第四十八話 獅子の住処へ
雨が降っていた。
王都の上空を覆い隠す幾重もの鉛色の雲が、まるで彼女の想いを投影するかのように、静かに雨を降り注がせていた。彼女の感情を移す鏡であったとしても、それは涙などではない。彼女は悲しみを感じているわけではなかった。
レオンガンド王の凱旋以来、だれもが想像しなかったほどの喧騒に包まれていた《市街》も、連日のお祭り騒ぎが一夜の夢か白昼の幻だったかのように静まり返っていた。雨の中、露店や屋台が通りを賑わすこともない。出歩くひとも希だろう。
しかし、《市街》が沈黙したのは、この静かな雨が原因ではなかった。
皇魔がマルス区に現れ、武装召喚師たちによって殲滅されたという話は、様々な尾ひれをつけながら急速に広まっていったのだ。情報の拡散を抑え切れなかった理由のひとつに、皇魔の死体が多く、処理するために人員を大量に動かさなければならなかったこともあるが、なにより、破壊の爪痕があまりにも大きく、隠すにも隠し切れなかったのもあるのだ。
ただの人間には作りえない破壊跡は、武装召喚師か化け物、あるいはその両方によるものと考えるしかないだろう。そうして導き出された結論が、皇魔と武装召喚師の戦闘であり、王都が安全ではないかもしれないという不安だった。
かくして、ガンディオンは静寂に包まれていた。
「嫌な雨ね」
ファリア=ベルファリアの今日の第一声が、それだった。別段、なにかを想ったわけではない。ただ窓の向こう側に広がる庭園のどこか寂しげな印象が、この沈黙を強いるような雨にあるのだとしたら、嫌なものだと考えただけに過ぎなかった。
手入れの行き届いた庭園には、小さな噴水や多彩な花壇があり、職人技を発揮された彫像などが、この屋敷の主を権威付けるかのようだった。
もっとも、王都でも有数の権力の持ち主の邸宅なのだから、当然といえば当然だったが。
「雨はお嫌いですか?」
「そうね。眺める分には構わないけれど、雨の中を歩くのは嫌いなのよ。傘を差していても濡れてしまうもの」
背後からの問いかけに淡々と返答を浮かべると、彼女は、窓の外から室内に視線を戻した。
応接室の広い空間、そのちょうど中心に設けられた向かい合わせのソファに、ルウファ=バルガザールが所在無げに腰かけていた。テーブルには高級そうなティーセットが置かれている。
「雨は雑音を消してくれますよ」
ルウファの何気ない一言に、彼女は、目を細めた。温室育ちの貴公子にしか見えない青年の瞳に揺らめく影を認めたのだ。もっとも、その淡い影はふとした瞬間に消え失せ、碧眼には軽やかな光が宿るのだが。
「……あなたも苦労しているのね」
「あなたほどじゃないですよ。リョハンの戦女神の名を継ぐなんて、俺には耐えられません」
ルウファが苦笑する。
「実際、俺はバルガザールの家名の重圧から逃げ出しましたから」
「それで武装召喚師に?」
「ええ。それでも結局この家に戻ってきてしまうんですよ。武装召喚師として独立したにも関わらず、ね」
自嘲気味に微笑する青年に、ファリアは、軽く笑い返した。彼の言いたいことは理解できる。血の縁。逃れようのない宿業なのかもしれない。どれだけ忌避しようと、その重圧の渦の中に飛び込んでしまうしかないのだ。
そういう世界だ。
みずからの生まれや身分によって、辿るべき人生を決定付けられてしまうのだ。平民には平民の、貴族には貴族の、王には王の役目がある。
ファリアであれ、ルウファであれ、同じことだ。それぞれに生まれ持った使命があり、そのさだめを拒絶することなどできない。みずからの想う通りに生き、想い通りに死ぬことができるものが、この世界にどれだけいるのだろうか。稀有な才能を持っていようと、秀でた能力があろうとも、自由には振舞えない。いや、むしろそういった突出した部分に引き摺られてしまう。
では、セツナは?
(セツナは……どうなのかしら?)
ファリアは、脳裏に浮かんだ少年のことを想った。
アズマリア=アルテマックスにより異世界から召喚されたという少年。一見するとどこにでもいそうな少年に過ぎないのだが、しかし彼は、黒き矛を召喚することにより一騎当千の猛者となった。その戦いの凄まじさたるや、異世界の化け物と比べても遜色はなく、味方であるはずの兵士の間からも、彼のことを恐れるものが現れるほどだった。
皇魔と同じ化け物――といったのは、彼を召喚した張本人だが。
確かに、化け物染みた強さではある。その強さのひとつが彼の召喚武装の黒き矛であり、セツナが術式を用いずに武装を召喚することが、彼の強さを助長していた。どのような窮地に陥っても、即座に黒き矛を召喚してしまえば、たちまち形勢は逆転するだろう。ファリアではそうはいかない。
それだけの力を持つセツナは、これからどうなるというのか。
彼ならば、みずからの意志の赴くままに進むという生き方もできるかもしれない。黒き矛の圧倒的な力に物を言わせれば、自由を勝ち取ることも夢ではない。
もっとも、いまはまだ萌芽に過ぎない。すべてにおいて経験が足りないし、なにより、力を使いこなせてすらいないのだ。現状のセツナならば、戦いようによってはファリアでも勝つことができるだろう。だが、いずれその才能が大輪の花と咲いた暁には、だれひとりとして彼を止めることはできなくなる――そんな予感が、ファリアの中にあった。
それは不安とは違う。むしろ、期待しているのだろう。彼の中にある無限に等しい可能性に。
「あなたには帰るべき場所があった。そういうことでしょう?」
「ええ。そうなりますね。そして、それでよかったと思っています」
「わたしもよ。帰るべき場所があるということは素晴らしいことなのよ。きっとね。でも、彼には、ないのよ」
ルウファと会話しながらも、ファリアの頭の中を渦巻くのは、セツナのことだけだった。いまはそれ以外に考えられないのだ。自分の置かれている立場や状況など、二の次にならざるを得ない。なぜならば、ファリアには彼女を護ってくれるものがいくらでもあるのだ。それは《大陸召喚師協会》という組織であり、彼女の名もまた、彼女をあらゆる権力から護ってくれるだろう。
しかし、彼にはそれがなかった。セツナには後ろ盾がないのだ。アズマリアという名は、ファリアやレオンガンドの興味を惹くという点に関しては相当な威力を発揮したものの、彼の立場を確固たるものにするという代物ではなかった。そして、彼がアズマリアの関係者ではあるものの、弟子ではないとわかった以上、その価値はさらに下がったと見るべきだろう。
もっとも、いまの彼になんの価値もないわけがない。
黒き矛の存在がある限り、彼の命は保障されるはずだ。少なくとも、命だけは。
「セツナにですか?」
「あるとしても、みずから望んで帰ることなんてできないでしょう? 世界は隔絶されているもの。自由に行き来なんてできるはずがない」
それを可能にするのが、アズマリアの《門》なのであろう。ゲート・オブ・ヴァーミリオン。その忌まわしき名は、彼女の耳朶に深く刻み込まれていた。彼女にとって忘れがたい召喚武装だった。それはもはや武装などと呼べる代物ではないのかもしれないが。
ファリアは、嘆息した。
「セツナは、どうなると想う?」
「異世界から召喚された存在を丁重に扱う法なんてありませんよ」
ルウファは、にべもなく告げてきた。それは事実だ。どうしようもない常識だった。覆す必要もない。そんな悪法が施行されていた場合、人間という種は危機に瀕していたに違いない。異世界の住人である皇魔を積極的に駆逐できないということに直結するからだ。それは化け物の増殖と繁栄を許すことに他ならない。そしてその結果は考えずとも分かるだろう。
が、それでもファリアは、彼に冷ややかな視線を送らざるを得なかった。
「彼は人間よ」
「わかってますよ。ただの冗談です」
慌てたように言ってきた青年に対し、彼女は、窓の外に視線を向けることでみずからの意志を示した。
「彼が化け物なら、わたしも半分は化け物だわ」
ファリアのつぶやきが彼に聞こえたのかどうか。
窓の向こうで、雨脚は強くなる一方だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
時を遡る。
王都ガンディオンの《市街》マルス区の路地。皇魔レスベルとの戦いの跡が生々しく残るその場所に、セツナとファリア、そしてルウファの三人だけが取り残されていた。アズマリア=アルテマックスは、いつの間にか、地獄へ至るという《門》とともに消え失せいたのだ。
黒衣の魔女の言い残した言葉が、セツナの思考を硬直させていた。
「えーと……つまり、どういうこと?」
話についていけないのだろう――ルウファが、だれとはなしに尋ねてきた。
セツナは、返答に窮した。なんと答えるべきなのだろう。アズマリアの言ったことを事実だとでも言えばいいのだろうか。異世界から召喚されたのだと。だが、その正しい答えが自分になにをもたらすのか、セツナは考えあぐねていた。
必ずしも正しい答えが幸運をもたらすとは考えられない。人間、正直が一番だとは想う。だが、その結果痛い目を見るのは自分である。カランの街で焼き殺されかけたのも、正直に生き過ぎた結果に過ぎない。といって、この状況で誤魔化せられるほど頭がいいわけでもない。都合よく天啓が閃くわけもない。頭の中は目まぐるしく回転ぢているが、それは堂々巡りに他ならず、現状を打開するような奇策が思いつくはずもなかった。
いつかは――。
(そうだよ。いつかは話そうって想ってたんだ……)
いつか必ず、ファリアには、話さなければならないと考えてはいたのだ。自分の命を掬い上げてくれ、なおかつ、今まで行動をともにしてくれた大恩人なのだ。自分の真実を伝えなければならないのは当然だと想っていた。だが、それはもっと後のことだと考えていた。もっと、もう少し、セツナの身の回りの状況が整ってから、と。
落ち着いてから、と。
しかし、魔女の言葉は、それを許さなかった。
セツナは、ふと顔を上げた。いつの間にか、ファリアの姿が目の前にあった。彼女のエメラルドグリーンの瞳が、こちらを見据えている。
唇が、開く。
「セツナ……君はいったい、なにものなの?」
セツナは、絶句し、己の浅はかな考えを恥じた。
ファリアのまなざしがあまりにも澄み切っていたのだ。そこにセツナへの疑念や敵意は見当たらなかった。といってこちらを気遣っている風でもない。ちょっと気になることでも訊ねるような、そんな様子があった。
ファリアは、セツナが考えている以上にこちらのことを考えてくれているのかもしれない。
だからこそ、セツナは、卑屈に笑わずに済んだのだろう。
「アズマリアの言った通りさ。俺は異世界の住人で、あいつに召喚されたんだ――」
そして、セツナは、ファリアの想いに答えるべく、この世界に来た経緯を丁寧に話そうとした。だが、それはすぐには叶わなかったのだ。
「……それはつまり、君は皇魔と同種の存在ということか? セツナ=カミヤ」
「!」
口を挟むようにしてセツナに投げかけられたのは、低い男の声だった。決して聞きにくい声音ではない。むしろよく通る声であり、しっかりとした口調だった。冷ややかで、厳しさのある声色は、セツナにはっとさせた。
セツナは、即座に声のした方向に目をやった。それはファリアやルウファも同じだっただろう。気づいていなかったのだ。第三者の存在に。
それは集団だった。
先頭に立つのは、長身の男である。彼が声をかけてきたのは明白だった。金髪碧眼。どこかルウファに似た容姿でありながら、受ける印象はまるで違う。ルウファが軽妙ならば、男は重厚というべきか。黒っぽい装束を身に纏っているが、それらは旅塵で汚れているように見えた。
男の隣には、幼げな少年がいた。集団の中でひとりだけ浮いている少年もまた、金髪碧眼だった。利発そうな少年ではあったが、いまはこちらのことに興味津々といった様子だった。
そのふたりの背後に控えるのは、数十人の男たちである。だれもかれもが屈強な戦士を想起させるような連中であり、旅装に身を包んではいるものの、その強靭な肉体を隠しきれてはいなかった。無論、隠す必要もないのだが。
「ラクサス兄さん……!」
ルウファの愕然としたような言葉は、セツナが男の容姿に対して抱いた感想が間違いではなかったことを告げていた。が、そんなことはどうでもいいくらいの驚きを覚えて、セツナは、ルウファと男を見比べた。瓜二つというほどではないにせよ、顔のよく似た兄弟だった。
「ルウファ、おまえにも聞きたいことは山ほどあるが、それは後だ。まずはセツナ=カミヤ、君の話を聞かなくてはならない。この状況、この有様、そして君の正体について、洗いざらい話してもらおうか」
冷厳な声音だった。反論する余地は愚か、声を発することすら許されないような響きがあった。それはきっと、彼が言葉を続けるつもりだったからだろう。
「わたしはラクサス=バルガザール。ガンディア王家に仕える騎士のひとりだ」
男は、そう名乗った。
彼は、ガンディアの将軍アルガザード=バルガザールの長男であり、ルウファ=バルガザールの実の兄だった。そして、彼の隣にいた少年はロナン=バルガザール。三兄弟の末弟であり、年齢的には一番セツナに近いという話だったが。
それらは、すべてを終えてから聞いた話である。
いや、まだなにも終わってはいなかったのだが。
雨音が、天蓋を叩いている。
セツナは、ひどく落ち着きのないまなざしで、外を眺めていた。そもそも落ち着いてなどいられるはずがなかった。王宮へと向かう馬車の中なのだ。昨日ラクサスたちに話したことをレオンガンド王に直接伝えなければならなくなった、というのだ。
それは、さながら死刑囚が断頭台へと向かうのに似ていた。
(いや、たぶん全然違うけど……)
セツナは胸中で頭を振ったが、ため息を打ち消すことはできなかった。どうしようもない不安と、押し退けようのない重圧が彼の胸を締め付けていた。これから数時間後の自分のことを考えるだけで、目の前が真っ暗になった。未来のことなど、考えるだけ無駄なのはわかりきっているのだが、考えてしまうのが人情だろう。
もちろん、セツナはレオンガンドのことを信用している。彼の実績を知っているわけではないし、本当のことなどなにもわからない。が、人となりはそれなりに理解しているつもりだった。気さくな、とても一国の王とは思えないほどに優しい人物だった。
そんな青年王のことだ。セツナのことを理解してくれるだろう。少なくとも、理解しようと努力してくれるはずだ。しかし、国を運営し、国民の上に立つものが、個人的な見解で動いていいはずがない。独裁者ではないのだ。
もし、レオンガンドの周りのものが、セツナの存在を異世界の化け物だと判断したとき、レオンガンドはどうするつもりなのだろうか。
セツナの不安は、そこにあった。もっとも、セツナの考えがそこに至ったのは、「気をつけてね」というファリアの言葉と、そのときの彼女の強いまなざしのせいではあったのだが。
決然たる表情で見つめられた挙句、気をつけろ、などといわれれば、深く考えざるを得ない。浅慮だとわかっていても、必要以上に考えてしまうのがセツナという人間だった。
馬車には、セツナのほかにラクサスが乗っているだけだった。ラクサスは、昨夜のうちに仕上げたという報告書に目を通している。その報告書には、昨日セツナが語ったことが列挙されているのだろう。
セツナが生まれ育った世界のこと。この世界に召喚された経緯。召喚されてからのこと。その他諸々――。
もっとも、セツナへの事情聴取は、拍子抜けするほど穏やかな雰囲気の中で行われていた。本当に笑ってしまうほどに。
あの後、セツナたちは、バルガザール家の住む屋敷に連れて行かれたのだが、それから事情聴取を始めるまでに一時間ほどの休憩が挟まれたのは、セツナたちがレスベル退治に力を注ぎ、疲れているのが目に見えていたからだという。
ラクサスの立場を考えれば、セツナへの事情聴取などすぐにでも始めてもいいはずなのだが、それができない人物なのだろう。最初の印象とはまったく異なる性格らしかった。
そうして、セツナへの事情聴取は終わった。なにを話したのか思い出せないほどに話し倒したセツナは、その日は疲れ切ってそのまま寝てしまった。そう、セツナは人間として眠ることが許されたのだ。異世界の化け物として扱われることはなく、惰眠を貪ることができたのだ。それはきっと、ファリアの助力があったからに違いなく、セツナは、睡魔の中でも彼女への感謝だけは忘れなかった。
そして翌朝――つまり今朝だ――、セツナはラクサスとともに王宮へと向かうことになったのだ。
王都ガンディオンの中心にしてガンディア王国の中枢、獅子王宮へ。