第四十七話 彼の運命、彼女の使命
「すっごく心配したのよ? あの人だかりをなんとか抜け出せたかと思ったら、あなたの姿が見当たらないんだもの」
詰め寄ってくる風でもなく告げてきたファリア=ベルファリアの言葉に、微塵の嘘もわずかばかりの欺瞞も含まれているはずがなかった。彼女は真剣そのものなのだ。眼鏡のレンズの向こう側から緑柱玉のような瞳が、こちらをじっと見つめていた。
セツナには謝る以外の選択肢はなかっただろう。実際問題、あの場から飛び出したのはほかでもない、セツナの自分勝手な判断であり、彼にとって保護者に等しいファリアから離れすぎるのは良くなかったのかもしれなかった。
「ご、ごめん。ファリアを探したかったけど、あの場には居られなかったし……」
言い訳に過ぎなかったが、あの場に留まっていることができそうになかったのも事実である。市民が騒ぎすぎていた。混乱が混乱を呼び、喧騒が喧騒を生んでいた、もはやセツナ一人の力ではどうすることもできない事態にまで発展していたのだ。異常事態といってもいいかもしれない。たかがセツナ一人であそこまでの騒ぎになるなど、だれが想像できるのだろう。それはファリアにも予想できなかったに違いない。
「それはわかるわよ。でも、でもね」
「あ~、もしもし?」
ふたりの会話に割って入ってきたのは、ルウファだった。黙殺され続けて痺れを切らしたのかもしれない。
「ん?」
「はい?」
セツナは、ファリアとともに彼を振り返った。ルウファは微妙な苦笑を浮かべていたが、背の翼は、いつだって眩い輝きを帯びているように見えた。光を発しているというわけでもないようである。頭上から燦燦と降り注ぐ太陽光線を反射しているだけなのかもしれないが、それにしてもあざやかだった。
「感動の再会は後にしてくれるかな? まずはレスベルを殲滅しないと、熱い抱擁も涙の口づけもできやしませんぜ」
ルウファが軽妙な調子で紡いだ言葉に、セツナは、心が軽くなっていく自分に気づいた。といって、必ずしも軽くはなり過ぎない。心の重さが体の反応を鈍くしないほどのちょうど良い軽さ。
もっとも、ファリアは彼の言葉に愕然としたようだったが。
「な……!?」
「そうだな」
「なにを言ってるのよ? それにセツナも同意しない! 熱い抱擁はともかく、涙の口づけってなによ? 確かに涙無しには語れないけれども!」
「そこなのか?」
しかし、セツナの疑問は軽く流された。
「……ところで当然のように居るけど、あなたはどこのどちら様? セツナを助けてくれたことには感謝していますが」
物腰も慇懃に尋ねるファリアの横顔を、セツナはいつになく冷静に見つめていた。いつ見ても素敵な横顔だと思うのだが、いまは見とれている場合でもないだろう。
「ああ、自己紹介くらいはしておきますか。その方がなにかと便利だ。俺はルウファ。見ての通りの武装召喚師です。どうぞよろしく、ファリア=ベルファリア殿」
ルウファの改まった自己紹介に、セツナは、彼の姿をまじまじと見つめた。金髪碧眼の貴公子とでも言うべき彼の姿は、背中の翼も相俟って、やはり地上に舞い降りた天使に見えなくもなかった。
ファリアが、驚愕の声を上げた。が、自分の名を知られていることに対してではなかった。
「ルウファって、バルガザール将軍の……!?」
「え?……え?」
セツナは、驚きのあまりルウファを二度見してしまった。彼女の反応に感化されたわけではない。純粋に驚いたのだ。
アルガザード=バルガザール将軍と言えば、先の戦いにおいてレオンガンド王とともに采配を振るった人物であり、セツナの知る限りでは王に次ぐ実力者と言えた。それは無論、セツナの知識の拙さからくるものであり、ガンディアの有力者など掃いて捨てるほどいるのかもしれない。
「出来の悪い次男坊で――」
彼は自嘲気味に笑ったが、皇魔の怒号がその軽すぎる声音を掻き消したのは当然の結果というのは言い過ぎだろうか。
「なんて空気の読めない連中なんだ?」
嘆息するルウファに、セツナは、頭を振った。
「や、あんな化け物が空気を読んだら、それはそれで不気味だろ」
「一理ある――」
ルウファは、セツナの言葉にうんうんと頷いたかに見えたが。
「けど、納得できないね!」
皇魔の方向に向き直るなり、彼は、地を蹴った。彼の肉体が中空に躍り上がった瞬間、翼が閃き、大気を叩いた。加速は一瞬。気づいたときには彼の姿は、こちらに迫り来るレスベルたちの後方にあった。
圧倒されたのか呆気に取られたのか、自分でもよくわからない感覚の中で、セツナはぽつりとつぶやいた。
「なんなんだ?」
「人生に不満でもあるのかしら」
セツナが、そんな風に小首を傾げるファリアを横目で見ていると、化け物どもの悲鳴と怒号が聞こえてきた。前方十数メートル先――数え切れないレスベルの集団の後方から、血飛沫が上がっていた。
ルウファだろう。
「攻撃にも使えるのね、あの翼」
「凄いな」
「セツナほどじゃないわよ」
「そうかな?」
「あなたのそれは規格外だもの」
セツナは、ファリアがそれと言ったものを見下ろした。悪魔的な印象を拭えない黒き矛は、確かに尋常ではない力を秘めている。
切れ味だけではない。
思い返せば、森の中で皇魔の雷球を弾いたことが最初だったか。カランを焼く大量の炎を吸収したこともそうだ。そして、蓄積した炎の解放による大量殺戮。脅威的な力は、それだけに止まらない。
先もそうだ。望んだ結果にはならなかったものの、切っ先から放出された光の奔流は、想像以上の破壊力を見せつけた。
「さあ、わたしたちも行きましょう。レスベルを殲滅するのよ。《市街》が混乱に陥る前に」
「おう!」
ファリアの言葉に、セツナは力強く頷いた。前方に向き直り、同時に地を蹴った。駆け出しながら、矛の柄を強く握った。
その瞬間、セツナは、指先のみならず掌のすべてで、黒き柄の確かな脈動を感じた。
どくん。
なにかがセツナの意識を震わせた。感覚が肥大する。ついさっきまで鳴りを潜めていた痛みの増大とともに視野が広がり、周囲の地形を感覚だけで把握する。《市街》の路地の迷宮めいた複雑な作りは、大都市ならではのものには違いなかったが。
(なんだこれ……?)
肥大した感覚が急速に尖鋭化していく中で、セツナは、躍動する肉体を抑えられなかった。いや、抑える必要などはない。敵を滅ぼさなければならない。
レスベルの群れは、前方――矛の光線による破壊跡の近辺にいた。鬼の集団は、頭上を飛び越え、背後を突いたルウファにその注意を向けていた。無論、こちらを注視するものもいるにはいる。しかし、ルウファの攻撃の苛烈さは、皇魔の注意を引きつけるには十分だった。
セツナの拡大した知覚は、ルウファの戦う様を脳裏に投影していた。
華麗で鮮烈な戦いだった。
怒号とともに押し寄せたレスベルたちの猛攻を舞うようにかわしながら、その瞬間に手痛い反撃を叩き込んでいた。翼によるカウンター。それは打撃ではない。斬撃といって差し支えなかった。一対の白翼を形成する無数の羽の一枚一枚が、研ぎ澄まされた鋼鉄の刃そのものであり、彼が適当に羽ばたかせるだけで周囲の敵を切り刻んだ。夥しい返り血がその白き翼を赤黒く染めていく。
(俺も……!)
触発されたのかどうか。
セツナは、跳躍した。敵陣までの距離は凡そ五メートル。いまのセツナなら十分に到達可能な距離だった。黒き矛が彼の飛躍を助長していた。
セツナが中空へ躍り上がる最中、彼の眼下を三本の雷の帯が走り抜けた。ファリアの弓オーロラストームによるものだろう。
三条の雷光がレスベルに直撃し、炸裂したのは、セツナが鬼の群れの直上に至るよりわずかに速い。狂おしいまでの悲鳴が上がったが、さらなる怒号によってあっけなく掻き消された。そこへファリアの第二射が撃ち込まれ、半狂乱状態のレスベルたちは永遠の沈黙に沈んだ。
皇魔たちの頭上、セツナは、矛を天高く掲げた。意識を集中する。肥大し、研ぎ澄まされた感覚が、地上の皇魔たちの動作の一つ一つを正確に把握していた。化け物の息づかいさえ、耳に届いていた。
レスベルたちはこちらの居場所を認識してもいないようだった。後方のルウファと前方のファリアによる挟撃が混乱を呼び、皇魔たちの思考力を奪っていたのかもしれない。
そしてセツナは、皇魔の群れの真ん中目掛けて黒き矛を投げつけた。叫ぶ。
「行っけええええええっ!」
この投擲でなにが起こるのかなどわからなかった。ただ、矛の力を信じていた。過信でも、妄信でもない。ましてや狂信などでは断じてなかった。矛に秘められた絶大な力が万能ではないということは、さっきっ把握したばかりだった。だが、今回は違う。セツナが求めるのは破壊であり、それは矛の力の方向と合致するはずだった。矛のことを完全に理解したわけではないが、それでも、その黒き器に渦巻く膨大な力の形、その片鱗くらいは感じられた。
破壊。
それこそが矛の意志ならば、セツナもまた、破壊を望むだけだった。
その考え方が正しかったのか。
黒き矛は、セツナの手を離れた瞬間、その石突の宝玉から光を発した。目映い黄金色の光は、黒き矛を瞬く間に金色に染め上げると、大気の中でうなりを上げた。轟音とともに放射された熱風が、セツナの全身を包み込み、大量の汗が彼の体から噴き出した。が、それも一瞬の出来事に過ぎない。
熱源は、既に地上に向かって落下していた。
いや、それはもはや落下などと呼べるようなものではなかった。投擲したのだから当然ではあったが、それだけではない。轟音と光熱を発しながら目標地点へと加速するそれは、さながら、ミサイルのようだった。
そのとき、皇魔たちがセツナを振り仰いできた。彼の叫び声か矛の轟音に反応したのだろうが、それにしてもあまりに遅過ぎた。
金色の矛は、既に地上に到達していた。熱風と爆音を轟かせながら、地面に突き刺ささる。
瞬間、矛が発散した黄金の閃光が、セツナの視界さえも金色に染め上げた。無論、それで終わりではない。始まりだった。目に痛いほどの光輝が地面を覆った直後、破壊の音が、セツナの拡張された聴覚が捉えた。なにかが破壊される決定的な音。
光が、地中から噴き出した。地を割き、天を衝くほどの奔流となって立ち上っていく。圧倒的な力の暴走が、レスベルの群れを纏めて上空に打ち上げ、斬り裂き、貫く。乱立する光の柱のひとつが、セツナの眼前を通過した。熱が、セツナの前髪をわずかに焦がした。
破壊は、止まらない・
連続的な爆砕が引き起こす破滅的な旋律と、化け物の悲鳴とも怒号ともつかない断末魔の絶叫が、この世の終わりを彩るかのようであり、物凄まじい衝撃と振動が大地と大気をあらん限りの力で揺さぶった。渦巻く熱気が、破壊の連鎖が、地を引き裂き、周辺の建物を倒壊させ、《市街》の一角に強烈な破壊の爪痕を刻んでいく。
(やりすぎだ……!)
セツナは、絶句したが、もはやどうすることもできないという事実も理解していた。彼の手を離れた矛は、セツナの望むがままに破壊の力を発揮したに過ぎない。
圧倒的な力だった。
セツナが地上へと落下する最中も、その猛威は吹き荒れていた。想像を絶するというに相応しいだけの被害が、王都の《市街》にもたらされた。
破壊の奔流は、レスベルの群れを事も無げに飲み込み、圧倒的な力を見せ付けるわけもなく粉砕した。
殲滅。
破壊音が止んだ後、濛々たる爆煙と大量の粉塵が世界を覆っていた。
皇魔の気配は消えてなくなり、その点で言えば、セツナは安心して着地することができた。もっとも、でたらめに破壊された地面に綺麗な着地を決めることはできなかったが。
「えーと……これはなんの真似かな?」
あきれたような口振りではあったが、ルウファの声音からはさっきまでの軽妙さが鳴りを潜めていた。恐怖の影が揺らめいている。仕方のないことだろう。セツナは、諦めに似た感情とともに体を起こした。着地に失敗した挙句転倒してしまったのだ。幸いにも怪我はなかった。全身汗まみれなのは、矛が放射した熱波のせいに他ならない。
セツナは立ち上がると、周囲の状況を把握するべく辺りを見回した。
「凄い有様だな~……」
ルウファの言葉を軽く聞き流したものの、セツナも同種の感想を抱かずにはいられなかった。粉塵が風に流されたあと、周囲に広がったのは、壊滅的な光景だった。惨状とでもいうべきかもしれない。閑静な路地裏の町並みには、徹底的な破壊が加えられ、原形をとどめるものはほとんどなかった。地面は引き裂かれ、家屋は崩壊し、破片や残骸が散乱していた。数多くの皇魔の死体は、破壊の奔流の中で打ち砕かるか、切り裂かれるかしており、その上で熱波に焼かれているため、見るも無残な状態だった。
普通なら目を背けてしまうくらいに惨憺たる情景の中で、セツナは、額の汗を拭った。不意に込み上げてきたおかしさに苦笑する。こんな地獄のような有様を演出しておいて、なぜこうまで冷静でいられるのだろう。焦りも緊張もない。極めて平静な感覚は、思考の透明性を保つのに一役買っているのだろうか。
「セツナー! 大丈夫なのー?」
あらん限りの大声に顔を向けると、ファリアがこちらに向かって駆け寄ってくるのが見えた。反対方向にはルウファの姿があるに違いない。近づいてくるのかはともかく。
セツナは、すぐ手前の地中に半ばまで突き刺さったままの黒き矛に手を伸ばした。矛は、セツナの望み通りに力を振るい、想像以上の結果をこの世界にもたらした。言うべき言葉などはなく、嘆息さえも浮かばない。
すべて、終わってしまった。
と、どこからともなく、拍手が聞こえてくる。
「わたしの予想以上の結果だよ、セツナ。実に素晴らしい」
彼女は、倒壊した建物の残骸に腰掛けるようにしていた。アズマリア=アルテマックス。まごう事なき絶世の美女であり、非の打ち所がないとは彼女のためにある言葉だといっても過言ではないのかもしれない。
彼女の背後には、壮麗な門が立ち尽くしていた。全長五メートル以上はあるであろう門は、金、銀、宝石の類で飾り立てられてはいるものの、その飾り付けの妙なのか、嫌らしさみたいなものは感じられなかった。アズマリアの召喚武装には違いないのだろうが、いつの間に召喚したというのだろう。セツナは、戦闘中そんな気配をまったく感じなかったことを不思議に想った。
「これが試練かよ」
セツナは、吐き捨てるように言った。この世界に召喚した張本人である彼女のことは、いまやなにひとつ信用ならなかった。この状況で信用しろというほうが無理があるだろう。もっとも、アズマリア自身が信用しろと言ってきているわけではないが。
「そうだ。そして、見事試練を乗り越えたおまえの運命は、決まった」
アズマリアが、瓦礫から飛び降りた。黒衣が揺れる。
セツナは、怪訝な顔をした。意味が分からない。
「運命? なにを言ってるんだよ、力の使い方がなんだのって言ってたじゃないか」
「もう決まってしまったことなのだ。おまえは、わたしとともに地獄へ行くのだ」
「地獄? なにを言って……」
もはや理解不能の域に到達した彼女の言い分に、セツナは、頭を抱えたくなった。しかし、アズマリアは、こちらの様子などお構い無しに話を続ける。
「《門》は開いた」
事実、アズマリアの背後で壮麗な門がその扉を開いていた。扉の先には暗闇が広がっており、門の後ろにあるはずの景色は見えなかった。
「あとは、おまえが潜り抜けるだけだ。この先には阿鼻叫喚の地獄が待っている。おまえのための地獄だ。おまえが、その矛に秘められた途方もない力を制御するためにはどうしても必要なことなのだよ」
「制御……」
いまのセツナには、その言葉はとても魅力的に聞こえた。皇魔を殲滅するためとはいえ、街の一角に壊滅的な打撃を与えてしまったのだ。それは偏に、セツナが矛の力を制御できてなかったからにほかならない。被害が及んでいるのは、地面だけではないのだ。周囲の家屋も徹底的に破壊してしまっている。死傷者が出ていないとは言い切れない。そうなれば、力が制御できませんでした、すみません、では済まないのだ。
セツナは、黒き矛に触れようとして伸ばした手が、虚空をさまよっていることに気づき、愕然とした。無意識のうちに矛を拒絶しているのか、掴むかどうか逡巡しているのか。
「どうした? このままではおまえは、力を制御することなどかなわない。それがどういった事態を引き起こすのかわからないほど、愚かではあるまい」
「……《門》を潜れば、身に付けることができるのか? 矛を制御する力」
「わたしは嘘は言わない」
アズマリアは断言したが、セツナには彼女の言葉が信じられなかった。とはいえ、思い返してみれば、アズマリアが積極的に嘘や偽りを言ってきたことがなかったのも事実だった。思惑を隠されたり、放り出されたりはしたものの、騙されたという記憶はセツナにはなかったのだ。
セツナは、矛の石突に埋め込まれた宝玉に触れた。冷ややかな感触が、指先から全身にまで浸透する。黒き矛の膨大にして破壊的な力を制御できないというのならば、この矛を召喚して戦うことはできないだろう。ましてや、数多くの味方とともに戦場に立つなど、とてもじゃないが考えられなかった。
確実に、傷つけてしまう。いや、それならまだしも、死者がでてもおかしくはない。それほどの力だった。実際、ファリアやルウファが巻き込まれなかったのは、ただの幸運だったのかもしれないのだ。
「俺は……」
迷いは、セツナの思考を鈍らせていた。
「さあ、セツナ。こちらへ――」
甘美な言葉だった。その誘惑に応じれば、セツナは武装召喚師として新たな段階へと至ることができるのだろう。地獄などという得体も知れない場所で、黒き矛を制御する術を学ぶことができるのだろう。それは、いまのセツナにとってもっとも優先すべき事項のように想えてならなかった。
が――。
「アズマリア=アルテマックス!」
セツナの弛緩しかけた意識に緊張をもたらしたのは、ファリアの鋭い叫び声だった。緊迫感に満ちた攻撃的な声は、大気を引き裂き、響き渡る。
いや、大気を引き裂いたのは、一条の雷光であった。
「ファリア!?」
セツナは、雷光を帯びた一本の矢がアズマリアへと飛来するのを見て、驚きのあまり声を上擦らせた。
雷光を帯びた矢は、しかし、アズマリアに突き刺さることはなかった。アズマリアが、黒衣の袖で矢を払ったのだ。流れるような動作だった。一部の隙も見当たらない完璧な動きは、ファリアの矢のみならず、セツナの矛ですらも捉えきれないかもしれなかった。
「……あの顔、どこかで見たことがあるな」
面白くもなさそうに、アズマリア。興を殺がれたとでも言いたげなまなざしだった。
「我が名はファリア! 使命に従い、あなたを討つ!」
ファリアの叫び声は勇ましく、普段の彼女からは考えられない力強さがあった。おいって、彼女は戦場に立つ武装召喚師である。勇ましいのは当然なのかもしれない。
それでも、セツナは驚かざるを得なかった。カランの街で出逢った当初のことを思い出せば、当たり前のことではある。あの事情聴取のとき、彼女はセツナの口から出たその名に心の底から喜んでいる様子だったのだ。
アズマリア=アルテマックスの弟子。
今でもなぜそんな嘘をついたのかは分からないが、アズマリアの雷名は、セツナに想像以上の幸運を運んでくれた。ファリアと行動を共にするようになったのもそうだし、レオンガンドと出逢うことになったきっかけも、ファリアが報告書に記載したアズマリアの弟子という一文からだった。
人間、どうなるのかわかったものではない。
その場しのぎのでまかせが、セツナに数多の人々との出逢いを演出してくれたのだ。
それだけは、アズマリア=アルテマックスという伝説的な人物に感謝していいのかもしれない。
「ファリア……懐かしい名だ。彼女の娘――いや、孫か」
アズマリアは、値踏みするような目で、ファリアを見遣っているようだった。距離は遠い。十メートルほどはあるだろう。ファリアは接近するつもりはないのだろう――射程距離内の目標に向かって、異形の弓を構えていた。翼を広げた怪鳥が、その歪な嘴を開いているかのようだった。
「それにしても、わたしを討つ? おまえたちはいつも面白いことを言うな。おまえたち武装召喚師にとってもっとも偉大な存在であるこのわたしに刃を向けるというのか。実に面白い」
「わたしは本気よ!」
ファリアが叫び、オーロラストームが咆哮した。弓から放たれた幾筋もの雷光は、大気を切り裂きながらセツナの眼前を飛翔し、アズマリアへと至る。
「そうか。ならば致し方ない」
アズマリアは、目の前に迫った十数の矢を事も無げに払い落とすと、こちらに背を向けた。その後姿すら妖艶なのは、どういうことだろう。
「逃げるのか!」
ファリアが、さらに矢を放った。無数の雷光の帯が、虚空にあざやかな軌跡を浮かべていく。だが、それだけだった。
すべて、アズマリアに打ち払われるのだ。
ふたりの実力の差は、素人目にもわかった。これでは、どれだけ大量の矢を射ようとも、アズマリアには掠りもしないのではないか。
それは予想ではなく、確信に近かった。
「ああ、そういうことにしておいてくれ。いまここで戦うのは本意ではないのでな。セツナ、おまえの身柄はしばらくその娘に預けておくことにするよ」
言い捨てて、アズマリアは、地獄へと通じるという《門》へと向かっていく。
セツナは、返す言葉も思いつかなかった。アズマリアが一体なにを考えているのか想像もつかなかったし、王都に皇魔の群れを放っておいて、戦うのは本意ではないなどというのはどういう了見なのだろう。彼女に常識が通用しないのはうすうす感づいていたことではあったのだが、ここまで傍若無人だと、セツナでは対処の仕様がない。
「アズマリア!」
それは、激情だった。どういう類の感情かはわからない。単純な怒りか。使命感からくるなんらかの想いなのか。それとも、まったく違う感情なのか。ともかくも、ファリアの弓から放たれた光の奔流は、螺旋を描きながらアズマリアへと殺到した。膨大な白が、セツナの視界を塗り潰す。爆音が轟いた。直撃しただろうか。
しかし。
「ファリアの孫娘よ、これだけは言っておく」
アズマリアの声は、極めて冷ややかだった。
見遣ると、ぼやけた視界の真ん中で、アズマリアの黒衣は傷ひとつついていなかった。
彼女は、嘲笑うでもなく告げてきた。
「セツナは、わたしがこのイルス=ヴァレとは異なる世界から召喚した存在――」
「な……!?」
それはだれの驚きの声だったのか。
ファリアか、ルウファか。
あるいは、セツナ自身だったのかもしれない。
「つまり彼は、皇魔と大差のない化け物ということだ」