第四百五十九話 奇縁
「一度引け! でたらめすぎる!」
ビュウが命令を下すと、兵士たちは一瞬なにがなんだかわからなかったようだが、鎧鬼を目撃したものは状況を把握したらしく、すぐさま反応した。鎧鬼の危険性は、一目でわかるほどなのだ。その危険性をはらんだ眼光が、バジルに注がれている。
「水をさされてお怒りですか」
軽口を叩いている場合ではないのはわかりきっている。
バジルは配下の部隊に後退を命じながら、腰袋を探った。弓銃の矢を取り出し、すぐさま装填する。小型弓銃の利点は軽量化だけではない。矢の装填が極めて安易になったことは大きかった、最大で五本までしか装填できないものの、再装填に要する時間が短いということは、その最大装填数の少なさを補って余りあった。
「退けよバジル!」
「そうしたいのはやまやまですが」
ビュウの叫び声は悲鳴に近く、バジルは、鎧鬼がいかに強敵であるかということを訴えるかのようだった。が、動くに動けない。バジルがいま動けば、鎧鬼の攻撃対象が自分以外の別のだれかになる可能性が高いように思えたからだ。
バジルが鬼の注意を引きつけておけば、その間にほかの兵士たちはある程度は安全に後退することができる。鎧鬼の登場以来、ほかの皇魔は息を潜めるかのようにおとなしくなっていたのだ。おそらく、皇魔軍の指揮官なのだろう。
「バジル!」
銃口を鎧鬼に向けた瞬間、鎧鬼の姿がバジルの視界から掻き消えた。黒い風が吹く。風圧を肌で感じた。殺意という名の暴圧を全身に浴びて、バジルは恐怖に身が竦むとはこのことなのだと思い知った。眼前、黒い巨躯が現れている。眼孔から漏れ出る真紅の光は、それがやはり、皇魔であるということを示している。引き金を引く。首元を狙って放たれた矢は、しかし、皇魔の左手で払い落とされた。右の手刀がバジルに迫る。
「どうか、あるがままに」
バジルはビュウの今後を祈りながら、己の最後を認めた。剛剣を破壊するほどの膂力で繰り出される手刀だ。バジルの肉体など、たやすく断ち切られる――そう思ったのだが。
「……はて?」
バジルは、鎧鬼の姿が目の前から消えていることに気づいて、首を捻った。
「バジル! さっさと下がれ! 協力して事にあたる!」
「協力……?」
バジルは、ビュウの言葉の意味が理解できぬまま、ともかくその場を離れた。鎧鬼の姿は、周囲には見当たらない。標的を別の人間に切り替えたのか、それとも、吹き飛ばされでもしたのか。バジルには見当もつかないことばかりだった。しかし、生きているということは、これからもビュウと馬鹿をできるということであり、それは決して悪いことではない。
(生き残ることができれば、の話ですな)
皇魔の大群は、いまだにルベンの東部を占拠していて、鎧鬼のようなものまで存在している。ルベンを放棄するという決断ができなければ、死ぬまで戦うしかない。
ふと、ルベンの西部を見やると、見慣れぬ軍旗がはためいていた。いや、見慣れないのは、軍旗だけではない。見知らぬ軍勢がルベンの西部に堅陣を構築していた。盾兵を最前列に敷いた防御陣形であり、その後方には無数の弓兵が控えているのがわかる。皇魔を遠距離から圧倒しようというのだろう。皇魔のような化け物を相手にするには、数を頼みにするよりほかはないのだから、その考え方は間違いではない。
「なるほど、メレドか」
バジルは、軍旗に描かれた紋章からそうと察した。元より、メレドの軍勢が迫っているという報告もあったのだ。その報告から到着の早さを考えると、報告が遅かったという以外にはない。まさか、こちらが目撃してからメレド軍が歩を早めたわけでもあるまい。
軍旗に描かれた三本の剣の紋章こそ、メレドの紋章だった。それは、ルベンの西部を埋める兵士たちがメレドの正規軍であることの証明であり、メレドが本腰を入れてルベンを取りに来たことの証左であろう。
なんにしても、ここでの戦力増加はありがたいという以外にはないのだが。
バジルがビュウと合流したのは、メレド軍の陣形の隣に構築された第二龍鱗軍の陣内だった。開戦当初千人いた第二龍鱗軍の兵士は、七百人程度にまで減少している。普通に考えれば、壊滅的な損害を被ったということになり、敗北もやむなしといったところだ。しかし、相手が人間でなく、交渉の叶わぬ相手ならば、どちらかの戦力が尽きるまで戦うしかなかった。そして、あのまま戦い続けていれば、先に戦力が尽きるのは、こちらのほうだっただろう。
「あの鎧野郎はアレに任せて、俺たちはメレド軍が撃ち漏らした皇魔の掃討に当たるぞ」
「アレとは?」
「アレだよ」
「はて?」
ビュウが指差したのは、バジルの弓銃隊が陣取っていた瓦礫の山から大きく離れた場所だ。本来ならば人家が密集している地帯であったのだが、皇魔どもの破壊活動によって更地のようになってしまっており、そこで漆黒の鎧鬼がなにかと戦っていた。なにものかは、バジルの目では捉えきれないほどの速度で移動しながら、鎧鬼を翻弄している。鎧鬼が拳を振り抜くも、拳が空を切っただけで終わった。
「化け物め」
ビュウが吐き捨てたのは、自分は鎧鬼を相手に撤退戦を演じなければならなかったからだ。皇魔を断ち切る剛剣が破壊されたのは、大きな痛手だった。名も無き剛剣は、並みの刀匠には作れない代物なのだ。それもそのはず。何百年も前の遺跡から盗掘されたいわば宝物であり、盗掘団を取り締まった際、ビュウは翼将権限で剛剣だけ自分のものにしてしまったのだ。それ以来、ビュウは皇魔相手に連戦連勝を重ねた。剛剣の硬度と破壊力は、並みの剣では太刀打ち出来ないものであり、その威力に魅了されたビュウは、ほかの武器では満足できなくなっていた。
それが、破壊された。
ビュウが意気消沈するのも、当然のことだ。そして、剛剣も持たずに鎧鬼を翻弄する人物に悪態をつきたくなるのも、わからないではなかった。
バジルは弓銃に矢を装填しながら、自分が鎧鬼の標的ではなくなったことに安堵していた。あのまま、鎧鬼の手刀を食らっていれば、バジルの意識は消え去っていただろう。彼は死に、肉塊だけが瓦礫の上に残されたに違いない。
とはいえ、油断はできない。なにものかは鎧鬼を翻弄しているとはいえ、決定的な攻撃を加えられているようにも見えなかった。鎧鬼の注意を逸らしてくれるだけでも十分にありがたいのだが、皇魔軍の戦力はまだまだ潤沢にあるようなのだ。鎧鬼ほど凶悪な皇魔は見受けられないが、グレスベル一体とっても厄介なことに変わりはない。
「そこにおられるのが、第二龍鱗軍翼将ビュウ=ゴレット殿かな?」
声は、メレド陣の後方から投げかけられたものだった。見やると、陣形を組んでいたはずの兵士たちが畏怖するように道を開けており、その中を悠然とした足取りで近づいてくる男がいた。号車に飾り立てられた真紅の鎧兜を着込んでいるが、それは、その人物の立場を示しているようでもある。部隊長以上の位階であることは想像に難くない。また、男はひとりで歩いてくるわけではなかった。十数人の供回りを引き連れて、ビュウたちの元に向かってきている。だれもかれも美々しく着飾られているのだが、戦場で見受けられるような格好ではないことだけは確かだった。
「ああ、そうだが?」
「お噂はかねがね。なんでも、ミレルバス=ライバーンさえ匙を投げた曲者だそうじゃないか」
「否定はしないさ。ま、俺はミレルバス様を嫌ってはいなかったがね」
「その口振りだと、好きでもなかったようだ」
「そりゃあそうさ。こんな辺鄙な街に飛ばした張本人を好きになどなれるものかよ。で、あんたは?」
ビュウが鋭い視線を向けたころ、メレド陣の最前列は皇魔との戦闘を開始していた。バジルは、ビュウと男の会話を耳に入れながら、戦場に視線を移した。話は、戦闘が終わった後でも聞けるが、戦死してしまっては聞けるものも聞けなくなる。いまは、目の前の敵を排除することに注力するべきだった。
ビュウもそれはわかっているのだろうが、剛剣を失った彼は、代わりの武器を手にするまで、戦闘に参加することはできないだろう。もっとも、翼将みずから前線に飛び込む必要はないのだが。指揮官らしく振る舞ってくれればいいだけだ。ビュウの戦術眼は、少なくともバジルよりは優れている。
「わたしはサリウス・レイ=メレド。メレドの国王なんてものをやっている」
「ほう……あの趣味の悪い王様がみずから乗り込んでくるとはな」
「意外かな?」
「ああ。だが、これほど頼もしい援軍もないな」
「結構。存分に頼ってくれたまえ。ザルワーンとメレドは反目し合った仲だが、皇魔は人類共通の敵だ。皇魔を撃滅しないことには、惰眠を貪ることも、少年たちを愛でることもできない」
「本当にそれだけが理由か?」
「さあ? どうだろうね」
男がサリウス・レイ=メレドと名乗ったことにバジルが度肝を抜かれずに済んだのは、薄々、そうではないかと思い始めていたからだ。メレドの部隊長、あるいは武将にも、これほど派手な甲冑を身につけているものはいないのではないか、と思うほどの鎧だった。メレドの国王サリウスが派手好きというのはよく聞く話であり、彼は美術品のような鎧兜を身につけることで有名だったのだ。それに、彼に付き従う供回りも、よく見れば若い少年たちであり、それもサリウスの特徴に合致した。サリウスが男色家なのは知られた話だ。彼の後宮には見目麗しい少年たちが囲われているという。ビュウは趣味が悪いといったが、バジルにとってはどうでもいいことだった。他人の趣味に口出しするつもりもない。
いまは、メレドの国王みずからがルベンに乗り込んできた事実のほうが、重要だった。
ルベンはガンディアに直接落とされたわけではないとはいえ、ザルワーンの領土だった。ザルワーンが全面降伏し、領土のすべてをガンディアに献上した以上、ルベンもガンディアの支配地になるはずだ。数日もしない内にガンディア軍がやってきて、我が物顔で統治を始めるだろうということはわかりきったことだったし、バジルもビュウもそれを理解した上で、愚痴をこぼしたりしていたのだ。しかし、ザルワーン戦争終結のごたごたが片付くまでは、ガンディアも軍を派遣することもままならないのだろう。ルベンは、黙殺されているかのように放置されていた。
そこへ皇魔がやってきて、都市に壊滅的な打撃が叩きこまれた。そして、ルベンの国王が乗り込んできたのだ。場合によっては、ガンディアとメレドの関係が悪化する可能性があった。ガンディアがルベンの支配権を強硬に主張し、メレド軍の到来を領土侵攻と解釈すれば、戦争に発展するかもしれない。
メレド国王サリウスの涼やかな目は、そんなことなどどうでもいいとでも思っているかのようだったが。