第四百八十話 王宮の事情(五)
レオンガンドが不在の間、国内の政治はなにひとつ進展していなかった。それもこれも、太后派が足を引っ張るからであり、新王派と呼ばれる一派の実力者がザルワーン戦争で出払っていたからでもある。幸い、進展しなかったということは、悪い方向にも進まなかったということであり、それはレオンガンドを安堵させた。勝手なことをされて国内が荒れるのだけは避けたかったし、さすがの太后派もそこまで愚かではないということがわかったのだ。
彼らは、感情で動いているのだと、レオンガンドは思っている。
反レオンガンドという感情だけで徒党を組んでいるのだと。
彼らは、レオンガンドの父にしてガンディアの先王シウスクラウドを信奉していたという。シウスクラウドに英雄を見たものたちは、その息子が愚にもつかないものだと知ったとき、激しい落胆と失意を抱いた。裏切られたという一方的な思い込みが、反レオンガンドという動きになるのだから人間というものは恐ろしい、
だが、彼らがレオンガンドを“うつけ”だと思い込んだのは、こちらの望んだ通りの結果だった。反レオンガンド派が迂闊にもレオンガンドを無能と誹り、暗愚と非難したことで、ガンディアの王子レオンガンドは“うつけ”なのだという評判が諸外国に知れ渡ったのだ。警戒すべき英傑の子が“うつけ”だったということは、近隣諸国を大いに安堵させたのだ。その結果、ガンディアは他国に領土を奪われることなく、雌伏のときを過ごすことができた。
それに、反レオンガンド派は、ガンディアを破壊しようとは思っていない。ただ単にレオンガンド憎しの感情で動いているだけなのだ。可愛いものだと思わないではなかった。レオンガンドだけを憎み、レオンガンドの勢力を削ぐことだけに力を注いでくれるのならば、まだましだ。これがレオンガンドだけでなく、ガンディアを憎悪し、破壊活動を行うような連中だったとすれば、国にとっては決して喜ばしい事態にはならなかっただろう。
(そのほうが単純だったかもしれないがな)
反レオンガンド派が破壊活動に手を染めていれば、簡単な解決策を提示できるだろうが。
それはそれで、しこりを残す結果になるかもしれない。
後宮へは、レオンガンドは、ひとりで向かった。親衛隊も連れず、側近も連れず、ましてや婚約者であるナージュも連れて行かなかった。
それが礼儀だと、彼は考えている。
相手は太后グレイシア・レア=ガンディア。母に逢う、ただそれだけのことだ。そんなことに従者を連れて行くなど、世間の笑いを買うだけだ。
先王の后でありながら彼女が未だに王妃と呼ばれるのは、単純にレオンガンドが后を迎え入れていないからに違いない。つまり、レオンガンドがナージュを后として迎え入れれば、グレイシアを王妃の名で呼ぶものはいなくなるということだ。それも時間の問題に過ぎない。レマニフラからの返事を待たずに式を挙げても構いはしないのだろうが、結婚に関してはそこまで急ぐことでもなかった。ナージュはガンディアに馴染んでいる。特に親衛隊の隊士やアーリアとも上手くやれている。なにも、急を要することはなかった。
後宮の内外には、当然のように太后派の貴族たちが控えていた。だれも彼も、ザルワーン戦争の勝利を賞賛し、レオンガンドの帰還を喜んでいた。だが、そんなものは表面上のことにすぎない。もちろん、ガンディアが敗北することを望んでいるものなどはいまい。しかし、大敗はせずとも、痛み分け程度に終わることを望んでいるものが大半だったに違いない。彼らは、レオンガンドの権威が失墜することを望んでいる。そのためには、ガンディアが大勝し、領土が拡大するなど、あってはならないのだ。勝利する限り、レオンガンドの名声は高まり続ける。
後宮には、いくつもの部屋があり、太后専属の使用人が住んでいたりするのだが、本来ならばそれらは王妃たちが起居する部屋だった。
小国家群の中央一帯は、歴史的に一夫多妻が推奨されており、歴代のガンディア王の中には多数の后を持った人物もいて、そういう王の血族がガンディアの貴族を形成するに至っている。もっとも、先王シウスクラウドはグレイシア一筋であり、その溺愛ぶりは、後宮を彼女のためだけに改築したことからも窺い知れた。
グレイシアも、シウスクラウドの愛に応え、レオンガンドとリノンクレアを産んだ。レオンガンドはこの国の王となり、リノンクレアは同盟国ルシオンの王子妃となった。ガンディアにとってはこの上ないことだ。
レオンガンドが貴族たちの出迎えを受け流しながら奥に進むと、広間へと続く廊下の途中でひとりの男に呼び止められた。
「これはこれは、レオンガンド陛下。此度の勝利、誠に祝着至極に存じます」
「ラインス殿、丁重な挨拶、痛み入る」
レオンガンドは、ジゼルコートとは違って、太后派であることを明言しているこの男のことが苦手だった。ラインス=アンスリウス。グレイシアの実兄であり、つまりはレオンガンドの伯父に当たる人物だった。レオンガンドには、ガンディア王家とアンスリウス家の血が流れているということだ。
彼には、シウスクラウドにグレイシアを娶らせるべく奔走したという逸話があり、レオンガンドの苦手意識はその話を起源としているのかもしれない。
アンスリウス家は、他の貴族同様、ガンディア王家の傍流である。王家の血筋を引く家系であり、その中でも有力貴族として真っ先にあげられるのが、アンスリウスという家だった。アンスリウス家は、初代ガンディア王の二男を家祖とする家柄であり、王位継承者に恵まれなければ、アンスリウス家の子女を王位継承者として迎え入れるということにもなっていた。そういう意味では、ガンディア王家にもっとも近い貴族であり、であればこそ、ガンディアにおいて権勢を誇ることができるのだろう。
そんなアンスリウス家から王妃が出たのだ。しかも、グレイシアが王妃となった相手は、英傑の誉れ高いシウスクラウドである。ラインスは、アンスリウス家の権力を強化するには、これ以上にない好機が訪れたと思ったに違いない。実際、ラインスは勢力拡大のために動き、それは半ば成功していた。
「凱旋早々、太后殿下にお会いになられるとは、さすがは陛下でございますな」
「太閤殿下に勝利を御報告申し上げるのは、当然のことですよ」
レオンガンドが涼しい顔で告げると、ラインスはその秀麗な顔をわずかばかり引きつらせた。レオンガンドには、彼がなにを思ったのかはわからないが、少なくとも、好意を抱かれてはいないということは知っている。
シウスクラウドとグレイシアの結婚直後からアンスリウス家の勢力は、ガンディアの政財界をアンスリウス家一色に染め上げるほどだったのだ。その勢力が衰えたのは、シウスクラウドが病に倒れ、ジゼルコートが影の王として政治を行うようになったことが大きい。ジゼルコートは、シウスクラウドの望むまま、次代をレオンガンドに引き継がせるべく奔走し、アンスリウス家の影響力を排除していった。
ラインスがレオンガンドと憎むのは、ある意味では道理だと、彼は思っている。
しかし、だからといって、国政をラインスの思い通りにさせるわけにはいかない。彼もガンディア人としてガンディアをより良くしたいという考え方を持っているのはわかる。だが、ラインス率いる反レオンガンド派の掲げる政策というのは、レオンガンドの政策に対する反発でしかない事が多いのだ。そこに理があり、こちらに非があるというのならば、受け入れもするのだが。
「では、後ほど」
レオンガンドが恭しく頭を下げると、ラインスも礼儀に適った態度で応じた。そこは貴族である。礼節が身に染み付いているのだ。彼の挙措動作は洗練されていて、政敵であっても見とれてしまいかねないほどのものだ。味方ならばなおさらだろう。反レオンガンド派が彼を首魁とするのもうなずけるというものだった。
ラインスは、ガンディア貴族の美点をこれ見よがしに着飾っている。いや、無意識に纏っているのだ。それが貴族というものなのだろうし、レオンガンドにもそういうところはあるに違いない。
そしてそれは、彼がこれから会おうとしている人物にも備わっているものだ。
後宮広間の前では、太后専属の侍従長と侍従団がレオンガンドの到来を待っていた。物々しささえ感じるほどの出迎えだが、いつものことでもある、気にするような事ではない。
白髪に長い白髭が印象的な侍従長は、レオンガンドが幼いころからなにひとつ変わっていないように思える。昔から老人であり、二十年たったいまでも老人なのだ。彼はグレイシアとともに王家に入ってきた人物である。元はアンスリウス家の執事だったらしく、グレイシアの輿入れに際して王妃の侍従長に任命されたということだった。
レオンガンドは、ラインスとは打って変わって、この侍従長のことが好きだった。
「やあ、爺や。久し振りだね」
「陛下。一国の王ともあらせられるお方が、然様な言葉遣いをなされるべきではありませんぞ」
「はは、確かにその通りかもしれないな。だが、あなたを見ると、どうしても子供の頃に戻ってしまう」
「それはなりませぬ。なりませぬ」
侍従長の頑なな態度は、昔から何ひとつ変わっていなかった。そのことが嬉しくて、レオンガンドはついついからかいたくなってしまうのだが、状況が状況だ。彼と話し込んでいる場合ではない。レオンガンドは侍従長に招かれるまま、後宮広間に入った。
後宮は、獅子王宮に立ち並ぶ本殿以外の建物群の中では、飛び抜けて大きな建造物である。それもこれも、シウスクラウドのグレイシアへの愛の証だと思えば、レオンガンドですら微笑みたくなるような幼さを感じずにはいられないのだが、その巨大さが太后派の増長を招いているのだとすれば、笑うに笑えなかった。
その太后派が擁する人物が、侍従長に先導されるレオンガンドの前方にいる。垂れ下がった御簾の向こう側、これもまたシウスクラウドの熱烈な愛情の結晶として贈られたという玉座に腰掛けた人物。グレイシア・レア=ガンディア。