第四百七十三話 隊舎(二)
「そういえば、《獅子の尾》に専属の軍医さんが来るって話、聞いてます?」
ルウファが話題を持ち出してきたのは、隊舎の中を歩き回った末、小休憩のために食堂に戻ってきてからだった。ルウファによれば、食堂の調理人については既に手配していて、隊舎が機能するころには入ってくれる手筈になっているということであり、さすがはルウファといって皆で褒め称えたところだった。
「専属の軍医? 知らないなあ」
セツナは頭を振って、紅茶に口をつけた。軍医には何度となく世話になったものだが、《獅子の尾》専属軍医の必要性についてはまったく考慮したことがなかった。考えたとしても、レオンガンドに容貌を出すには至らなかったはずだ。
「陛下が、怪我してばっかりの俺達のために調整してくれているみたいですよ」
ルウファの言葉に、セツナたちは沈黙して、目線を逸らした。無茶をしてばかりの武装召喚師には耳の痛い話だった。セツナひとりの問題ではない。ルウファも、ファリアも、無理を押し通してしまうところがあった。ルウファは負傷覚悟でザイン=ヴリディアを撃破したし、ファリアも自身を囮としてクルード=ファブルネイアに致命傷を与えた。セツナに至っては、自身を傷つけることで空間転移するという荒業を生み出し、日常の中でも使ってしまうという始末だ。レオンガンドも頭を抱えたことに違いない。そして、導き出された答えが、専属の軍医を用意する、ということだったのだ。
セツナは、常に忙しいレオンガンドがそこまで心配してくれているのかと感激する反面、負担になってはならないと自分を戒めもした。もっとも、そういうレオンガンドこそが、セツナたちに酷使を強いるのだから、それくらい負担でもないといってもいいのかもしれないのだが。
「専属の軍医ねえ……あんたには、専属の衛生兵がいるのにねえ」
ミリュウがいたずらっぽい目でルウファを見やった。ルウファを熱心に看護し、バハンダールにまで付き添った衛生兵のことだろう。名はエミル=リジルといったか。彼女は、今回の王都凱旋にも同行していたのだが、王宮に登殿する資格を持たないため、バルガザール家に寝泊まりしたということだ。
「もちろん、エミルもここに来ますけどね!」
セツナの対面の席で、ルウファが嬉しそうに言い放ってきた。正方形のテーブルは四人がけで、セツナの正面にルウフファ、左にミリュウ、右にファリアが腰掛けている。お茶を用意したのは、ルウファがバルガザール家から連れてきたという使用人であり、しばらくの間は、バルガザール家の使用人たちが隊舎の世話をしてくれるということだった。
テーブルの上にはお茶と菓子が並べられているが、それもバルガザール家から持ってきたものらしい。セツナたちが隊舎を開けていた約一ヶ月、隊舎には食料品ひとつ貯蔵されていない。改築改装中であったことも無関係ではないにせよ、いつ終わるとも知れない外征の最中だったということが一番大きいだろう。
「来るの!?」
「いや……もちろん、隊長の許しがあれば、ですけど……」
ルウファがおずおずといってきたのは、セツナが反対する可能性を考慮したのかもしれないが。
「どうする? セツナ」
「どうするもなにも、いいんじゃないか?」
「いいんですか? ヤッター!」
ルウファが大袈裟なまでに喜んだが、ファリアの表情は厳しい。
「あのね、隊長ひとりが許したところで、どうにかなる問題じゃないわよ。エミル=リジルだっけ? あの衛生兵。確か、ログナー方面軍の所属だったわよね?」
「そうですね。ログナー方面軍第三軍団ですよ。《獅子の尾》とも縁の深い」
「だったら、最低でもエイン軍団長とアスタル将軍の許可を取らないと駄目なんじゃないかしら。いえ、待って……転属ってそんな簡単にできたのかしら? それに、さっきもいったけど、親衛隊へ入隊するのなら、陛下の許可も取らないといけないわね」
「エミルの話だと、エイン軍団長はむしろ彼女に転属を勧めているようですよ。俺の後送に付き添ってくれたのも、エイン軍団長の許可があったからですし。さすがセツナ信者のエイン軍団長。話がわかるひとですよね」
セツナ信者という言い方に引っ掛かりを覚えないのは、エイン=ラジャールという少年を形容するのにこれ以上相応しい言葉がなかったからかもしれない。ナグラシアで初めて会ったときから、エインはセツナへの異常なまでの傾倒を隠さなかったし、それどころか熱烈に主張してきたものだ。
年の近い弟を持ったような感覚を抱きかけたものの、そんなものはエインの熱意の前に崩れ去った。兄弟とは、そこまでベタベタしないものだろう。セツナは一人っ子なので、兄弟に対しての憧れが強く、兄弟とはこうあるべきだという思い込みも激しかった。もっとも、エインのような弟がいれば、退屈しないこと請け合いだということはわかる。
「じゃあ、あとは陛下の許可を取るだけね。本当、副長っていろいろ手際がいいのね」
「神速のルウファとでも呼んでください!」
「似合わないわよ」
「そこは冷静なんですね」
がっくりと肩を落としたルウファの様子にファリアが微笑する。
「だったら、あたしの入隊も認めてくれてもいいのに」
ミリュウがこっそりとつぶやいた言葉を、セツナは聞き逃さなかった。
「俺は認めてるよ。あとは陛下に許可を頂くだけかな」
「いますぐもらえないものかしら。あたし、早くセツナの部下になりたい」
ミリュウの上目遣いにどきりとしながら、セツナは慌てて視線を逸らした。逸らした先にファリアの半眼があり、妙な気まずさがセツナを襲う。
「陛下がお忙しいお方なのは、わかりきっていることだろう? ただでさえ一ヶ月近く王都を離れていたんだ。仕事に追われるどころの騒ぎじゃないらしいよ」
「ふーん……当分はガンディア軍所属、無所属のミリュウちゃんのままなのね」
「軍に所属してるのに無所属とはこれいかに」
「でも、実際そうでしょ? ガンディア方面軍とかにも入っていないわけだし」
ルウファの茶々入れにミリュウは肩を竦めた。それに対し、ファリアが容赦の無い突っ込みを入れる。
「ちなみに、いまのあなたは、ガンディア軍の所属ですらないけどね」
「ええ!? どういうことよ!?」
ミリュウは仰天の余り椅子から転げ落ちそうになったが、なんとか踏み止まったようだった。ファリアが悠然たる笑みを浮かべながら、ミリュウに告げる。
「冷静に思い出してごらんなさいよ。ガンディア軍に所属するための面接をしたり、書類に目を通したりしたの?」
「あ……」
「あなた、四六時中セツナにつるんでいて、肝心なことはなにひとつしていなかったんじゃないの?」
ファリアは、ようやく優勢に立てたことが嬉しいのか、ミリュウへの攻撃の手を緩めなかった。今日までの日々を振り返れば、確かにファリアのいう通りではあるのだ。ミリュウは、ガンディア軍に所属するための手続きを一切しておらず、ただただセツナの側にいた。なにをするわけでもない。セツナのことをひたすら眺めているだけのことが多く、たまに目が合うと、彼女のほうが慌てて目を逸らした。ミリュウの性格が変わったのではないかと思うような日々だった。
それでも、ガンディア軍に所属してもいない彼女が
「いやだって、そういうことって……必要なの?」
「そりゃそうよ」
「えええええ……なんということなの……あたし、あたしはいったいどうすれば……」
ミリュウはへなへなと崩れ落ち、テーブルの上に突っ伏した。直前、ルウファが食器を脇に退去させたのは見事という他ない。さすがは神速のルウファだとセツナは心の中で賞賛した。
「さすがは世間知らずなお嬢様ね。普段は全然まったくこれっぽっちもお嬢様らしく見えないのに」
「ファリアさん、いま、聞き捨てならないことを申されませんでした? わたくしのどこが、お嬢様らしくない、と?」
「いや、こんなときだけ気品を出されても、正直、反応に困るわ」
「なによその言い草! ひどい、ひどいわ!」
わめき散らすミリュウと勝利の余韻に浸るファリア。ふたりの仲の良さは、龍府から王都までの道中でより深まったようだった。セツナの知らないところで、じゃれ合ったり、喧嘩したり、話しあったり、口論したりしていたのだろう。
元々、ミリュウはファリアのことが嫌いではなかったようだし、ファリアも彼女を嫌ってはいなかったのだ。ミリュウがガンディアに入ると決めた以上、いがみ合う理由はほとんど完全に消え失せている。
仲良くなるのも自然の成り行きのように思えた。