第四百八十七話 ファリア・ベルファリア=アスラリア(三)
「ともかく、ぼくは、君に護山会議の決定を伝えるという役目を果たしたわけだ。君は、この決定に従うしかない。素直にアズマリア=アルテマックス討伐から手を引くんだね」
魔晶灯の上で、クオール=イーゼンがこちらに背を向けた。背から伸びた漆黒の翼が翻り、無数の羽が舞い散る。それらの羽は、魔晶灯の光の中に溶けるようにして消えた。
ファリアは、茫然と、その光景を見ていた。突きつけられた言葉と叩きつけられた現実に打ちのめされている。頭の中で無数の情景が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。多くは、リョハンの日々だ。家族との幸福な日々の情景であり、武装召喚師の修行時代の光景だった。そういった光景が激流のような慌ただしさで脳裏を過っていくのは、決別しなければならない可能性が浮かんだからかもしれない。
「そして、リョハンが君を必要とするまで、人生を謳歌するといい。それは大ファリア様の望みであり、護山会議も容認したことだよ。君は、いまのうちに人生というものを思う存分に楽しむことだ。いましかできないことがあるだろう? それを、ね」
クオールの台詞を聞きながら、彼女は拳を握った。力を込め、ともすれば壊れそうな意識を纏め上げていく。ゆっくりと立ち上がり、顔を上げた。クオールは、もはやこちらを見てはいない。彼は任務を終えた以上、ここに留まっている必要がないのだ。すぐにでもリョハンに戻らなくてはならない。彼は、そういう立場にある。
ファリアは、クオールの背を睨んだ。悪魔めいた翼が燐光を帯び、いまにも力を発揮しようとしている。発動すれば最後、彼女には追いつく術などなくなる。
「わたしはまだ、納得していないわよ。アズマリアは、わたしがこの手で、必ず……!」
「だからさ。それが無理だから、ぼくらのうちのだれかが代わりに殺るっていってるんだろう? 君に母親を殺せるのかい? あの優しかったミリア様を手に掛けることができるというのかい?」
クオールがこちらに向けたまなざしは、いままで見た中でもっとも優しく、慈しみに満ちたものだった。まなざしだけではない。表情も、声音も、泣き喚く赤子をあやすよりも余程優しい。
その優しさが、ファリアの心に刺さる。
「できないだろう。できるはずがない。ぼくだって同じさ。ミリア様を殺すなんて以ての外だ。赤の他人のぼくですらそうなのに、実の娘の君に、そんなことができるとは到底思えない」
ファリアの母ミリア=アスラリアは、戦女神ファリア=バルディッシュの愛娘であり、有能な武装召喚師だった。リョハンにおいて知らぬものなどいないのは、大ファリアの娘なのだから当然だったが、それを差し引いても、多くの人々に慕われていたのがミリアだ。ミリアは、大ファリアの後を継ぐのではなく、後継者の育成に自分の人生を見出していたらしく、そのためか、彼女には弟子が多かった。ファリアもミリアから武装召喚術の基礎を学んでいたし、彼女の同年代の武装召喚師は、ほとんどがミリアの手ほどきされていたはずだ。クオールもそのひとりだ。彼がミリアを慕うのは、そういう理由もあるだろう。
「でも、それでも、わたしは……!」
「わかっていると思うけど。君が護山会議の決定に背けば、君は《協会》はおろか、リョハンでの立場すら失うことになるということを忘れないことだね。君だけじゃない。大ファリア様の立場すら、危うくなる――なんてことはないけれど、大ファリア様が悲しむことは間違いない」
大ファリアの名を出されただけで揺らぐほど、彼女の中で祖母の存在は大きい。ファリアがファリアとして立っていられるのも、偉大なる祖母が生き方を示してくれたからなのだ。そんな祖母を悲しませたくはないという想いは強い。彼女の心に負担をかけたくはないのだ。
しかし、それでも、彼女は、アズマリアを討たなくてはならなかった。それが父と母の最後の願いだからだ。
「護山会議に意見したければ、リョハンに登ることだ。なに、ここからなら半年もあればリョハンに戻れるさ。その場合、君がこの国で得た地位や身分を捨てることになるかもしれないけど、なにをするにしても、それくらいの代償は必要だろう」
クオールの言葉に反論を挟む余地はなかった。彼の言う通りだ。護山会議は結論を導き出し、大召喚師にしてリョハンの指導者たるファリア=バルディッシュの承認さえ取り付けている。ここでクオールに反論したところで、なんの意味もないのだ。護山会議の結論を伝えることが彼の役目であり、ファリアの言い分や言い訳を聞くために遣わされたのではないのだ。
クオールの優しすぎる視線が、ファリアに冷静さを取り戻させる。
道は、三つある。
(三つ……)
護山会議の決定に従うか。
それとも、護山会議に意見するため、リョハンに向かうか。
あるいは、護山会議の決定を無視し、いままで通り、アズマリアを討つために戦うのか。
「ぼく個人の意見を言わせてもらうと、君はここで幸せを掴むべきだ。《獅子の尾》隊長といるときの君は、まるであのころの君のように輝いて見えたよ」
「なにを……いうのよ……」
「君にだってわかっているはずだ。本当は、ミリア様を殺したくないってことくらいわかりきっているはずだ。アズマリアなんて放っておけばいいのさ。リョハンのだれかが、《協会》のだれかが、アズマリアを討ってくれる。君がミリア様を手に掛ける必要はない」
彼が母の名を言葉にするたびに、ファリアの胸は痛みを覚えた。アズマリア=アルテマックスへと変わり果てたそれに、もはやミリアの意識が残っているのかどうかさえわからない。しかし、それは確かにファリアの母ミリアの肉体を元にしているのだ。ファリアは、その事実を王都での再会時に確信していた。
だから、殺せなかったのだ。
クオールの目が、輝く。
「なんなら、ぼくが君の代わりにミリア様を殺そうか?」
「っ!」
「怖い目だ。これではっきりとわかったよ。君にアズマリアは殺せない。君はまだ、ミリア様を愛している」
「当たり前でしょ……!」
「そう。当たり前のことさ。それがわかっただけでも、良かったじゃないか。頭を冷やしなよ。君には君の人生がある。幸福を掴む権利がある。リョハンに戻らず、生きるという道もある。それは少し寂しいけれど、君の過酷な運命を思えば、それくらいは許されて当然のことだと想うよ」
「あなたになにがわかるっていうのよ!」
ファリアは叫んで、はっとした。大声を上げれば、王家の森を巡回している衛兵に気づかれるかもしれない。それは、彼女の立場を考えれば、決して良いことではないだろう。彼女は《獅子の尾》隊長補佐であり、今夜王宮大広間で行われている晩餐会の招待客なのだ。得体のしれない人物を口論しているところを見られるのは、立場上まずいものがある。
もちろん、誤解を解くことは簡単だ。彼がリョハンの使者であるということを明かせばいい。クオール=イーゼンという武装召喚師であり、護山会議の使者としてファリアの元に訪れたのだと説明すればいいだけのことだ。しかし、そうなると、なぜ彼が彼女の元に訪れたのかも説明しなければならないかもしれなくなる。
それはファリアの心情としては、勘弁して欲しかった。
しかし、そういった体面的なことがどうでもよくなるくらいに感情が激発してしまったのは間違いない。
自分の人生がどうとか、他人にとやかくいわれたくはなかった。生まれによって定められた過酷な運命がなんだというのか。
ファリア=バルディッシュの孫娘として生まれ、ファリアの名を与えられた彼女には、生き方を選ぶ権利がなかったのは事実だ。だからどうだというのか。子供の頃から幸せだったし、いまでも幸福を感じることはある。十分だ。これ以上望むべくもないと想うくらいには、幸福な人生だ。
あとひとつ願いがあるとすれば、アズマリア=アルテマックスを滅ぼし、母を解放するということだが、護山会議の決定は、その願いを叶える権利を彼女から奪い去るものだった。
「そうだね。ぼくには君のことなんてわからないさ。これっぽっちもね、でも、君がたったひとりで戦い続けてきたことは知っているよ」
クオールの言葉に、はっとする。
「だれよりも苛烈な訓練を乗り越え、だれよりも貪欲に学び、だれよりも熱心に鍛え抜いていたのが、リョハン時代のファリア・ベルファリア=アスラリアだ。君は自分に妥協を許さなかった。他人には徹底して甘いというのにね。そういう君が皆の尊敬を集めるのは、当然のことだったんだろうね」
「たいしたことじゃないわよ……」
両親を失ったファリアには、他に取るべき道がなかっただけのことだ。自身を鍛え抜くしかなかった。術を学び、研ぎ澄ませていく以外、アズマリアに対抗する手段が思いつかなかった。そして、それが正解だったはずだ。他人の優しさに甘えるだけの余裕がなかったのは間違いないが、最大の理由は、父の敵を討ち、母を解き放つための唯一の方法がそれしかなかったからだ。
「たいしたことじゃないといえることがさ、普通じゃないんだ。だから皆が君を応援した。君の力になりたいと想った。ぼくだってそうさ。けれど、君は協力を拒んだ。たったひとりで、自分の運命を乗り越えようとした。それは尊いことだと想うよ。でも、ぼくらは寂しいと感じていた」
クオールの言葉で、ファリアはリョハンでの修行時代のことを思い出さざるを得なかった。《大陸召喚師協会》の総本山にして、武装召喚術の中心たるリョハンは、その人口の三割ほどが武装召喚師といってもいいほど、武装召喚術が盛んだった。それどころか、リョハンに生まれたものは、多かれ少なかれ武装召喚術を学んでおり、ほとんどの住民が武装召喚術の基本くらいは齧っているほどだ。武装召喚師を育成するための学校もあれば、私塾のようなものも無数にあった。ファリアは、武装召喚師の家に生まれたこともあって、両親と祖母に術の基礎を学んだものだ。同年代の武装召喚師には、ファリアと同じくメリクスとミリアに学んでいたものが多くいた。同輩のことを思い出すと、懐かしさがこみ上げてくる。
空中都市リョハンの町並みが脳裏に浮かんで、消えた。
「もういいじゃないか。他人を頼り、他人に甘えることはなにも悪いことではないさ。君は存分に戦い抜いてきたじゃないか。傷つき、疲れ果て、それでも母を殺そうっていうのかい?」
「わたしの手でやらなければ、意味がないのよ」
「君はどうしてそう強情なんだろうね?」
「しかたがないでしょ。これがわたしなのよ」
ファリアは、自分の胸に手を当てた。鼓動は正常な速度に戻っている。足場が揺れている感覚はまだ残っているものの、冷静さは取り戻せていたし、思考も明瞭だ。最初取り乱したのは、衝撃が強すぎただけのことだ。冷静にさえなれれば、もう、だいじょうぶだ。
「わたしはファリア=バルディッシュではなく、ファリア・ベルファリア=アスラリアなの。リョハンの戦女神ではなく、ただの人間なのよ」
「わかったよ」
クオールは肩を竦めて笑った。かと思うと、厳しい表情でこちらを見た。
「だが、護山会議の決定は覆らない。覚えておきなよ。君がもしアズマリアと接触したとしても、手を出すことは許されない。君は、アズマリア討伐任務から外されたのだから」
レイヴンズフェザーが眩しい光を発したかと思うと、ファリアの視界からクオール=イーゼンの姿が消失した。その場に残るのは、跳躍のために切り離された無数の羽。虚空に舞い踊り、魔晶灯の光の中で燃え尽きる。
「……わたしにどうしろっていうのよ」
ファリアは、だれもいなくなった魔晶灯の上を見据えたまま、茫然とつぶやいた。
クオールを言い負かしたところで、事態はなにも変わっていない。護山会議の決定は絶対的であり、彼女がリョハンや《協会》に所属する意志がある限り、従わざるをえない。意見を通したければ、彼のいったようにリョハンに戻るしかない。
リョハンに戻るということは、今の生活をすべて捨てるということだ。
ガンディア王立親衛隊《獅子の尾》隊長補佐という身分を、数ヶ月、あるいは一年以上もの間、保証してくれるというのか。それは甘い考えというものだ。ガンディアは、ファリアがいなくなっても十分なだけの戦力を得た。ミリュウ=リバイエン。ファリアがいなくなれば、ミリュウがファリアの代わりに隊長補佐を務めることになるだけだろう。
ガンディアにとってファリアの価値など、その程度でしかない。
そして、隊長補佐という地位を失えば、ファリアはもう二度と、この国に関わることができなくなるのではないか。
セツナと会えなくなるのではないか。