第四百五十一話 敗者たち
龍府の一角に設けられた集団墓地に足を踏み入れた彼は、視界に飛び込んできた光景の辛気臭さにやりきれなく成った。
普段は閑散としているはずの墓地はいま、ザルワーンの軍人やその家族で溢れていた。喪服を身につけたひとびとは地下に眠る死者との別れを惜しんでいるのか、死を悼み、魂を慰めているのか。いずれにせよ、集団墓地はいつになく重々しい空気に包まれており、気軽に踏み込めるような状況ではなかったのだ。
それでも、彼は墓地の敷地内を進んだ。征竜野の戦いで死んだザルワーン軍人の多くは、双龍殿近郊の集団墓地に埋葬されているらしい。先祖代々続く墓を持つ家柄ならば、亡骸もその墓に納められるのだろうが、あいにく、龍眼軍の主力にはそのような高名な家柄の人間はいなかった。龍眼軍の頂点に位置した神将セロス=オードにせよ、ジェイド=ヴィザール、セーラ・ベルファーラ=ガラム、フォルカ=ミジェットら部隊長にせよ、五竜氏族との関わりは薄いだけでなく、まったく関係のない家柄のものも多かった。そこが以前の龍眼軍とは大きく違うところだろう。改革以前の龍眼軍は聖将以下の部隊長はほとんどが五竜氏族の子女であり、部隊長とは名ばかりの存在だったのだ。
ミレルバス=ライバーン主導による軍の改革の成果が、まさかこのような形で見られるとは思いもよらなかったが、それがいいことなのか悪いことなのかは彼にもわからない。龍眼軍の役職が五竜氏族の子女によって支配されていたとしても、征竜野の戦いの結果自体は変わらなかっただろう。
墓前ですすり泣く女性の声が耳に刺さる。
空はあまりにも青く、澄み渡っているというのに心は沈んでいく。本当は、笑っていたかった。すべてを笑い飛ばせば、どんなに不景気であっても、気楽に生きていけるのではないかと思ったのだが、どうやら人間の感情というのは、そううまく操作できないようだった。
戦争が終わった。
九月八日、ガンディアによるナグラシア強襲に始まった戦争は、九月二十七日、征竜野の戦いに勝利したガンディア軍が龍府を制圧したことで、終戦を迎えた。ザルワーン政府は、先の国主ミレルバス=ライバーンの遺志により、ガンディアへの全面降伏を宣言、ザルワーンという国家そのものが解体された。
ザルワーン国民は、そのときから国という後ろ盾を持たないただの人間と成ったのだが、それはガンディア国民となるか、別の国へと移住するかの選択肢が与えられたということでもあった。とはいえ、慣れ親しんだザルワーンの地で過ごすのならばガンディア国民となるよりほかはなく、他国の人間になろうにも、簡単になれるはずもない。そんなものは選択肢ですらないと憤慨する声が彼の耳に届いたりもしたが、彼にはどうすることもできなかった。
彼にも、選択肢が与えられた。
ガンディアの軍人となるか、それとも、ほかの道を探すか。
軍人としてガンディア軍に参加するのならば、部隊長以上の地位は確約してくれるという好条件は、彼が龍眼軍の部隊長の中でも数少ない生存者だったからだ。
ミルディ=ハボックは、ひとつの墓の前で足を止めた。集団墓地の中にあって妙に目立つ墓碑があった。墓前に添えられた無数の花は、埋葬された人物が生前、多くの人間に慕われていたことの証明だろう。墓に真新しく刻まれた名を見て、ようやく、彼女の死を実感する。
彼は、手にした花束を墓前に添えると、彼女の魂の安息を祈った。
「セーラさん……あなたは英雄になれたのか?」
墓碑に刻まれた名は、セーラ・ベルファーラ=ガラム。龍眼軍第三部隊“水冠”隊長であった彼女は、オリアン=リバイエンが龍眼軍にもたらした英雄薬を服用し、決戦に臨んだのだという。彼女は、ミルディに同じく英雄薬を受け取らなかったはずなのだが、征竜野に向かう途中で考え方が変わったのかもしれない。
「たかが部隊長風情が英雄になどなれるわけがないでしょう」
「……そうかい」
吐き捨てるような言葉に、彼は嘆息で応えた。感情を逆撫でにするような言葉ではあったが、反射的に飛びかかるようなことを彼はしない。
立ち上がり、振り返ると、見知った青年が立っていた。なにがあったのか、頬が痩け、目が妙にぎらついているように見える。彼は父を嫌い、龍府を離れていたはずだった。ケイオン=オード。神将セロス=オードの実子である。
「いつ、帰ってきたんだ?」
「つい二日前に」
「二日前?」
ケイオンの返答にミルディは首を捻った。二日前といえば、征竜野において大規模な戦闘が行われており、とても一般の人間が龍府に潜り込めるような状況ではなかった。それは、戦闘前であっても、戦闘後であっても同じことだ。戦前は、龍眼軍の戦闘準備で龍府全体が凄まじい警戒態勢に入っており、ケイオン=オードが龍府に戻ってきたというのなら、すぐさまセロスの元に報せが入ったはずだ。ケイオンはセロスの息子であるが故に、将来を嘱望され、期待されていた人物だ。セロスは自分の子だからといって特別扱いをしなかったものの、ケイオンの才能はそれなりに評価していたのだ。ガンディアとの決戦を目前に控え、戦力の増強に目がなかったザルワーン軍にとって、ケイオンの存在は大きかっただろう。もっとも、ケイオンが龍府に入ったという報告は、ミルディの耳には届いていない。
戦後はというと、ガンディア軍の龍府制圧のどさくさに紛れることができれば、龍府に入り込むことは可能かもしれない。しかし、敵国の首都に入り込むに当って、ガンディア軍の緊張は極致に達しており、その厳戒態勢たるや同道したミルディも目を丸くするほどだった。少なくとも、大の大人が兵の目を盗んで紛れ込めるような隙はなかった。
「征竜野の戦いに参加していたんです。ガンディア軍として」
「は?」
「冗談ではなく、本当のことですよ」
彼は、笑いもせず告げてきた。
ケイオンがいうには、彼はロンギ川で行われたガンディア軍とザルワーン軍の戦闘に参加していたという。聖将ジナーヴィ=ライバーン率いる軍勢の軍師だと誇るようにいってきたが、ミルディは彼が軍師として采配を振るっている姿が想像できなかった。
ジナーヴィらは戦死し、その軍勢もガンディア軍に敗北したが、生き残ったものの多くはガンディア軍に投降。ケイオンは徹底抗戦を訴えたものの、受け入れられず、気が付くとガンディア軍の捕虜となっていたという。
「そこからが人生の面白いところなんですが。ガンディア軍は、どうやらわたしに軍事的才能を見出したらしく、誘われたんですよ」
「まさか……寝返ったのか?」
ミルディは、我が耳を疑い、つぎに目の前の青年が幻覚なのではないかと考えた。しかし、ケイオン青年は、確実に存在し、彼の眼前で微笑すら浮かべている。
「寝返った……というのは、言葉が悪いですよ。わたしはただ、ザルワーンの敗北を見越して、先行投資しただけのこと。ジナーヴィですら勝てないのなら、ザルワーンが勝てる見込みはなかったんです」
涼し気な顔に腹立ちを覚えるのは、ケイオンがミルディの心情などまったく気にしていないからに違いなかった。それはそうだろう。既にガンディアに与しているケイオンにしてみれば、ガンディアとザルワーンの間で揺れ動くミルディに気を使う必要はない。むしろ、内心馬鹿にしているに違いない。
「しかし、ミレルバスも愚かな決断をされた。勝てる見込みのない戦いなど、するべきではなかった。決戦など起こさず、ガンディアに降伏するべきだったのだ。そうすれば、属国と成り果てたとしても、生き残ることはできたでしょうに」
「たとえミレルバス様が降伏をご決断なされたとしても、ガンディアはザルワーンの存続を許さなかったさ」
ログナーの例を見ればわかることだ。ログナーは、余力を残していたが、敗北を認めたためにガンディアに飲まれ、消滅した。ザルワーンの残存戦力はわずかばかりであり、そんな状況で降伏したところで、ログナーよりも酷い目に遭うのは火を見るより明らかだ。そもそも、ガンディアがザルワーン侵攻に際し掲げた大義は、ザルワーンの属国化を認められるようなものではなかったのだ。ガンディアがみずから起こした戦争の正当性を主張し続けるには、ザルワーンの存在を否定しなければならない。存続を認めるわけにはいかないのだ。
「だとしても、死ぬ必要はなかったはずです」
ケイオンの声音は、鋭く、低い。まるで凍れる刃のようだ。
「勝てる可能性は、あったさ」
「ミルディ=ハボック……あなたは馬鹿ですか?」
ケイオンの歯に衣着せぬ物言いは、耳心地の悪いものではないのだが。
「ケイオン=オード。君のそういうところは嫌いじゃないが」
自分の感情に素直すぎるのではないか、とミルディはいおうとして、やめた。彼になにをいったところで、十分の一も伝わりはしないだろう。だから、彼はセロスに引き立てられなかったという事実がある。彼に軍事的才能があるのは間違いない。しかし、人格的な問題が、彼と兵との間に軋轢を生じさせる可能性が高く、セロスは彼の精神的成長が認められるまでは起用しないと決めていたのだ。それを、ケイオンは理解しなかった。故にケイオンはセロスを嫌うようになり、龍府を離れることになったというのだが、本当のところはわからない。
ともかく、ケイオンの性格に難があるのは間違いない。
征竜野の戦いで死んだものたちの墓前で話すようなことではないのだ。
だが、ケイオンのいうことも理解はできた。
「どうして、どうして、死を選んだのです? 死ぬことになんの意味があるんですか? 戦に敗れ、生き延びることがそんなに恥ずかしいことなのでしょうか? 生きてこそではないのですか?」
死んでしまっては意味がないというのは、ミルディも常日頃から思っていたことだ。それに、ガンディアと決戦を行うことの馬鹿馬鹿しさを訴えてもいた。とはいえ、龍眼軍の部隊長であった彼に命令を拒否することなどできるはずもない。戦場に臨み、毒気に当てられたようにして熱狂し、気がつけば、ザルワーン軍の大敗で戦争は終わった。ミレルバスが戦死し、セロス=オードまで死んだ。部隊長の多くが死に、また、英雄薬を服用した兵士はもれなく死んだという。あまりに多くの人間が死んだ。
生き残ったのは、千人に満たなかった。
両軍合わせて二千人ほどが、戦場で人生を終わらせたという。
半日に満たない戦闘でそれほどの人間が死ぬのは、古今まれに見る激戦だったということではないか。
「だれも、死にたくなんてなかったとは想うよ」
「だったら――」
「それでも、戦わなくちゃならないときだってある。それだけのことさ」
そういって、彼はケイオンに背を向けた。話は終わりという合図のつもりだった。ケイオンがなにもいってこなかったところを見ると、こちらの意図は伝わったと見てもいいのだろうか。あるいは、呆れたのかもしれない。
ミルディが話を終わらせたのは、セーラの墓の前でくだらない言い争いをしたくなかったからだ。
(あなたと見た夢の続きは、ひとりで追うことにするかな)
寂しいが、元よりこうなる運命だったのだとも思えるのは、彼女が理解し難いところを歩く人物だったからかもしれない。
最初から、同じ夢を見てはいなかったのだと考えれば、寂しさも薄れる。
(そんなわけはないか……)
寂莫とした空気の中で、ミルディは、ケイオンの立ち去る足音を聞いた。
風が吹いている。
いかにも他人行儀な秋の風の冷ややかさに、ミルディは空を仰いだ。