第四百八十五話 ファリア・ベルファリア=アスラリア(一)
王宮晩餐会の席上、《獅子の尾》隊長にして王宮召喚師セツナ・ゼノン=カミヤに新たな肩書として領伯が追加されることが、改めて発表された。
太后グレイシア、レマニフラの姫ナージュ、ルシオンの王子夫妻、ミオンの突撃将軍、ガンディアの将軍や軍団長、そして数多の貴族たちが見守る中、セツナは国王レオンガンドの前に傅き、領伯としての名を与えられた。
セツナ・ラーズ=エンジュール。
エンジュール領伯セツナ誕生の瞬間、大広間は割れんばかりの歓声と拍手で満たされた。そのうちどれほどが心の底から喜んでいたのかはわからないが、少なくとも、ファリアの目には、セツナ自身は喜んでいるようだった。恥ずかしそうにはしていたが。
セツナが喜んでいるのなら、それ以上なにも言うことはない。
安易な結論に疑問も持たないまま、晩餐会の第一部の終了が告げられた。
「第一部というのは、いったいどういうことなのかしら?」
「食事会の後は舞踏会。だそうよ」
ミリュウがいつになく艶やかな手つきでセツナの首に腕を回そうとするのを懸命に阻止しながら、ファリアは答えた。優雅な身のこなしからは想像もつかないほどの膂力に唖然とする。が、彼女は鍛え上げられた武装召喚師なのだ。見た目に騙されてはいけない。
「へえ、舞踏会ねー。俺、興味ないなあ」
「興味なくても、領伯様なら出ないとまずいっすよ」
「そうなの?」
ルウファの言葉に、セツナが目を丸くする。
「それはそうでしょうね。領伯様といえば、ガンディアでは国王陛下に次ぐ地位にあるとされるお方。王侯貴族の皆様方と触れ合う機会を逸するわけには参りませんわ」
「領伯になっても《獅子の尾》隊長に専念してくれって陛下にいわれたんだけどなあ」
「だからといって、領伯のお披露目の場で、当の本人である領伯様がなにもしない
「……ミリュウってさ、いったいなにものなのさ」
セツナが憮然としたのは、ミリュウの態度が気に食わなかったというわけではなく、ミリュウという女性の正体が掴めなくなったからかもしれない。ファリアは同意した。
「ついさっきまで普通に喋ってたくせにね」
「あー、もう、うっさいわね。いいじゃん、別に」
「いいけどさ」
「まあ、とにかく、控室が用意されてるみたいだし、そこで待ってましょう」
ファリアがうながすと、四人が四人、一斉に席を立った。
「そっか、舞踏会のために準備が必要なんだ」
「会場のね」
セツナとミリュウの会話を聞いていると、ファリアは、後頭部に刺さるような視線を感じた。足を止める。振り返らず、意識だけを集中する。何百人もの人間が動いている会場の中、特定の視線の元を探し出すことは不可能に等しかったが、視線が一瞬で消えたことにはなんらかの意図を感じずにいられなかった。
「ファリア、置いて行くわよー」
気品もなにもあったものではないような言い方に、ファリアは口元をほころばせた。やはりいつものミリュウのほうが、とっつきやすくて、いい。
着飾ったミリュウも決して悪いものではないのだが。
「あー、わたし、ちょっと……」
「りょーかーい。先に行ってるわねー」
ファリアが言葉を濁すと、ミリュウは瞬時に察してくれた。隣のセツナはぽかんとしていたし、ルウファに至っては、いつの間にか合流していたエミル=リジルと戯れていたのだが。
「ええ」
ファリアは、ミリュウの思い込みに感謝すると、セツナたちが大広間を後にするのを待ってから、大広間を出た。
不馴れなものからすれば迷宮同然の王宮内を、勝手知ったる我が家のような優雅さで進んでいく。出会うひと出会うひとに笑顔で会釈をかわしながら、大広間から離れ、人気のない場所を目指した。目的地は、すぐそこにある。王宮内部に林立する木々の暗闇。王家の森とも称される区域だ。さすがに貴賓の集う晩餐会が開催中ということもあって、警備の兵が大勢配置されているのだが、一箇所だけ、人気のない空間があった。
移動中、時折感じた視線は、大広間でのことが気のせいではなかったことの証明だった。もし、気のせいであったのならば、散歩してから控室に戻ればいいだけのことだったが、どうやらその心配もなさそうだった。
王家の森は、備え付けの魔晶灯と夜の闇が織りなす光と影によって彩られている。吹き抜ける風は冷気そのものといってよく、ドレスを着込んでいても少し肌寒く感じた。魔晶灯の光から遠ざかり、森の奥へ向かう。巡回しているであろう衛兵に気づかれたくはなかった。きっと、個人的なことだ。だれも巻き込みたくはない。
なぜいまさら、と思わないではないが、彼女が長期間ガンディオンを離れていたことを考えると、当然のことだという結論に至る。ゆっくりと息を吐き、力を抜く。緊張したところで仕方がない。相手がなにものなのかは、ある程度推察できている。この国で、ファリアに対して殺意を込めた視線をぶつけてくるような人物など、そういるものではない。
戦争が終わったばかりのザルワーンならばまだしも、ここはガンディアの王都なのだ。もちろん、レオンガンド派と太后派の対立といった問題もあるものの、それは政治的な対立に留まっている。表面上は良好な関係を演出していたし、その点に関しては両派ともに徹底していた。敵対的な態度は微塵も出さないというのは難しいことだと思うのだが、政治家たちには慣れたことのようだった。
つまりは、ガンディアの人間の視線ではない。
「……わたし以外、誰もいないわよ。出てきたらどうなの?」
ファリアが背後に向かってそういったのは、視線が再び背中に刺さってきたときだった。反応はすぐにあった。樹の枝が揺れる音とともに、背後になにかが降ってくる。いつの間にか木の上に移動していたようだ。
「やはり、気づいてくれていたか」
聞き知った男の声に安堵を覚えたものの、だからといって安心しきれないのも事実だった。低く嗄れた声は、何年も前に聞いたときから変わっていない。彼の特徴といってもよかった。
「気づかないわけがないでしょ。あれだけ明確な殺意を叩きつけられて」
「殺意……殺意ね。君にその殺意を叩きつけるのがどれほど大変だったのか、察してもらえるとありがたいのだが」
「わかるわけがないわ」
「そうだろう。そうだとも。君にぼくの苦しみがわかるわけがない」
男が自嘲とも諦念ともつかない声で、そんなことをいってきた。反論の言葉も思いつかない。それはそうだろう。彼の苦しみなど、理解できるはずがない。ファリアは彼ではないのだ。その逆もまたしかりで、ファリアの苦しみも彼には理解できないだろうが。
ファリアは、そのときになって、ようやく背後を振り返った。
夜の闇に溶けるようにして、ひとりの男が立ち尽くしている。闇よりも深い黒装束を身に纏っていて、黒髪黒目。肌の白さだけが異様なほど浮いている。長身というほどではないが、ファリアよりは上背があるのは間違いない。目つきの柔らかい男だが、その瞳からは思考を読み取ることは難しい。声音は若くはないのだが、見た目は二十代の若者そのものといっていい。整った顔立ちで、性格が多少ねじれていても女が放っておかない理由がわかるほどだ。
彼の特徴として背に生えた一対の翼だろう。彼の背から伸びた闇色の翼が、彼の上半身を覆うようにして包み込んでいる。もちろん、彼が人外異形の生物というわけではない。召喚武装なのだ。レイヴンズフェザーと名付けられている。それが黒装束の正体だった。
「……で、いったいなんの用なのかしら? クオール=イーゼン」
「名を覚えてもらえていて、なによりだよ。忘れられていたらどうしようかと思っていたところなんだ。実際、君の人生にとって、ぼくらは路傍の石のようなものだろうしね」
「へりくだるのは悪い癖よ、クオール」
「そうかな? だが、妥当なところだと想うよ。君は、生まれたときから燦然たる光の中へと至るように宿命付けられている。ぼくらなんて、ただの日陰者さ」
「皮肉を言いに来たのかしら」
冷静に対応できたのは、僥倖だった。表情も険しくなってはいまい。きわめて普通の声で、正しく対応できている。突き放すこともなければ、へりくだることもない。その必要もなければ、理由もなかった。
苛立ちはある。
長い戦争が終わり、やっとのことで平穏な日常に戻ってこられたという実感が、彼の視線ひとつで吹き飛んでしまっていた。不快な感情だ。しかし、それを押し殺すことが出来るだけの理性は残っている。それだけが救いだと、ファリアは思った。ここで彼に当たり散らしたところで、なにも解決しないのはわかりきっている。
「まさか。もっと大切なことを伝えるために、ぼくはここに来た」
「でしょうね。でなければ、リョハンがあなたを使うはずがないわ」
ファリアが核心を突くと、彼は微笑を浮かべてきた。
「過大評価だよ」
「“吸血鬼”クオール=イーゼンの使用は、護山会議の許可が必要だという話は嘘だったのかしら」
「……そう、その護山会議の決定事項を、君に伝えるために、ぼくはここまで飛んできたんだ」
そういって、彼は翼を軽く広げて見せた。突風が吹いて、ファリアのドレスを靡かせた。かと思うと、眼前にいたはずのクオールの姿が掻き消えている。振り返ると、彼の姿は後方の魔晶灯の上にあった。
石柱に備え付けられた魔晶灯の上に佇むクオールの姿は、悪魔めいている。
「ファリア・ベルファリア=アスラリア。本日を以って、魔人アズマリア=アルテマックス討伐の任務から外れてもらう」
そして、彼の口が紡いできた言葉は、死神の宣告のようだった。