第四百九十話 因果は廻る(三)
花の匂いがしている。
目の前を歩く女からだ。
香水のようなものか、あるいは香水そのものか。芳しいその匂いは、彼の思考を緩めることに成功している。とはいえ、思考が多少緩んだところで、なにも変わりはしないのだが。晩餐会の緊張から開放されてからというもの、セツナの意識は緩み続けている。控室に入った瞬間から堕落が始まっており、礼服の上着を羽織っただけでは取り戻せないほどに緊張感が欠如していた。
それでも、王宮の通路を歩いている間に、少しは戻りつつあるのだが。
使用人の格好をした女の背後を歩いているだけだというのに、通路に蔓延した貴族や軍人の注目を集めていることに気づいたからだ。晩餐会の招待客ならば、セツナのことを知っていて当然だったのだが、まさかここまで注目されるとは思ってもいなかった。しかし、よく考えれば当然のことだ。セツナは今朝の論功行賞で第一位に選ばれただけでなく、領伯に任命されたのだ。ガンディア中の注目の的になっていたとしてもおかしくはないらしい。
「そういえば、セツナ様はこの度、領伯となられたそうですね。おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
使用人の女性の何気ない心遣いが嬉しくて、セツナは照れながらも素直に答えた。
「エンジュールの領伯だそうで」
「うん。ログナーにあるそうだけど、よく知らないんだよね」
「そうなんですか。てっきりお詳しいのかと」
セツナは、女の声に聞き覚えがあった。しかし、どこで聞いたのかが思い出せない。以前、王宮に来たとき、言葉を交わしたことがあったとしても不思議ではなかった。彼女は、王宮で働いているのだ。顔は覚えていなくとも、声は覚えているかもしれない。
「詳しいことなんてないよ。なにもね」
セツナはいったが、自嘲でもなんでもなかった。ただ事実を述べたまでのことだ。実際、セツナはログナーについて詳しくは知らないのだ。潜入任務のためにログナーの地図を頭に叩き込んだことはあるものの、それももはや朧気なものになってしまっている。辛うじてマイラムとレコンダールの位置関係を覚えているくらいだ。ザルワーン戦争の苛烈さがすべてを忘れさせたのかもしれない。
「……ではひとつお伺いしたいことがあるのですが、よろしいですか?」
「ああ」
「セツナ様は、ログナーについてはどういう印象がおありですか? ガンディアとログナーは長年敵対関係にあった国ですし、なにか思うところはありますでしょうか?」
「ログナーの印象……印象ねえ」
使用人の女がログナーに拘っているのは、彼女がログナー出身だからかもしれないと思い当たり、セツナはどう回答するのが正しいのか考えあぐねた。ログナーは、あの戦争以来、ガンディアの領土となっている。ログナー国民のほとんどがガンディアに帰属し、軍人はガンディア軍に、人民はガンディア国民となった。ログナーの王侯貴族のうち、王家を始めとする有力者はガンディアの貴族に列せられた。
王宮で働くログナー人がいたとしても、不思議なことではない。
「なんでもいいのですが」
「……あんたは、ログナー出身なのか?」
「はい。ログナーの首都マイラムで生まれ育ちました」
「そうか……」
ログナーの首都マイラムは、セツナにとっても思い出深い都市だ。ログナーとの戦争が終わってからというもの、色々なことがあった場所なのだ。クオンと再会した地であり、ファリアと喧嘩してしまった街であり、アスタル将軍と言葉をかわし、ウェイン・ベルセイン=テウロスの墓を見た。そこで、セツナはひとりの女性と出会っている。ウェインの墓前。喪服の女性。
「……エレニア」
その名を言葉にした時、脳裏に思い出される声が、目の前の使用人の声と一致した。
「エレニア=ディフォン」
使用人は、一瞬足を止めたが、すぐに移動を再開した。ふと気づくと、王宮の入り組んだ通路の奥へ奥へと進んでいるのがわかる。セツナですら足を踏み入れたことのないような場所であり、人気はなかった。
「あんた、エレニア=ディフォンだろ」
「ええ」
「王宮で働くことにしたのか」
「ええ」
「そうだったのか。それは知らなかったな」
「ええ」
「……」
セツナは、彼女の通り一遍の反応に沈黙した。せざるを得なかった。
エレニアはログナーの騎士であり、彼が殺した武装召喚師ウェイン・ベルセイン=テウロスと恋仲にあった人物だ。セツナは恨まれて当然のことをしたのだ。憎んでいるだろう。恨んでいるだろう。そう考えると、迂闊に話題を振ることもできなかった。ただ、黙々と前進する。迷路のような王宮の奥深く。セツナにとっては未知の領域だったが、その先にファリアが待っているというのなら行くしかない。彼女になにがあったのかはわからないが、セツナが彼女の求めに応じるのは当然のことだった。
ファリアには散々助けられている。
「知らなくて当然でしょう。わたしがガンディオンを訪れたのは、ザルワーンとの戦争が始まった後のことです」
「そう……か」
エレニアの声音に含まれた棘に気づいて、セツナはどう反応したらいいものかと思った。セツナは、彼女の大切な恋人の命を奪ったのだ。戦争だから仕方がなかった、などと言い訳したところで、彼女の感情を逆なでにするだけだろう。かといって、謝罪するのもどうなのか。謝れば、こちらに非があるということになる。
セツナに、非は、あるのか。
(あるよ)
セツナがログナーに乗り込まなければ、エレニアとウェインの幸福な日常は続いていただろう。ログナーがどのような状況にあれ、ウェインほどの実力者がそう簡単に死ぬことは考えにくい。セツナと黒き矛が相手だったことが、ウェインの死の最大要因なのだ。セツナさえいなければ、彼女は大切な人を失わずに済んだ。それは間違いない。
だが、だからといって、おいそれと謝ることなどできるはずもなかった。殺したのは事実だ。しかし、ガンディアが国土拡大のために北進するのならば、ログナーとはいずれ戦うことになっていたし、ガンディアの勝利には、多数のログナー人の死が必要だったに違いない。その中にウェインが入っていないとは言い切れないのだ。
そこまで考えて、セツナは頭を振った。
(違う。そういうことじゃない!)
言い訳ばかりが脳内を錯綜している。馬鹿馬鹿しいことだ。殺した事実だけを見ていればいいというのに、それ以外のことに囚われ、本質を見失っている。
いまはまだ、そのことを言及するような状況ではないはずだ。
ログナー戦争から三ヶ月。エレニアの心の傷が癒えているとは思いがたい。わざわざ、彼女の心の傷を抉るような真似をすることはないのだ。もちろん、エレニアがウェインのことに触れるというのならば、セツナも対応せざるを得ないが。
言葉を選ぶ。
「……あんたなら、使用人じゃなくて、騎士にでもなれたんじゃないのか?」
「ガンディアからもそのように打診されましたが、わたしはもう二度と戦場に立ちたくはありません。それでも、アスタル=ラナディース将軍の力にはなりたいのです。そう考えていたところ、王宮で働きながらその道を模索すればいい、と」
「道……か」
「はい」
エレニアの声は、低く沈み込んでいく。ガンディオンの王宮で働くというのは、苦渋の決断だったのかもしれない。彼女にしてみれば、最愛の人を奪った国の宮殿なのだ。中枢も中枢である。傷心のエレニアには辛い仕事ではないのかと思わないではなかったが、一方で、そういう場所だからこそいいのかもしれないとも思った。
「うん、それがいい」
「……」
エレニアは黙り込んだ。セツナもそれに習って、沈黙した。口を閉ざす必要があった。彼女がみずから選んだ道だ。口を挟む道理はない。そう思った。
気づくと、エレニアは足を止めていた。ファリアの居場所に辿り着いたのかと思いきや、そうではなかった。目の前には十字路があるだけで、特に珍しい変化があるわけではない。気配の変化を感じ取ることができたのは、これまでの経験と日々の鍛錬の賜物だったのだろうが。
「……道なんて、見つかるわけないじゃない」
激痛が、セツナの腹を貫いた。
「死んで」
エレニアの声音は、酷く乱暴だった。自暴自棄にでもなっているのではないかと思うほどで、その事実がセツナには辛く感じられた。激痛が熱を帯び、緩やかに全身に広がっていく。奇妙な感覚だった。まるで意識だけが肉体から遊離していくような感覚であり、それはさながら、虚空に溶けたときと同じような感覚だった。だが、痛みはある。
「死んでよ。わたしのために死んで」
(そうかよ)
セツナは、エレニアの声を聞きながら、視界が空転する様を見ていた。まず、脇腹に深々と突き立てられた短剣を見ている。つぎに血まみれになってしまったエレニアの手を見て、彼女の顔へと至る。そして、通路の天井を見たのは、なぜか仰向けに倒れたからだ。押し倒されたのかもしれない。エレニアが馬乗りになったのがわかる。腹部の痛みのせいか、床に背中をぶつけたことによる痛みは感じなかった。
「わたしのウェインを返せないのなら、せめて、死んでよ、いますぐ死んでよ!」
エレニアの叫び声は、慟哭そのものだった。
(そうだよな)
「は……」
声も出せないまま、セツナは、馬乗りになったエレニアが両腕を振りかぶるさまを見ていた。腹に刺した短剣を抜いたのだろう。血が流れ出している感覚がある。意識が朦朧としているのは、腹を刺されたことだけが原因でもなさそうだった。
(あんたになら、殺されても文句はいえないよ)
セツナは、ウェインを殺す間際に見た光景を思い出した。黒き矛と漆黒の槍が共鳴によって見たのは、ウェインの記憶。ウェイン・ベルセイン=テウロス。ログナーの青騎士。セツナを追い詰めた強敵であり、セツナが意識して殺した敵でもある。
彼の記憶の中で、エレニアは幸せそうに笑っていた。
(俺は殺されるだけのことをした。ただそれだけのことだよな……わかるよ。わかってるさ。うん。そうさ。これがひとを殺すということなんだ)
因果は廻るものだ。
人を殺すということは、人に殺されるかもしれないということなのだ。いままでだってそうだった。何度も殺されそうになった。死にそうになった。死を認識する度、黒き矛の力でくぐり抜けてきた。強引に、死の運命をねじ伏せてきたのだ。
どうやら今回は、その手は使えそうになかった。
声が出ない。
(でもさ、だったら、せめて笑ってくれよ)
セツナは、血塗れの短剣を振りかぶったエレニアの顔を見ていた。彼女は、両手で短剣の柄を力強く握りしめたまま、こちらを見下ろしている。両目から溢れる涙は、いったい、なんなのだろう。
(なんで泣いてるんだよ。笑えよ。敵を討てたんだろ? 復讐を果たせたんだろ。だったら笑えよ……)
血塗られた刃が、迫ってくるのが見えた。
(でなきゃ、殺される甲斐がないじゃないか――)