第四百四十八話 二十年(一)
「どうやらわたしは生きている」
ナーレス=ラグナホルンは、日に何度か、そのようなことをいった。
ナーレスが龍府の地下から救い出されて、二日が経過していた。発見当時、衰弱しきっていたナーレスだったが、二日間、清潔な部屋で療養に専念したことで、談笑できるくらいには体力も回復し、人間の生命力の不思議さを見せつけるかのようだった。
「生きているようだ」
生きているという実感がわかないのか、それとも、実感があるからこそ言葉にするのか、メリス=ラグナホルンにはいまいちわからないところではあった。しかし、へこたれることはない。ナーレスのことがわかったことなど、ほとんどないのだ。結婚してから三年余り。心を通い合わせてきたという自信はあるが、ナーレスの心の深奥に触れることができたとは思いがたい。
悲しいことかもしれないが、夫とはいえ、所詮は赤の他人なのだ。心の底から分かり合うには、もっと時間が必要だ。そして、彼がザルワーンの軍師として、ミレルバスの片腕として働いていたときは、ふたりだけの時間を取ることなどできなかったといってもよかった。
それでも、メリルは彼のことが好きだったし、愛していたからこそ、妻であることができたのだろう。たとえ、一度も言葉を交わすことのない日があったとしても、彼女は彼のことを疑わなかったし、想い続けた。
ただの政略結婚だということは、重々承知だ。ナーレスが彼女との歳の差を気にしていることも知っている。結婚の話が持ち上がった頃、メリルはまだ十四歳の小娘であり、三十代後半に差し掛かったナーレスとは釣り合いが取れないというのは、だれもが思うところではあっただろう。
彼女の父ミレルバスは、ナーレスの地盤を固めるため、あるいは、ザルワーンの地に根付かせるために、彼とメリルの結婚を熱望した。メリルは、父の力になるのは本望だったが、それ以前に、人間としてナーレスに好意を抱いた。
彼となら添い遂げることができると思ったのだ。思ってしまえば、あとは勢いだった。メリルの勢いに困惑するナーレスを押し切る形で結婚し、彼女はメリル=ラグナホルンと名乗るようになった。ライバーン家の人間ではなくなったものの、五竜氏族との縁が切れるわけもなく、最後までミレルバス=ライバーンの娘として扱われたのが、彼女としては不満だった。
彼女は、ナーレス=ラグナホルンの妻である。ザルワーンにとっては裏切り者であり、敵対者の妻なのだ。相応の扱いを受けるべきだと思ったのだが、ミレルバスにそのようなことができるとも思えなかった。
そういうひとだったのだ。
愛が深すぎて、視界を失ってしまう。
想いが強すぎて、判断を誤ってしまう。
その結果、彼女の父は、決戦を行い、戦死した。
不要な戦いを起こしたのだということは、メリルにすらわかっていた。ガンディアとの戦力差は覆しようのないものであり、順当に考えれば、降伏する以外にはなかったはずだ。戦うにしても、籠城し、他国に救援を求めるなりするべきだったのだ。それなのに、征竜野での決戦に踏み切ったミレルバスは、愚かとしか言いようがない。
言い様がないのだが、それでも、彼女は実の父を悪し様にいうことはできなかった。父は父だ。最愛の、肉親のひとりなのだ。その上、ナーレスと引き合わせてくれたということもある。彼女が幸福を感じられるのは、すべて、父ミレルバスのおかげだった。
もちろん、ミレルバスのせいで兄達が戦場で散っていった事実も理解してはいるのだが。長兄ゼノルート、次兄ジナーヴィとの死別は、ある意味では覚悟できていたものだ。ゼノルートはみずから軍に志願したし、ジナーヴィは魔龍窟に落とされた。軍に所属するということは、戦地を飛び回る可能性も高く、戦場で死ぬこともあるかもしれなかったのだ。覚悟は、とっくに済ませてあった。
ジナーヴィは、生き抜くことさえ難しいという魔龍窟に投げ入れられた。同時期に魔龍窟に入った五竜氏族の多くの子女がそうであるように、ジナーヴィに非があったわけではない。先の国主マーシアスが選定しただけのことだ。メリルが魔龍窟に落とされなかったのは、幼かったからに過ぎない。彼女がもし、ジナーヴィと同じ年齢だったならば、彼女もまた魔龍窟に投げ入れられていたかもしれないのだ。そして、そうなった場合、彼女には生き抜く自信などはなかった。
ジナーヴィは地獄のような世界を生き抜き、地上に這い上がってきた。が、平穏を得ることなく、戦場に散った。砦ともども消滅したというゼノルートとは異なり、ジナーヴィはガンディア軍と戦って死んだのだ。そういう意味では、ガンディアは肉親の仇ということになるのだが、メリルはガンディアを憎悪したりはしなかった。
「そういえば、陛下が、旦那様は療養に専念するべきだとおっしゃられておりました」
陛下とは、レオンガンド・レイ=ガンディアのことだ。メリルは、ガンディアに属するナーレスの妻である。ナーレスの主であるレオンガンドを敬うのは、当然のことだった。彼女は、それくらいの思考の切り替えくらいはできた。だからこそ、戦後の混乱に飲まれることなく、現実を受け入れることができたのだろうが。
「陛下が……?」
「はい。療養するなら、ログナーのバッハリアがいいということでしたが、わたしはログナーの地理には疎く、バッハリアがどういう地なのかわからなくて」
「バッハリア……バッハリアか。陛下はよく考えておられる」
「はい?」
「バッハリアといえば、温泉が有名なんだよ」
「温泉……?」
メリルは、ナーレスの優しげな言葉を反芻するようにつぶやいた。寝台の上のナーレスは、首だけをこちらに向け、微笑んでいる。やわらかな笑顔は、いかにもナーレスらしい表情だと思えた。
「地の底より湯が湧き出てくるというものでね、なんでも、心身の療養には抜群らしい」
「そうなのですか。初めて知りました」
「龍府は外界から隔絶された楽園だったからね。知らないこともあるさ。だから、これからはたくさんのことを知っていくことになるだろう」
「はい」
「そうか……バッハリアか……」
ナーレスは、どこか感慨深そうに天井を仰いでいた。そのまなざしがなにを見ているのかはメリルにはわからなかったが、少なくとも悪いものをみているわけではなさそうだった。
ログナーのバッハリア。温泉。見たことも聞いたこともないものを想像するのは、中々に楽しいものではあるし、不安はなかった。ナーレスが側にいる。ただそれだけのことが、彼女を安心させるのだ。
「なに、ザルワーンのことはアルガザードとケリウスたちに任せておけば心配はいらんさ」
レオンガンドは、天輪宮泰霊殿を出る道すがら、ゼフィルとバレットに告げた。正午過ぎ。だれもが昼食を終え、休憩時間を満喫している頃合いだったが、彼には休んでいる暇はなかった。
ザルワーン戦争が終わった。
ザルワーン側は、最後の最後で降参し、ガンディアの領土となることを受け入れた。これにより、ガンディアの版図は大幅に増大したことになる。ナグラシア以北のザルワーン領のほとんどがガンディアのものとなったのだ。旧メリスオール領、スマアダ、ルベンこそ支配できなかったものの、全体を考えれば些細な事だ。
それにジベルがスマアダを制圧してくれたことは、ザルワーンに展開したガンディア軍の後方の安全を確保することにも繋がっており、ジベルには感謝したいほどだった。火事場泥棒には違いないが、ガンディア軍を間接的に援護してくれた事実に変わりはない。もっとも、ジベル側にそのような意図があったとは思いがたい。ジベルは、ザルワーンの隙を突いただけにすぎないのだ。
ルベンについては、アルガザードたちに一任していた。戦力を差し向けるのも、交渉に赴くのも、アルガザード次第だが、いずれにしても、ルベンがガンディアのものとなるのは時間の問題だ。ルベンに駐屯する戦力では、ガンディアに対抗することさえできまい。
籠城するにしても、援軍を期待できるはずがなかった。ルベンはザルワーンの一都市なのだ。本来ならば、ザルワーンの全面降伏とともにガンディアの支配地となるべきなのだが。
「ルベンのことも同様だ。わたしたちが心配することはなにもないよ」
「ザルワーンについては、ですな」
ゼフィルがうんざりとしたような表情を覗かせたのを逃さなかったが、彼はそのことを追求したりはしなかった。レオンガンドとともに泰霊殿を出たのは、ふたりの側近と、彼の供回りたる親衛隊だけだ。ゼフィルの態度を不遜と思うものはいない。
ゼフィルが愚痴をこぼすのは珍しいことではあるが、まったく理解できない感情というわけではない。むしろ、共感すら抱くのは、レオンガンドも同じことを考えているからに他ならない。
「王都か」
王都ガンディオン。
権謀術数蠢く獅子の都は、龍府からは遥か南に位置している。
「遠いな」
レオンガンドはつぶやいたが、それは物理的な距離だけのことをいったわけではなかった。もっと別のなにかが、彼に王都への距離を感じさせた。
王都に戻れば、対峙しなければならないものがあった。
ガンディオンには母がいる。
グレイシア・レア=ガンディア。
王母派、太后派と呼ばれる一派に担がれている彼女の存在は、レオンガンドの頭痛の種だった。