第四百六十六話 帰途
「ルベンに現れたメレドは、皇魔を撃退しただけで帰国したそうだ」
「はあ……」
セツナがきょとんとしたのは、突然彼の元に訪れた主君が世間話でもするように話しかけてきたからだ。まさかレオンガンドが彼らの馬車を訪ねてくるとは思いもよらず、仰天せざるを得なかった。もっとも、主相手に驚いてばかりもいられず、セツナは神妙な顔をした。直後、レオンガンドが吹き出した理由は、セツナにはわからない。
(メレド?)
(西隣の国よ。ザルワーンとは敵対関係にあったはずね)
耳打ちで教えてくれたのは、ファリアだ。ミリュウは、龍府で再会した子犬を相手に奮闘している。黒い毛玉のような子犬は、ミリュウが龍府に潜入する直前、後方待機の部隊に預けられていたのだ。ミリュウの仲間であったザイン=ヴリディアが大切にしていたという子犬を、ミリュウもまた、大切にしている。仲間の形見だと思っているのだろう。子犬の同行を許したのは、ほかならぬセツナ自身だが。
「それが、どうかされたのですか?」
「おかしいとは思わないか? メレドにとっては領土拡大の絶好の機会だった。ルベンは、どこからともなく現れた皇魔の群れに襲撃され、壊滅状態だったのだからな。防衛にあたったのは、ザルワーン軍の残党だけで、半壊に近い打撃を受けたそうだよ。メレドがその気になれば、ルベンを制圧することなど赤子の手をひねるようなものだった、ということだ」
「ガンディアと事を構えたくなかったのではないでしょうか?」
「それはこちらとて同じことだ。たとえメレドがルベンを占拠したとして、ルベンの奪還のために軍を動かすことはできんよ。わたしはともかく、アルガザードならば、動かすまい」
レオンガンドが自嘲を交えつつ、いった。レオンガンドは、大将軍アルガザードにザルワーンの全権を任せている。それだけアルガザードの能力や人格を信頼しているということだろう。セツナの記憶の中のアルガザードは、バルガザール邸を仮宿にしていた頃のものしかなく、常に好々爺然とした態度を崩さない好人物だった。
アルガザードは、セツナと縁深いラクサス・ザナフ・バルガザール、ルウファ・ゼノン=バルガザールの父親である。ラクサスとはログナー潜入時に世話になって以来疎遠気味ではあるが、ルウファは《獅子の尾》結成からこっち、副隊長として頼りきっていた。バルガザール家とは、なにかと縁があるのだろうと思わざるをえない。
ルウファとは、マイラムで合流する予定になっている。王立親衛隊は全員帰国しなければならないのだ。もちろん、ルウファが動けないほどの重傷ならば、療養に専念させるべきではあったが、ルウファからの返事は全力でマイラムに向かう、ということだった。少しは回復したらしく、セツナたちはほっとしたものだ。
「兵も民も疲弊している。この状況で戦争を起こせば、人心は荒れるだろうな。メレドがルベンを制圧した場合、黙殺するしかなかったわけだ。にも関わらず、メレドのサリウス王は、皇魔を撃退すると、兵を引いた。なにが目的なのかな」
「さあ?」
「はは……セツナに聞くようなことではなかったな。王都まではまだ遠い。いまのうちにゆっくり休んでおきたまえ。王都に着けば、休んでいる暇がなくなるからな」
「はい?」
「君は、このレオンガンドの親衛隊長のひとりであり、この歴史的大勝利の立役者なんだ。寝る間も惜しんでもらうことになる」
レオンガンドは冗談めかしくいってきたが、セツナには、とても冗談には聞こえなかった。
そして、ファリアとミリュウの笑い声が、むしろ恐ろしかった。
レオンガンドら帰国組が龍府を発したのは、九月二十九日の正午のことだ。
戦争も終わり、ザルワーンが正式にガンディアの領土となったこともあり、帰国を急ぐ必要性はないと思われていた。もちろん、ガンディア全土の治安を考えれば、軍をザルワーンに留めておくことは決して良いことではない。ログナーでもガンディアでも危惧するような事態は起きていないものの、かといって、抑止力たる方面軍が機能しない状態を続けていれば、そのような事態が起こったとしても不思議ではなかった。
レオンガンドの王都への帰還は、そういうことが理由のひとつでもあった。国土の安定を図るには、ザルワーンだけに注視しているわけにはいかないのだ。
翌三十日にはヴリディア砦跡に到達。ドラゴンの首が出現した場所は巨大な穴となっており、その穴をどうするべきかと議論を交わすものもいた。龍府からゼオルに至る街道の真っ只中にあるのだ。放置するわけにはいかなかった。
「橋を架けるか?」
レオンガンドの冗談は、わかりづらい。
九月三十一日、ゼオルに入ると、ゼオルに滞在中だったマーシェス=デイドロ軍団長らに盛大な出迎えを受けた。
十月一日、ロンギ川の合戦場を通過し、夜にはナグラシアに辿り着いた。ザルワーン戦争開戦の地であるナグラシアでの一夜は、セツナには感慨深いものがあった。
雨の中の乱戦。
いまでも思い出すのだ。
理不尽な暴力に曝され、死んでいく無力な人々の姿。敵の目に映るのは、暴虐の化身となったセツナ自身の姿であり、その残忍な姿は、化け物としかいいようがなかった。
悪鬼や怪物のようなものと成り果ててでも、この居場所を護りたいと思っているのだろうか。
時折、自問する。
答えの出ない問いかけは、頭の上に浮かんでは、消える。
無駄なことだ。無意味な、時間の浪費に過ぎない。しかし、それでも、自問せざるを得ない。これでいいのか。これが、望みなのか。セツナ・ゼノン=カミヤの願いがこれか。いや、これでいいのだ。戦禍吹き荒ぶ大地では、これが正義だ。理不尽で圧倒的な力こそが、この世の正義なのだ。なにも迷うことはない。なにも恐れることはない。
ひとり考えこんでいると、いつだってだれかに声をかけられた。それはレオンガンドであったり、ナージュ・ジール=レマニフラだったり、ラクサスだったりもしたが、そういうひとたちに声をかけられると緊張するのが悪い癖だと思った。ファリアやミリュウの場合だと、緊張することはないのだが。
「そうだ。この子の名前、決めてなかったわ!」
ミリュウが黒い子犬を抱きかかえながらいったのは、ナグラシアの宿営地で休んでいるときだった。夜中ということもあり、あまり大きな声を出してはいなかったが、隣の部屋には聞こえたかもしれない。ファリアが、本をめくりながらうなずく。
「そうね。名前はあったほうがいいわね」
「ファリアもそう思うでしょ!」
(確かに……名無しじゃ可哀想だもんな)
セツナも、ふたりの考えに同調したが、彼に相応しい名前は思いつかなかった。名付けるのはミリュウであるべきだろうという考えが働いていたのかもしれない。その子犬は、セツナとは関係がないのだ。同行を許したのはセツナだが、それはミリュウに聞かれたからであって、許すも許さないもないのだ。
「どんな名前がいいのかしらね」
「ふっふっふっ……いい名前があるのよねー」
「へえ、どんな名前?」
「ニーウェ!」
「はあ?」
セツナが素っ頓狂な声を上げたのは、その言葉が意味するところを知っていたからに他ならない。ニーウェといえば、ログナー潜入任務に際してセツナが名乗った偽名だった。それを考えたのは、ファリアであり、神矢刹那という名前の意味から導き出された古代語がニーウェ=ディアブラスだったのだ。つまり、ニーウェは刹那に等しい古代語であり、ディアは神、ブラスは矢ということらしい。ちなみに、ガンディアは獅子の神であり、ガンディオンは獅子神の庭という意味の古代語だということまで教わっている。
「どうよ!」
「どうよ、じゃないわよ。なんでニーウェなのよ」
「セツナの意味する古代語がニーウェなんでしょ? だからよ!」
ミリュウが偉そうに胸を張ると、子犬まで偉そうにするのだからおかしなものだ。
ログナー潜入任務は極秘任務であり、セツナがニーウェと名乗ったことすら知っているものは少ない。ファリアとルウファのほかには、ラクサスとリューグ、カイン=ヴィーヴルくらいだった。
ミリュウが知っているのは、彼女が龍府潜入任務においてリューグと行動をともにしたからかもしれないし、まったく別の理由かもしれない。
彼女は、セツナの記憶に触れたことがあるのだ。
黒き矛を複製したがために、黒き矛の主であるセツナの記憶との混合が起こったというのだが、セツナにはまったくわからないことだった。しかし、彼女の言葉が嘘ではないということは理解できる。セツナもかつて、他人の記憶に触れたことがあった。ウェイン・ベルセイン=テウロスとの戦いの果て、彼の記憶を垣間見たのは、黒き矛と漆黒の槍が無関係ではなかったからだろう。
漆黒の槍は、黒き矛に取り込まれ、一部となったのだ。黒き矛は、漆黒の槍を取り込んだことで、さらなる力を発揮するようになった。元々強力だったものがさらに凶悪になったのには、ただただ唖然としたものだが。しかし、漆黒の槍を取り込まなければ、空間転移能力が発動することはなかったかもしれず、そうであれば、いろいろな物事が大きく変わっていたのは間違いない。
ともかく、ミリュウは、セツナのことをセツナ以上に知っていても不思議ではなかった。記憶というのは曖昧で、いつの間にか忘れていくものだ。しかし、ミリュウがセツナの記憶に触れたのは最近のことであり、そういう意味では新鮮なのだ。セツナが忘れているようなことさえ見ているかもしれなかった。
「あのねえ……」
「セツナとあたしの出会いを祝した、いい名前だと思うんだけど」
「いやいや」
セツナはファリアとともに反対したものの、結局はミリュウに押し切られる形で、子犬の名前はニーウェに決まった。ニーウェ=ディアブラスという偽名を使うことはないだろうということもあったが、ニーウェ=セツナという考えに至る人間のほうが少ないというミリュウの説得に負けたのだ。
「ほら、ニーウェも喜んでいるわ」
ミリュウが蕩けるような笑みを浮かべているのを見れば、どうでもよくなるのが人情というものかもしれなかった。