第四十四話 鬼と踊れ黒き獣
「武装召喚!」
その異形の存在が、紅蓮の闇の向こうから飛び出してくるのを察知したセツナが取った行動は、当然、それだった。武装召喚。それ以外に、狂おしいほどの殺意を放つ化け物に対抗する手段などはなかった。体力が回復したばかりだという不安はあったが、ほかにどうしようもない。逃げるという選択肢はなかったのだ。立ち向かうしかない。
召喚までに要する時間はほんの数秒足らず。セツナがその意志を明確な言葉として発した瞬間、彼の全身に無数の光線が走り、幾何学的で複雑な紋様が描き出された。直後、目も眩むほどのまばゆい閃光が、セツナの体から発散された。
不快極まりない化け物の奇声が聞こえた。その威嚇めいた叫び声は、セツナが突然発光したことに驚いた証明かもしれない。だが、それも一瞬に過ぎない。光自体になんの力も無いことを皇魔が理解したのだ。化け物たちが、次々と門の外へと飛び出し、その人外異形の姿を白日の下へと曝していく。それも十や二十ではなかった。一目では把握しきれないほどの数の化け物が、セツナの眼前のみならず、四方八方に展開した。
しかし、もはやセツナに恐れるものなどなかった。一切の不安は消え去り、意識は冴え渡った。鋭敏化した感覚が、周囲の地形を隅々まで把握していく。視界が広がっただけではない。すべての感覚が、肥大しているのが分かる。いや、肥大しただけではない。研ぎ澄まされ、より繊細になっていく。
彼は、黒き矛の召喚に成功したのだ。
漆黒の矛。形容しがたいほどの禍々しさを放つ悪魔的な矛は、その穂先からして異様であり、化け物と相対するにこれ以上にないくらい相応しい得物だった。その切れ味は、これまでの戦いで十二分に証明されてはいるものの、未知の力もあった。不安というほどのものではなかったが。
セツナは、矛を構えると、透かさず周囲を一瞥した。眩しいくらいの日差しの下、セツナを包囲した無数の化け物たちが、狂気染みた敵対心を露にしている。人外の存在ではあるようだったが、セツナがあの森で戦った皇魔とはまったく異なる姿だった。
それらは四肢を持ち、人間のように二本の足で地に立っていた。巨躯である。目測では、二メートルかそれ以上はあった。真紅の肉体は燃えているかのようであり、奇妙な骨格と異様に発達した筋肉が鎧のようであった。獰猛な獣の如き顔つきも、どこか人間とは違って見えた。双眸からは赤い光が漏れており、それは、森の中で遭遇した皇魔と同じ輝きだった。遠目から見れば人間と見まごうほどの姿にも拘らず、セツナが一目見て化け物だと判断した理由はそこにあったのかもしれない。いや、気配からして人間とは程遠いものではあったのだが。
さらにそれらには人間と決定的に異なる要素があった。
それが、頭部に生えた角である。皇魔の頭部には、人間と同様に髪の毛が生えていたのだが、その側頭部――耳の少し上辺りから頭部後方に向かって、一対の角が伸びているのだ。その角の存在が、彼らと人間をまったく異なる種族だと主張してやまなかった。
そして、その極めて印象的な姿は、セツナにある伝説的な化け物を想起させた。
(まるで鬼だな)
その鬼たちがセツナを包囲したのは、矛の出現を予期したからなのかもしれず、矛の顕現を確認してからだったかもしれない。前者であれ後者であれ、セツナの召喚武装を警戒していないわけがなかった。
ともかくも、赤い肌の鬼の数は尋常ではなく、前方だけで二十体はいた。得物は見えない。その強靭な肉体こそが武器だとでも言いたげであり、事実、その通りなのだろう。見るからに凶悪な拳は岩石すら打ち砕きそうだった。
前方――アズマリアの《門》はその役目を果たしたからなのか、跡形もなく消え失せていた。それだけではない。アズマリアの姿そのものも見当たらなかった。もっとも、彼女のことだ。どこかからこちらの様子を窺っているに違いない。
セツナが数多の皇魔を相手にどう立ち回るのか試しているつもりなのかもしれない。
「高みの見物かよ」
毒づくと、セツナは、地を蹴って前に飛んだ。対多数の戦いは経験済みだったし、なにより、あのときの兵士たちのほうが遥かに恐ろしかった。ログナーの殿軍。彼らは死兵と化し、意地でもセツナをあの場に留めようとしたのだ。仲間のため、友のために。みずからの命を顧みない彼らの戦いぶりは凄まじかった。しかし、だからといってセツナは引くこともできなかった。結果、黒き矛はうなりを上げて、彼らを一人残らず殺し尽くした――。
(だったらなんだよ!)
胸中に芽生えかけた疑問を一蹴したセツナの眼前には、赤鬼の凶悪な面構えがあった。赤い光を漏らす眼孔が、大きくなったような気がした。セツナの速度に驚愕したのかもしれない。同時に聞こえた化け物めいた奇声は、やはり不愉快に他ならなかった。セツナは、矛を振り下ろした。袈裟懸けの一閃が、皇魔の胴体を容易く両断していく。鎧のような肉体さえも、黒き矛の前では紙切れ同然だった。だが、肉塊とかした物体からどす黒い鮮血が吹き上がるのを見届けることはできなかった。
殺気が、頭上から降り注いできたのだ。咄嗟にセツナは後方へ飛んだ。揺れる視界の中央――殺到した数体の皇魔によって、赤鬼の死体がでたらめなまでに粉砕された。飛散する体液や臓物を全身に浴びた皇魔たちは、正に悪鬼というに相応しい。
鬼の赤い眼光がこちらを捕捉するより早く、セツナの背中に激痛が走った。呼吸が止まる。
「っ……!」
強烈な打撃。後方から接近してきていたらしい皇魔が、機を逃さずにセツナの無防備な背中に打撃を叩き込んできたのだ。しかし、その一撃がなんとか堪えられるくらいの激痛で済んだのは不幸中の幸いだった。直撃ではなかったのだろう。会心の当たりならば、セツナの背骨は粉々になっていたのかもしれない。
(いや――)
前へとつんのめるようにして地面を転がりながら、セツナは、致命傷にならなかったことへの疑問を禁じえなかった。皇魔には、死体とはいえ硬い筋肉に覆われた物体を無残に破壊するだけの力があるのだ。その鬼の一撃を受けてなお意識を保っていられるのは、常識的に考えればありえないことのように思われた。意識が消し飛んでもおかしくはない。
(なら、これはなんだ?)
とはいえ、考えている余裕はない。
背後からの追撃を嫌ったセツナは、数度そのまま転がると勢いよく飛び起きた。それと同時に、前方の鬼たちが一斉に地を蹴るのを目撃する。それだけではない。左右の建物の屋根上に居並ぶ化け物たちも、後方から追い縋る皇魔たちも、苛烈なまでの殺気を隠そうともしなかった。
獰猛な獣たちの合唱にも似た大音声が、セツナの鼓膜を激しく震わせた。そのあまりにもけたたましい咆哮は、《市街》の喧騒を容易く塗り替えるほどのものだった。聴覚が狂うほどの絶叫。それは威嚇などではない。それそのものが攻撃だったとしても、なんらおかしくはなかった。
セツナには、耳を塞ぐこともできないのだ。両手は、矛を持つために必要である。片手で片方の耳を塞ぐこともできたが、それでは大差がないだろうと判断した。それに、皇魔の攻撃手段は大声だけではない。むしろ、その強靭な肉体から繰り出される打撃にこそ注意を払うべきだろう。その身軽さにも目を見張るものがあったが。
眼前に、鬼の顔があった。
真紅の眼光が視界を染める。
「!」
セツナは咄嗟に矛を振り上げようとしたが、それより速く、皇魔の拳が彼の腹部を抉っていた。重い一撃だった。内臓がいかれるだけではすまないほどの衝撃と激痛が、セツナの全身を揺らす。胃の内容物が逆流し、胃液が喉を焼いた。しかし、それだけでは終わらない。セツナの目の前が真っ黒になった。鬼の掌がセツナの頭を鷲摑みにしたのだろう。皇魔の凶悪な握力に頭蓋が悲鳴を上げるのが、セツナの狂った聴覚でも認識できた。恐怖が、セツナの肉体を強烈に突き動かす。
「だりゃあっ!」
強引に状態を捻って繰り出した矛の一閃は、空を切ったかのような手応えのなさをセツナにもたらしたが、彼は不安を抱きもしなかった。いまさら、矛の力を疑う必要もない。化け物の怨嗟に満ちた断末魔が、セツナの確信を後押しする。皇魔は絶命したはずだ。が、結果を見届ける余裕はなかった。殺気は全周囲から迫ってきてるのだ。
セツナは、鬼の手を引き剥がすと、矛を持ち直しながら左前方に向かって跳躍した。瞬間、視界の片隅で鬼の亡骸がくずおれようとしたが、その後方にいたのであろう化け物たちが、なんの躊躇もなくその死体を吹き飛ばした。こちらへの牽制だったのかもしれないが、そのとき、セツナの肉体は既に中空にあった。
(よく見える!)
セツナは、眼下の光景に目を細めた。数え切れないほどの化け物が、狭い路地に犇めき合っているのがわかった。数にしてどれほどなのだろう。五十以上はいるに違いないのだが、それらがある程度の統率の元に動いているのが見て取れるのが厄介だった。しかも、同胞の死体を損壊するくらいなんとも思わないのは、これまでの行動で理解できるだろう。仲間意識はあるが、邪魔になれば容赦なく切り捨てることができるのかもしれない。
皇魔は、なにも路地だけにいるあけではない。家屋の屋根の上に居並ぶその姿は、自分の出番を待っているかのようだった。こちらが疲弊するのを待っているのか、それとも、付け入る隙を窺っているのか。どちらにせよ、すべての鬼を相手にするのは一苦労だった。
もっとも、先の戦いでセツナが殺した人数に比べれば、遥かに少ないに違いなかった。
(なら、大したことねーよな!)
自分に言い聞かせるようにつぶやいて、セツナは、皇魔たちが、追い縋るように飛び掛ってくるのを気配だけで認識した。音は聞こえない。聴覚は狂ったままだった。どこか感覚がおかしいのはそのせいだろう。しかし、その遊離したような意識の中で、セツナは、口の端に獰猛な笑みを刻んだ。
「行くぜ!」
心の奥底に眠っていた野性が目覚めたのか、どうか。
セツナは、鬼が待ち構える路上へと落下する最中、黒き矛を旋回させた、後方から迫り来る気配へと、切っ先を突きつける。今度は、十分な手応えがセツナの意識を昂揚させるほどに感じ取れた。化け物の敵意に満ちた悲鳴は、セツナがその皇魔を殺し損ねたことを示していた。もっとも、セツナとしては十分な成果だった。今の一撃は、追い縋る連中への牽制に過ぎない。
着地へと至る数瞬、セツナは、再び矛を旋回させるように前方に向けた。眼前は、セツナを迎撃しようとするものと、こちらに飛びかかろうとするものとでごった返していた。その数多の殺気たるや、幾重にも交じり合ってものむせ返るくらいだった。
「鬱陶しいんだよ!」
怒号一閃。
セツナの視界を切り開いた漆黒の軌跡は、こちらへと殺到する皇魔たちの手や腕を切り払い、接近を阻むのとともに着地を容易にし、同時に鬼たちから大量の血を噴き出させた。どす黒くもあざやかな液体が、セツナの目の前を殊更に紅く彩る。その血液の狭間を塗って伸びてくるのは、やはり、鬼の大きな手であった。しかし、その手がセツナに触れることはなかった。次の一閃が、その鬼の本体を真一文字に斬り裂いたからだ。
だが、それで止むような皇魔の攻勢ではなかった。
正に怒涛のような勢いで四方八方から襲い掛かってくる敵に対して、セツナは、当然のように恐怖を忘れた。冷ややかな狂気が、セツナの感覚を研ぎ澄ませていた。鬼どもの一挙手一投足が、セツナの矛を旋回させた。漆黒の軌跡が虚空に刻まれるたびに、真紅の肉体は千切れ、体液や臓物を飛散させた。
「……?」
セツナが動きを止めたのは、どれほどの時間が経過してからだろう。十数体の皇魔が死体と化したのだ。一分や二分は過ぎ去ったのかもしれない。数十秒ということもありえるが、確信はなかった。
「なんだ……?」
セツナは、皇魔たちがいつの間にかこちらを遠巻きに包囲するような布陣を取っていることに気づき、怪訝な表情になったのだ。さっきまでの怒涛の攻勢はどこへやら、円を描くように居並んだ鬼たちは、まるでこちらの出方を窺っているかのように静まり返っていた。セツナの周囲には、十数の死体が転がっているだけだった。
鬼どもは、一様にこちらを注視しているだけだ。眼孔から漏れる紅い光に宿る殺意だけは、以前にも増して強くなってはいたが。
不意に、鬼の角が発光した。
「まさか……」
セツナの脳裏を過ぎったのは、いつかの森での戦いだった。皇魔の背の突起物から放たれた電光球。その破壊力を思い出して、セツナは、内心悲鳴を上げたくなった。
この場にいるすべての皇魔の角が、青白い光を帯びていた。そして、鬼たちが一斉にその大きな口を開く。
圧倒的な咆哮と爆発的な閃光が、セツナの視界を青白く染め上げた。