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第四百八十一話 王と太后

「殿下、レオンガンド陛下がお見えになられました」

 侍従長が御簾の内側に向かって囁くような声で話しかけると、しばらくして、御簾の内側で動きがあった。それもまた、いつもの儀式だということをレオンガンドはよく知っている。

 レオンガンドが後宮に入ったのは、突然のことではない。龍府制圧後、帰国の目処がつくと、彼はすぐさま王都に帰国する旨を伝えている。もちろん、情報伝達には時間が掛かるが、少なくとも、レオンガンドたちが王都に辿り着くよりはずっと早く届いただろう。王都に凱旋したレオンガンドたちを迎える人々の数がそれを証明している。

 その際、レオンガンドは、王都凱旋に伴い、後宮にいるグレイシアに会うということを通達していた。一方的な通達ではあったが、レオンガンドはガンディアの国王である。彼の命令を拒否できるものは、いまのところ、ガンディア国内には存在しなかった。たとえ太后であったとしても、レオンガンドを拒絶することはできない。

 かといって、レオンガンドはレオンガンドで太后や貴族たちに無理強いすることはできない。国は、王ひとりで成り立っているわけではないからだ。貴族たちの反感を買うような行動はできるだけ控えるべきだ、というのは、シウスクラウド以前からいわれていたことだ。貴族もまた、この国に根付いた存在であり、力を持っているのだ。彼らが力を合わせれば、レオンガンドの立場を危うくすることくらいはできるかもしれない。

 太后派が、貴族の中では権勢を誇っていながらレオンガンドにとって痛手となっていないのは、貴族の中にもレオンガンド派がおり、また中立派とでもいうべきものたちもいて、均衡を保っているからだ。その均衡が崩れたとき、ガンディアの政情は荒れるだろう。

 そういうときこそジゼルコートの出番なのだろうが、彼はおそらくケルンノールから出てきはすまい。ジゼルコート・ラーズ=ケルンノールは、いつからか傍観者となってしまった。彼が王宮に復帰し、レオンガンドの力になってくれれば、これほど心強いことはないのだが、それは叶わぬ望みだと諦めるよりほかない。

 侍従長と御簾の向こう側のやり取りは、いわゆる太后殿下が雲上人であることを知らしめるための儀式だと、レオンガンドは認識している。魔晶灯の薄明かりの中、垂れ下がった御簾は神秘的な光彩を帯びていた。それも演出に過ぎないということを知っていたし、ここが虚偽と欺瞞に満ちた領域であるからこそ、太后派の跳梁を許すのだということも理解していた。

 広間に立ち込める濃密な花の香りも、ここが太后の支配する世界であり、外界とは別世界であることを自覚させるためのものだ。太后グレイシアが絶対者として君臨する世界。小さな、しかし、決して無視することはできない領域。

 王都ガンディオンにあって、ここだけが王の権威の及ばない聖域なのだといわんばかりだった。

 そんなことを考えていると、儀式が終わり、御簾が上がった。御簾に影だけが浮かび上がっていた人物の実体が明らかになる瞬間、レオンガンドはいつになく緊張を覚えた。妙に喉が渇く。緊張のせいなのか、神経が過敏になり、侍従長が立てるわずかな物音さえ気になった。しかし、注目すべきは、御簾の中から姿を表した人物だ。

「よくぞ参られました、レオンガンド陛下。待っていましたよ」

 恭しくも対等以上の目線で語りかけてきたのは、リノンクレアによく似た女性だった。母親なのだ。似ているのは当然だろうが、それにしても、グレイシアは若い。若く、見える。少なくとも、三十代の前半から半ばに見えるくらいに若々しく、太后が若作りの魔法でも使っているのではないかと噂されるのも理解できるほどだ。

 レオンガンドですら、これが自分の母親なのかと首をひねってしまうほどなのだが、首をひねって振り返れば振り返るほど、彼女が母親である事実に納得せざるを得ない。記憶の中のグレイシアは、当然、いまよりもずっと若いのだ。その若さを維持し続けているということなのだが、過去と比べれば、年を経ているのがわかる。

 とはいえ、グレイシアは、今年で四十二歳である。実年齢も、決して老齢といえるようなものではなかった。むしろ若すぎるといってもいいほどだ。グレイシアがガンディア王妃となったのは十四歳のときであり、レオンガンドを産んだのは十六歳のときだという。二年の離れた王と王妃というのは、別段、めずらしいわけではないにしても、二十歳も離れているとなれば話は別かもしれない。

 もっとも、王の仕事のひとつは、王位継承者を設けることにある。若い妃を迎えることは、それ自体、必ずしも悪いことではない。

「太后殿下、お待たせして申し訳ございません。このレオンガンド、ザルワーンを制し、先王、いえ、父上の雪辱を晴らしてまいりました」

「泉下のシウスクラウド様も、喜んでおられることでしょう。わたくしも、陛下が無事に戻られたこと、心より喜んでおりますわ」

 グレイシアは、目に涙さえ溜めて、いってきた。声が震え、レオンガンドの心になにかを訴えかけてくる。苦しみや悲しみを乗り越えてきた母の声なのだ。なにも感じないはずがなかった。太后派に担がれていようと、グレイシアはグレイシアなのだということが、その声音ひとつでわかってしまう。だから、彼はグレイシアの元を訪れたくないのだ。太后派を憎めなくなる。

「二十年」

 彼は、グレイシアの二十年を思うだけで、胸が詰まった。彼女もまた、ザルワーンによって人生を狂わされたひとりだ。ザルワーンの先の国主マーシアスが毒を盛らなければ、あるいは、シウスクラウドがザルワーンに赴かなければ、彼女の人生は大きく変わっていたことだろう。順風満帆とはいかずとも、この二十年よりも余程幸福な時間を過ごせたに違いない。シウスクラウドが病に倒れたということが、どれだけ彼女に負担をかけたのか、想像すら難しい。

「ええ、二十年。長い、本当に長い戦いでしたね。レオンにとっても。わたくしと、陛下にとっても……」

「母上」

 レオンガンドは、グレイシアの頬を伝う涙を見たとき、言葉を続けることができなかった。彼女が彼のことをレオンと呼ぶのは、母としての意識であり、そのとき彼女が陛下と呼ぶのは、シウスクラウドただひとりであった。そしてそれを咎めることは、レオンガンドにはできない。彼女にレオンと呼ばれるときの彼は、やはり、彼女の子供としての彼なのだ。

「レオン、どうか近くにきて、顔を見せて」

「はい、ただいま」

 レオンガンドは、グレイシアの招きに素直に応じた。無意識の反応だった。母の言葉には、抗い難い力がある。魔力とは、違うだろう。彼は、純粋に母を愛している。父に対して抱く感情は屈折し、いびつなものと成り果ててしまったが、母への想いは昔から変わっていない。それは、グレイシアという女性が昔から何一つ変わっていないからかもしれない。野放図なまでの愛情表現は、王妃グレイシアの人気の源泉でもあった。

 レオンガンドはグレイシアの目の前まで近寄ると、彼女は玉座から立ち上がり、両の手で彼の顔を包み込むようにした。やわらかな指先がレオンガンドの頬を撫で、後頭部へと至る。そのまま抱き竦められて、レオンガンドは、言葉を失った。

「ああ、わたしのレオン。こんなにも傷だらけになって……」

 片目を失ったことをいっているのだろうが、彼女の声は、やはり震えていた。彼女の愛の深さを知るたびに感じるのは、そんなグレイシアの愛さえも謀略に利用しようとする連中への怒りだ。

 太后派。

 グレイシアの実兄ラインス率いる勢力は、彼女がだれに対しても分け隔てない愛情を注ぐからこそ存在しうるのだということを理解しているのだろうか。グレイシアが、ガンディアという国そのものを家族のように想い、愛しているからこそ、彼らのような存在が跳梁しうるのだ。それは頭の痛い問題でもある。彼女は、いわゆる太后派の存在を認知しているはずなのだ。しかし、グレイシアの深い愛情を通して見れば、太后派の活動さえ可愛いものに見えてしまっている。おそらく、そういうことなのだろうが。

「レオン。あなたとリノンは、わたしにとってたったふたりの子供。どうか、その身を大事にしてください。その命を、大切にしてください。わたしはガンディアの勝利よりも、ガンディアの繁栄よりも、なによりも、あなたたちが幸福に生きていることこそが喜びなのですから」

「……心に留め置きます」

 レオンガンドは、そう返すのが精一杯だった。約束することはできない。約束をすれば嘘になる。母に対して、嘘をつきたくはなかった。

 無論、彼女の言うように身体を大事にしなければならないのは間違いない。彼の身にもしものことがあれば、ガンディアという国そのものが揺らぎかねない。そういう意味では、彼女の言葉を守ることにはなるだろう。しかし、グレイシアが望むのは、平穏だろう。平穏の中での幸福な生涯こそ、レオンガンドとリノンクレアに望んでいる。

 だが、レオンガンドの生涯に平穏などはありえない。

 国土拡大こそ、彼の至上命題だからだ。


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