第四百八十九話 因果は廻る(二)
頭の中で、堂々巡りを繰り返している。
自分はどうすればいいのだろう。なにが正解で、なにが間違っているのか。どうすることが正しくて、どうすることが過ちなのか。もし、過ちを犯したとして、取り戻せるものなのか。取り戻せなかったとすれば、どうしたらいいのか。
そんなことばかりが頭の中で渦を巻いていて、通りすぎる人々への会釈も疎かになってしまう。王家の森から王宮に戻る道順を間違えなかったのは、運が良かっただけなのかもしれない。
突きつけられた問題は、冷静なだけが取り柄の彼女の思考を狂わせてしまうほど強烈だった。いや、突きつけられた、という状況ですらない。彼女に選択権などはなく、決められたことに対してどう反応するかを考える段階にあるのだ。
結論は、ガンディアよりも遙か北の地にあるリョハンで下されたものだ。空中都市リョハンの最高意思決定機関である護山会議は、リョハンに属する彼女にとっても絶対的な存在だった。アズマリア討伐は、リョハンが発した命令であり、《大陸召喚師協会》がそれに従っているのは、リョハンと《大陸召喚師協会》が表裏一体の存在であるからにほかならない。リョハンは《大陸召喚師協会》の総本山でもあるのだ。
リョハンに属し、《協会》に属する彼女には、護山会議の決定に従う以外の道はない。決定を覆したければ、リョハンに赴き、直接意見するしかないのだ。だが、そんなことをすれば、ガンディアにおけるファリアの立場はどうなるのか。
王立親衛隊《獅子の尾》隊長補佐という地位も立場もすべて返上する必要が出てくるのは、当然の話だ。リョハンは遠い。馬を飛ばしても片道数ヶ月はかかると見るべきだ。そして、リョハンに辿り着いたからといって、すぐさま護山会議にお目通りできるかというと、そうもいかないだろう。それに、護山会議の意見を変えることができたとしても、ガンディアに戻ってこられるかどうかさえわからない。条件を出される可能性は大いにあった。
それができないというのならば、護山会議の決定に従うのはどうか。
(そんなこと……できるはずがないじゃない)
叫びたかったが、ここは王宮の通路だ。突如叫び声を上げるなど、ただの狂人でしかない。《獅子の尾》の評判を下げたくはなかった。無論、それだけが理由で叫ばなかったわけではないが。
足場がぐらついている。大地が揺れ、世界そのものが震撼している――そんな感覚が彼女にはあった。ファリアがガンディアを訪れた目的そのものが取り上げられてしまった。そうである以上、ガンディアに留まっている理由はない。いますぐにでもリョハンに戻り、護山会議に意見してもいいはずなのだ。
《協会》の一局員だったならば、そうしたかもしれない。迷いもせず、リョハンに向かったかもしれない。
しかし、ファリアは、ガンディアで自分の居場所を作ってしまった。《協会》の局員という立場を捨て、ガンディア王国王立親衛隊《獅子の尾》隊長補佐になってしまった。戦争を経て、そうすることが、そうあることが当然のことのようになってしまっていた。
セツナの傍らにあり、彼を見守ることが、彼女にとっての日常となっていた。
いまリョハンに戻れば、それら大切な日常の風景を失うことになるのは間違いない。
こういうとき、ミリュウならばどうしただろう。
そんなことを考えてしまう。
ミリュウ=リバイエンもまた、すべてを失った人物だ。ザルワーン人であり、五竜氏族の出身であるミリュウは、ガンディアとの戦争でザルワーンが敗北したことによって、なにもかもを失ってしまっている。そんなとき、彼女に手を差し伸べたのがセツナであり、ミリュウがセツナにぞっこんになってしまうのも無理のない話だと思わないではなかった。
ミリュウならば、セツナに相談したかもしれない。セツナに依存している彼女のことだ。それくらい当然のことだのように思っているだろう。
(それは……できない)
ミリュウが頼るのがセツナであり、セツナに頼られるのがファリアなのだ。ファリアは、セツナを頼る自分のことが想像もできなかったし、そうあるべきではないと決めつけていた。
ファリア・ベルファリア=アスラリアとは、リョハン出身の優秀な武装召喚師なのだ。どんな事態でも取り乱さず、冷静に対処する有能な隊長補佐。それがいまの自分であり、すべてだ。たとえ足場がぐらつき、心が揺れていたとしても、気丈に振る舞わなければならない。ファリアとは、そういう人間であるべきなのだ。
苦い痛みの中で、ファリアは唇を噛もうとして、やめた。晩餐会は舞踏会へと移行しているのだ。そんな中で、唇から血を流している場合ではない。
(ん……?)
ふと視界の片隅を見慣れた人物が横切ったような気がして、ファリアは視線でその人物を追いかけた。王宮の通路には、晩餐会の招待客と思しき人々があふれている。だれもが控室を用意されたわけではないのか、交流の場として活用しているのか。おそらく後者であろう。貴族たちが談笑する光景がそこかしこで見られた。
彼女の視線は、そういったひとびとを掻い潜るようにして、目的の人物を追いかけている。礼服を着こなすことなどまったく出来ていない少年の横顔。
(セツナ……?)
ファリアは、彼の名を声に出してしまいそうになって、慌てて口に手を当てた。ここで彼の名を呼べば、彼と顔を合わせれば、それだけで今さっきの決意が鈍ってしまいかねない。それくらい、ファリアの今の精神状態は不安定だった。
(なにか用事かしら?)
ぼんやりと眺めていると、セツナは王宮の使用人らしき女性に先導されて、どこかへ向かっているのはわかった。セツナは《獅子の尾》隊長であるだけでなく、領伯になったのだ。ファリアの知らないところで彼に関する要件が発生していてもおかしくはない。それらの要件すべてにファリアが干渉することもまた、ありえない。
そして、これからは、そういうことが増大していくに違いなかった。
(なにかは知らないけど、頑張ってね。セツナ……)
ファリアは胸中で応援すると、控室に向かって再び歩き始めた。
「ファリア!?」
「え?」
突然の呼び声に振り向くと、ミリュウが血相を変えて駆け寄ってくるところだった。彼女の剣幕には、通路上の貴人たちが驚き、声を潜めた。ミリュウは、晩餐会場では姫君同然の立ち居振る舞いで、ガンディアの貴族たちにも一目置かれるほどだったのだ。そんな女性が顔色を変えて、叫び声を上げている。
ファリアですら、驚いていた。
「ど、どうしたの?」
「セツナは!? セツナはどこ!?」
ミリュウは、ファリアの肩を力強く掴むと、体を揺さぶる勢いで尋ねてきた。ファリアには、問い返す以外の選択肢がない。
「な、なによいきなり?」
「ファリアがセツナを呼んだんじゃなかったの!?」
「どういうことよ?」
ミリュウの迫力に気圧されたものの、ファリアには、なにがなんだかわからなかった。しかし、彼女が相当追い詰められていることはなんとなくわかった。
ミリュウがなぜ、追い詰められているのかはまったくもって理解できないのだが。
「セツナ様ならば、あちらへ向かわれたようですが」
ミリュウに向かってそういったのは、下膨れの中年貴族だった。ひとの良さそうな顔は、善意の塊そのものに見える。
「あっちね!」
「ちょっと!」
「あんたも来るのよ!」
礼も言わずに駆け出そうとしたミリュウを呼び止めるために伸ばした腕が、がっちりと掴まれる。
そのまま引き摺られるようにして駆け出しながら、ファリアは、なにやら深刻な状況なのだということを漠然と理解した。