第四百五十話 二十年(三)
「いつも苦労をかけるな。まだまだ休んでいたいだろうに」
「兵はそうかもしれませんが、わたしとしてはいち早くガンディオンの空気を吸いたいものでして」
「ほう。将軍は龍府の空気が合わないと?」
「そうですな。龍府の静寂よりも、王都の喧騒のほうが、わたしには合っているようです」
「ふふ……わたしも、そう思っていたところだ。とはいえ、龍府が静かなのもいまのうちだけだと思うがな」
レオンガンドは、昼間だというのに沈黙に等しい静けさに包まれた古都の町並みを見やった。龍府の民はいま息を潜めているのか、ほとんど姿を見せていなかった。征竜野の戦いが終わり、ザルワーン戦争がガンディアの勝利で終結して二日。龍府に乗り込んだガンディア軍の中からは、乱暴狼藉を働くものはほとんど出なかったものの、ザルワーン国民が即座に受け入れるはずもない。しかし、それは一般人の場合であり、商人たちはガンディアとの繋がりを作るために積極的な行動を取っていたし、政府関係者も同じだ。いかに自分が優れた文官であるかを説いて回るものもいれば、レオンガンドに直接志願してくるものもいた。ザルワーンにおける貴族である五竜氏族の中にも、ガンディアに溶け込もうと努力している人物もいて、そういう柔軟な思考の持ち主に対しては、レオンガンドも好感を抱いた。いまだにザルワーンの支配者は五竜氏族であるという思い違いをしたものとは違うのだ。
そんな静寂と喧騒も、時間が解決してくれるだろう。もちろん、善政を心がけなければ、反発を誘発することにもなりかねないのだが。
アルガザードやアスタルらに任せておけば、そういう心配はない。ザルワーンに悪感情を抱いているレオンガンドが龍府に留まり続けるよりは、余程ましだろう。
「そういえば……セツナはどこだ? 王立親衛隊は全員、王都に帰還するよう厳命したはずだが」
レオンガンドは、天輪宮の前に集った軍集団を見回した。彼がみずから選び抜き、作り上げた近衛部隊である王立親衛隊は三隊あった。ひとつは、獅子王の剣たる《獅子の牙》。騎士ラクサス・ザナフ=バルガザールを隊長とする部隊であり、常に王に近侍し、本陣を守護する役割を持つ。
ひとつは、獅子王の剣たる《獅子の爪》。騎士ミシェル・ザナフ=クロウを隊長とし、攻撃的な性質を多分に含んだ親衛隊だ。本陣だけでなく、前線まで赴くこともある。
そして、《獅子の尾》だ。《獅子の尾》は、ほかのふたつとは大きく異なり、独立色の強い部隊だった。主な役割は遊撃であり、レオンガンドの側で戦うことのほうが少なかった。レオンガンドに近侍させておくのがあまりにも勿体無いのだ。宝の持ち腐れといってもいい。なぜなら、《獅子の尾》は、現状、ガンディア最強の部隊だからだ。隊長のセツナ・ゼノン=カミヤひとりでも十分な戦力であるにもかかわらず、そこにファリア・ベルファリア、ルウファ=ゼノン=バルガザールが加わっている。ひとつの部隊に集めるより、分散させるほうがいいのではないかという話もあったが、レオンガンドはセツナの部隊に力を結集することに拘った。その結果、《獅子の尾》は多大な戦果を上げており、レオンガンドも満足していた。
親衛隊でありながら、親衛の役割を果たせていないのだが、それはどうでもいいことだった。レオンガンドの思惑としては、セツナの立場を手早く固め、安定させたかったというのがある。そのための王宮召喚師であり、《獅子の尾》だ。《獅子の牙》と《獅子の爪》は、《獅子の尾》設立のための目眩ましに過ぎないといってもよかった。とはいえ、《獅子の牙》と《獅子の爪》の隊長、隊員の選定には日数を費やしたのは事実であり、親衛隊が不要かというと、そういうわけではないのだが。
レオンガンドの視界には、《獅子の牙》と《獅子の爪》の勇壮な姿が映っている。ガンディア軍の中でも取り分け優美な装束を着込んだふたつの部隊を構成するのは、ほとんどが騎士である。中には騎士以外の隊士もいて、リューグなどがその筆頭であろう。リューグは、メリル=ラグナホルンの保護のために軍に先行して龍府への潜入を果たし、ナーレスの救出にも一役買っている。彼とミリュウ、そしてメリルのおかげでナーレスは生きて地上に戻ることができたのだ。発見が遅れていれば、ナーレスが死んでいたことは疑いようがない。値千金の活躍だといってよかった。
ふと、軍集団の一部がざわついているのが見えた。
「さっさと退きなさいよ、セツナ様のお通りよ?」
「ちょっと、ミリュウ!」
「なによ! いまは忙しいの、後にして!」
「そういうわけにはいかないわよ! なに考えてるの!?」
「ふたりとも、声が大きい……!」
騒々しさの中で兵士たちが後方を振り返り、慌てて道を開ける。すると、見覚えのある連中が勢い余って飛び出してきて、レオンガンドの目の前で転倒した。親衛隊服のふたりと、赤い女。
「いたたた……」
「もう、あなたのせいよ!」
「なんであたしのせいなのよ!」
「どうでもいいから退いてくれー」
セツナが情けない声で主張したのは、口論を始めたふたりの女性の下敷きになっていたからだ。女性のうち、親衛隊服を着込んでいる美女はファリア・ベルファリア。《大陸召喚師協会》の元局員であり、セツナにとっては命の恩人にして、大切な仲間のひとりといっていいのではないだろうか。ふたりの親密ぶりは、レオンガンドの耳にも入っている。
もうひとり、セツナの尻の上に乗っかっているのは、ミリュウ=リバイエン。紅く染めたという髪とガンディア方面軍の軍服のせいで、赤一色といってもいい姿になっていた。彼女がガンディアの軍服を着ているということは、王都まで行動を共にするという意志の現れなのだろう。つまり、ガンディア軍に所属することを希望しているということなのか、どうか。ミリュウはミリュウで、セツナに執着を持っているらしい。
ふたりの女性の下敷きになった少年こそ、セツナ・ゼノン=カミヤである。黒髪に赤い瞳が象徴的な、しかしそれ以外はごく普通の少年。屈強な肉体を誇るわけでも、人知を超えた力があるわけではない。だが、ふたりの女性が魅了されるなにかがあるのは確かなのだ。
レオンガンドは、ふたりの下敷きになったままのセツナに声をかけた。
「やあ、セツナ。元気そうで何よりだ」
「へ、陛下……!」
セツナは、レオンガンドの声に驚くと、すぐさまバツの悪そうな顔をした。こんな格好で対面したくなかったとでもいわんばかりの表情だが、レオンガンドは、むしろ安堵を覚えている自分に気づいていた。戦場においては鬼神も驚くような戦いぶりを見せる彼が、通常人として振舞っている姿というのは、彼もまたただの人間なのだと思わせてくれるからだ。庭先に迷いこんできた子犬のような表情は、情けなくも愛嬌のあるものだった。
「あ、ごめんなさい」
「セツナ、だいじょうぶ?」
上のふたりが慌てて離れると、セツナはゆっくりと起き上がり、背中や腰の辺りを擦った。さすがの鬼神も予期せぬ衝撃は堪えたのだろうが。
「うん、だいじょうぶ……」
「そう、それならいいけど」
「ファリアがしっかりしないからよ」
「なんでわたしのせいになるのよ!?」
愕然とするファリアと妙に勝ち誇るミリュウの様子を見遣っていると、セツナが軽く肩を竦めた。ふたりのこのようなやりとりは、セツナにとっては日常茶飯事なのだろう。
「賑やかだな」
レオンガンドは、皮肉ではなくそう思った。そこにルウファが加われば、それこそ取り留めがなくなるのではないかと思ったが、それも悪いものではあるまい。
「ははは……」
「良いことだ」
「そうですか?」
「寂しいよりは、余程な」
「それはそうですけど」
セツナの表情がすこしばかり明るくなったのをみて、レオンガンドは安心した。彼には、苛烈な戦いばかり押し付けてきている。ザルワーン戦争の緒戦であるナグラシア強襲しかり、バハンダール攻略戦しかり、ミリュウたちとの戦闘は予期せぬものだったとはいえ、苛烈なものだったはずだ。そして、ドラゴンとの激戦だ。
ガンディア軍が征竜野に到達するためには、どうしたところで、ドラゴンの射程圏を突破しなければならなかった。ドラゴンの激しい攻撃を耐え凌ぐ方法はあった。それが《白き盾》クオン=カミヤのシールドオブメサイアだ。しかし、それだけでは不安があった。射程圏を突破したガンディア軍の後背をドラゴンが襲い掛かってくるかもしれない。突如出現したドラゴンの情報はあまりに少なく、あらゆる可能性が考慮された。結果、ドラゴンをその場に釘付けにするしかないという結論になり、そのためにクオン=カミヤともども、セツナもヴリディア砦跡に残ることになった。最低でも、ガンディア軍が征竜野に到達するまで、ドラゴンの意志をヴリディアに向けさせることが、ふたりに与えられた至上命令だった。
過酷な任務だったが、ふたりは見事に成し遂げた。しかも、ドラゴンを撃破することで、後顧の憂いも断ってくれた。ドラゴンの苛烈な攻撃を耐え抜いたのはシールドオブメサイアのおかげだが、ドラゴンを撃破したのは、間違いなくセツナとカオスブリンガーなのだ。
盾では、敵を倒すことはできない。
矛なればこそ、最強最悪の怪物であっても倒すことができたのだ。
「よく、やってくれた」
レオンガンドがいうと、セツナは呆然としたようだった。言葉の意味がよくわからなかったのかもしれない。確かに唐突だった。しかし、レオンガンドは気にせず、続けた。万感の想いを込めて、感謝する。
「戦争は終わったよ。君のおかげだ」
ザルワーンを巡る戦いが終わった。
二十年前、マーシアスとの会見に端を発する因縁は、レオンガンド率いるガンディアの勝利によって幕を閉じた。レオンガンドが王都への帰還を急ぐのは、ひとつには、無念の中で死んでいった父の墓前に、勝利の報告を届けたいという想いもあった。
獅子王シウスクラウドを超えるという彼のひとつの目標は、ザルワーンに打ち勝ったことで果たされたと見てもいいのだろうか。
きょとんとするセツナの顔を見つめながら、レオンガンドは、そんなことを考えていた。