて、筋力は同程度と見ていい。同程度の力をぶつけ合えば、決着がつかないのは自明の理だが、犯人の首への圧力を減らすことくらいはできる。女を殺したところで、ファリアの心が痛むわけではないが、いまミリュウに殺させるわけにはいかないのだ。
激情よりも理性が優先されている。大丈夫だ。なんの問題もない。いつもの自分。いつものファリア・ベルファリア=アスラリアがここにいる。
「だったら……!」
「でも、だからといって、彼女を殺して、それでなにもかも終わりなの?」
ファリアは、そういったものの、女の顔を見ていることができない自分に気づいた。女は、美人だ。格好からして王宮の使用人だが、使用人としては相応しくない体格の持ち主だった。その上、綺麗な顔をしている。その顔が憎らしく思えてならないのは、彼女がセツナを殺そうとしたからだ。見れば見るほど憎悪の感情が強くなってしまう。ミリュウが一瞬で沸点に達する性格だとすれば、ファリアは徐々に温度が上がっていく性格なのかもしれない。熱しにくく冷めにくいのだとすれば、厄介なことになりかねない。ファリアは、意識的に女の顔を視線から外した。
「そうじゃないでしょ。それだけで終わるわけがない。この女がどういう理由でセツナを殺そうとしたのかも調べ上げなければいけないわ。個人的な怨みならばまだしも、とてもそうは思えないわ」
個人的な恨みだけで王宮の使用人として潜伏していたら大したものだが、そんなことはありえないことのように思えるのだ。王宮で使用人と働くということは、厳しい審査を経ているということだ。家柄や経歴、信仰などの個人情報は調べ尽くされているとみていい。
例えば女がセツナに個人的な恨みを抱いているとすれば、それも承知済みのはずだったし、そうであれば、セツナと接触する機会が生まれないように配慮されるに違いない。だが、女は、セツナとふたりきりになる機会を得ることに成功している。王宮内部に彼女の協力者がいると見ていいのではないか。そこまで考えて、ファリアは頭を振った。頭のなかで考えているだけでは、なにも解決しない。それどころか、疑心暗鬼に陥るだけだ。だれもかれもが疑わしく見えてしまう。
「そうね……そうよね。そうだったわ」
ミリュウがファリアの説得に応じてくれたのか、腕の力を抜いた。女の体が床に崩れ落ちる。まったく反応がなかったところを見ると、やはり完全に気絶していたようだった。おそらく、ルウファの攻撃で壁に激突したことが原因であり、ミリュウが押さえつけた時には気を失っていたと見るべきだ。ルウファはやり過ぎたのだが、この場合、しかたのないことだろう。セツナまで吹き飛ばさなかっただけ、ルウファの力の使い方は精確だといえる。
「でも、そういうこと、調べるまでもないわよね」
「え……?」
ミリュウは、沈めようのない怒りの矛先を犯人の女から別の存在へと切り替えたようだった。声音に含まれた怒気は、禍々しいばかりであり、彼女が魔龍窟で育て上げられたことを思い出させるのだ。
「なんでセツナが殺されるかもしれないって思ったのよ? オーギュスト=サンシアン……だっけ?」
ミリュウの言葉に、ファリアははっとした。振り返る。
セツナに応急手当を施すエミルと彼女を見守るルウファの姿があり、その周囲には人だかりができている。十字路の各所で人垣を作り、野次馬になっているのは、通りかかった貴族や軍人たちであり、使用人たちだ。
その人垣の内側で、ひとりだけ所在なげに佇んでいるのが、オーギュスト=サンシアンだった。ミリュウによれば、突如として控室に現れ、ミリュウたちにセツナの危機を報せた人物だということだ。王宮でも把握していないような危機を知らせてきたということは、犯人となんらかの関わりがあるということにほかならない。
「……事情は、君たちには話さない。わたしが話すべき相手は君たちではなく、レオンガンド様だからな」
「そんな言葉で納得できると思ってるの?」
「君たちを納得させる必要すらない。が、ひとつだけいっておくと、わたしが君たちに接触しなければ、セツナ殿は死んでいたということだ」
オーギュスト=サンシアンがこちらに背を向けるとともに、人垣に動きがあった。野次馬たちを押しのけてファリアたちを取り囲んだのは、武装した兵士たちであり、そのうち数名がセツナの隣に担架を下ろした。ルウファがこちらに向かって微笑んでいる。セツナを探しながら各所に連絡してくれたのだろう。ルウファの頼もしさにファリアは目頭が熱くなった。彼は負傷から完全に回復しているわけではないはずなのだが、それでも、セツナのために無理を通しているのだ。ファリアは、いまにも飛び出しそうなミリュウの
兵士の半数はオーギュストを包囲し、ふたりが犯人の女を拘束した。残りの兵士たちは、エミルの指示に従い、セツナを担架に載せる。
「これは、どういうつもりかな?」
オーギュストが、自分を取り囲む兵士たちを一瞥した。
「それはこちらの台詞というものですよ、オーギュスト殿」
「ゼフィル=マルディーン……君か」
オーギュストの視線の先から現れたのは、レオンガンドの側近のひとりだった。
ゼフィル=マルディーンは、いつもとは違う厳しい表情で、オーギュストと対峙していた。