第四百八十六話 ファリア・ベルファリア=アスラリア(二)
「なにをいっているの?」
ファリアは、クオールが告げた言葉の意味を理解しながらも、衝撃のあまり、そんな風に問い返すしかなかった。予想すらできなかった言葉が耳に飛び込んできたとき、人間の思考能力というのは、大幅に退化するか、麻痺してしまうものらしい。
「わたしが、アズマリア討伐から外されるの……?」
「そうだよ。いや、厳密にいえば、既に外されているといったほうが正しい。護山会議は結論を出した以上、君の返事を待つ必要はないからね。討伐任務の補充要員も決定済みだったし、ぼくがこの王都に辿り着くころには任命されているに違いないさ」
魔晶灯の上の悪魔は、逆光の中で笑いもせずにこちらを見ている。闇夜に広がる漆黒の翼は、そのまま夜空に溶けていくかのような巨大さを誇っている。凶鳥の魔翼。
彼が嘘をついているという可能性は、考えられなかった。衝撃が強すぎたこともあるが、なにより、彼がファリアを欺く必然がないからだ。そして、彼がファリアを欺くためだけにリョハンを離れるなど、ありえないことだ。あってはならないことでもある。
クオール=イーゼンは、リョハンの意思決定機関であるところの護山会議に支配されている。彼がみずからの好奇心や欲望を満たすためだけに武装召喚術を行使することなど許されないし、リョハンを離れることなどできるはずがなかった。彼が護山会議の支配から放たれ、リョハンとも決別したというのなら考えられなくもないが、彼に限っていえば、そんなことはありえないだろう。
彼は、本当のことをいっているのだ。きっと。
だからこそ、ファリアの思考が乱れた。
「待って。ちょっと待ってよ。わたしがなにをしたのよ? わたし、任務から外されるようなことをしたの?」
感情が溢れて、思考が乱れている。自分でもなにをいっているのかわからないほどの錯乱状態の中で、それでも冷静な部分がクオールとの会話を続けていた。リョハンの使者である彼との会話から、現状に至る経緯を聞き出す必要があったのだ。しかし、混乱は止まらない。視界が揺れていた。目頭が熱い。わけのわからない感情の揺らぎが、涙を喚起させている。だが、泣いている場合ではない。理由を聞き出さなくてはならないのだ。
「なにもしていなかったからじゃないか?」
「……!」
氷の刃のように研ぎ澄まされた言葉が、ファリアの胸を貫く。クオールの目が、淡い光を帯びている。まるで人外の怪物と対峙しているような感覚を抱くが、それはレイヴンズフェザーの作用に過ぎない。彼が“吸血鬼”と呼ばれる所以も、そこにある。
「君が、ガンディアでの軍人生活に現を抜かしているから、護山会議も呆れ果てたのさ。もう君の面倒は見きれないってね」
「そんなこと……!」
「護山会議は、元々、君がアズマリア討伐に参加するのを望ましく思っていなかったからね。ちょうどいい機会だと思ったに違いない。リョハンの将来を背負うはずの人間を、アズマリア追跡のためだけに使うのは勿体無いと考えるのは、当然のことだろう」
ファリアが睨みを効かせると、彼は大袈裟に肩を竦めた。
「冗談だよ。知っているさ。なんだってね。君がこの国に派遣されたのは、アズマリアの目撃情報が多かったからだし、実際、君はアズマリアとの接点を得た。セツナ=カミヤ。いや、セツナ・ゼノン=カミヤか? どっちでもいいか。とにかく、君はアズマリア=アルテマックスと接点を持つ人物を監視下に置いた。その点は、リョハンも大きく評価している。護山会議ではなく、リョハン全体がね。さすがは大ファリアの孫娘だと評判だったさ」
(監視下……)
リョハンへの報告書には、そういう風に書いたかもしれないということを思い出して、自己嫌悪に身悶えした。しかし、あのとき、セツナの口からアズマリア=アルテマックスという名が出たとき、ファリアが心の中で歓喜したのは疑いようのない事実だ。そして、彼の側にいれば、アズマリアと接触できるのではないかと期待した。セツナを見守り続けた理由のひとつがそれだということは、セツナ自身にも告げたことだ。互いに利用しあっているとは、セツナの言葉だが。少しばかり、罪悪感を覚えたのは、そのころにはアズマリア追討以外の理由が大きくなり始めたからに違いなかった。
「だから、護山会議も君にすべてを任せることにした。君のしたいようにさせることに決めた。決定すれば、それで終わりだ。あとは君の報告を待っていればいい。君の判断が間違っていなければ、君はアズマリア=アルテマックスと接触し、討伐の任を果たすだろう。君ほどの武装召喚師だ。できないとは、だれも思っていなかったよ」
「だったら、もう少し待っていてくれてもいいじゃない。わたしは必ずアズマリアを討伐する。そう約束したのよ。父と、母に……」
「待ったさ。待ったからこそ、この結果なんだよ。君には期待できない。護山会議はそう結論し、大ファリア様も承認された」
「ファリア様が……どうして!?」
ファリアは、愕然とするあまり、その場にへたり込んだ。いや、わかっていたことだ。護山会議の決定は、大ファリアことファリア=バルディッシュの承認を得て、初めて効力を発揮するものだ。承認を得てもいない護山会議の結論を伝えるためだけにクオールが翔んでくるというのは、悪い冗談以外のなにものでもないのだ。
しかし、言葉にされるのとされないのでは、受ける衝撃が違った。ファリア=バルディッシュは、ファリアの実の祖母である。ファリアの名は、彼女の名前から取られており、ベルファリアもファリアの孫という意味だった。つまり、ファリアの孫のファリアという名前であり、その名には、彼女の両親や周囲の期待が込められていた。
リョハンではふたりを区別するためにファリア=バルディッシュのことを大ファリア、ファリア=アスラリアのことを小ファリアと呼ぶことが多かった。そのことに不満を抱いたことは一度もない。むしろ、偉大過ぎる祖母と同じ名前であるということで、彼女は思い悩むことが多かった。そんな彼女をだれよりも励まし、力になってくれたのが祖母ファリアであったのだ。
その祖母にすら見放されたとなれば、ファリアは、足場を見失わざるをえない。
「じゃあ聞くけど、君はどうしてあのとき、アズマリアを殺さなかった?」
「それは……!」
「君の報告書には目を通したよ。状況は理解した。けれど、君ほどの召喚師ならば、不意をついてアズマリアを殺すことだってできたはずだ」
返す言葉もなかった。
彼の指摘は、なにひとつ間違っていない。
大陸暦五百一年七月六日、魔人アズマリア=アルテマックスが王都ガンディオンに現れ、多数の皇魔を市街に解き放った。セツナやルウファの活躍もあって皇魔の群れは難なく撃滅されたものの、皇魔を呼び出した張本人であるアズマリアには逃げられてしまった。ファリアはオーロラストームで攻撃したものの、致命傷はおろか、傷ひとつ負わせられなかった。ファリアは、全力で攻撃したつもりだった。しかし、アズマリアの姿を見た彼女の頭の中で、なにかしらの制御がかかったのは、結果を見ればわかることだ。
手が震える。あのとき感じた、オーロラストームを握る手から血の気が引いていく感覚を思い出して、彼女は顔を上げた。滲んだ視界の向こう側に、リョハンの使者が佇んでいる。
魔晶灯の上で、クオールの目が爛々と輝いていた。その光は、時間とともに強くなっており、いかにレイヴンズフェザーの作用が強力なのかがわかろうというものだが、いまのファリアには彼の身を気にしている余裕はなかった。
どれだけ冷静になろうとしたところで、自分のすべてが失われていく実感の前ではどうにもならないのだ。
「理解したかい? 護山会議が君をアズマリア討伐から外した理由」
「そんなの、勝手すぎるわ……たった一度、しくじっただけじゃない。わたしはアズマリアを倒すためだけにここまで来たのよ。アズマリアを倒して、父の無念を晴らすために……!」
「個人的な感情を優先するのは良くないことだ。もちろん、理解しているけどね」
クオールは、やけに穏やかに続けてきた。まるで、ファリアの心情を思いやるかのような口調に、彼女はむしろ苛立ちを覚えたが、それは自分の無力さが原因だということにも気づいている。やり場のない苛立ちを彼にぶつけることなどできるはずもなく、彼女は、力なくうなだれた。反論する気力さえ、消えていく。
「でも、だからこそ、君はアズマリアを殺せない。あのときだって、殺さなかったんじゃない。殺せなかったんだろう?」
クオールの言葉は、そのまま、護山会議からの宣告だったのだろう。
「父の復讐のために母を殺すことなんて、君にできるわけがない」