表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
448/3726

第四百四十七話 狗と人

 虚空を見ているような感覚の中で、彼は、自分が命を繋ぎ止めていることに気づき、苦笑を漏らした。

 カイン=ヴィーヴル。あるいはランカイン=ビューネル。またはランス=ビレイン。カイル=ヒドラ。いくつかの名前が定義するのは、彼の多面性などではない。彼の人生の苛酷さ、歪さを示しているだけに過ぎない。

 天井の木目に目の焦点が合っていくのは、意識が、目覚めたばかりの半覚醒状態から完全な覚醒状態へと移行したからだろう。そして、完全な覚醒とともに訪れるのは、全身の痛みだ。体中、満遍なく痛みを訴えてきている。その中でも特に強烈なのが肩から脇にかけての鮮烈な切り口だ。

 彼は、右手で傷口に触れようとしたが、包帯に邪魔をされて触ることもできなかった。簡素な寝台の上、彼は全身に包帯を巻きつけられて寝かされている。応急処置だけではない。しっかりとした処置が施されている。

 戦いが終わったのだ。軍の医療班だけに頼る必要はなくなった。龍府にも医者はいる。それも、とびっきり腕の立つ医者が何人もいた。先の国主マーシアス=ヴリディアが国内からかき集めたからだが、それは、ザルワーンを医療大国にするためなどではなく、腕の良い医者ほど外法の探求に役立ったからだ。

 マーシアスは、ザルワーンの深淵に流れる外法という技術を極めようとしていたらしい。その過程で魔龍窟が生まれたが、魔龍窟は、オリアン=リバイエンの登場によって武装召喚師育成機関となった。マーシアスが魔龍窟で繰り返した研究というのは、人間を人間とも思わないようなものであったのだが、それは後期魔龍窟も同じだ。結局、雲の上の龍には、ひとの営み、ひとの心というのはわからないのだ。

 ふと、そんなことを思い出してしまったのは、ここが龍府だからだろう。

(帰ってきたのか……俺は)

 そうつぶやくのは、ランカイン=ビューネルとしての人格なのだろう。ランカイン=ビューネルにとっての帰る場所は龍府であり、ザルワーンこそが故国であった。カイン=ヴィーヴルとは違う。ガンディア王レオンガンドの狗であるカイン=ヴィーヴルにとっての故郷は、ガンディオンになるに違いなかった。ランス=ビレインはどこの馬の骨とも知れず、怪人カイル=ヒドラに故郷などあるはずもない。

 帰郷したことに対する実感は、ほとんどないといっても良かった。それもそのはずだ。彼はカインなのだ。カイン=ヴィーヴルが彼の名前であり、レオンガンドに忠誠を誓う走狗こそが、彼のすべてだった。ザルワーンへの感傷など、あるはずがなかった。

 それでも、彼はこの都を覚えているし、よく知っている。長い間魔龍窟に身を置いていたとはいえ、魔龍窟に落とされる前までは、ビューネル家の末席に名を連ねた貴公子だった。五竜氏族の名と威光は、彼の人生を華やかなものにしたものだ。それもいまや幻の彼方の出来事にすぎないが。

 彼は、天井の木目を見つめるのも飽きて、瞼を閉じた。闇が視界を覆うと、その中にいくつもの情景が浮かぶ。

 カイン=ヴィーヴルは、征竜野の戦いで戦果を上げることもなかった。それは、彼が本陣付近に配置されたということが大きい。敵軍が前線を突破し、本陣に攻撃してきた場合の対抗手段として、彼は《獅子の爪》や《獅子の牙》とともに本陣の守備についていたのだ。

 出番はないだろうとカインは思っていたし、カインの配置を知ったウルが、いい気味だと笑っていたのも当然だった。味方は圧倒的な物量を誇り、敵は少数。黒き矛のセツナと、《白き盾》のクオン=カミヤがいないとはいえ、戦力的に見ても十分すぎるほどだった。戦端が開く前から趨勢は定まっているようなものだ。

 勝利を再確認するための戦いだとだれかがいっていたが、実際、その通りだったのだ。レオンガンドも、アルガザード大将軍も、アスタル、デイオンの左右将軍も、ザルワーン軍に一時とはいえ、押されるとは思ってもいなかっただろう。

 出番がなくとも、問題はなかった。

 カインにしてみれば、そのようなことに拘りはないのだ、彼は、狗だ。主の命ずるままに駆け回り、主の望む通りの結果を導き出せれば良い。戦場に在れば血は滾り、心も昂揚してしまうものだが、抑えることも難しくはなかった。なにより、彼には制御装置が存在する。彼女が彼の手綱を離さない限り、彼は本能のままに戦うことなどありえない。

 戦況が変化し、ガンディア本陣に特攻してくる敵の一団が現れたのは、戦いも中盤から終盤に流れている最中だった。ザルワーン軍がガンディア軍を圧したのは一瞬の出来事であり、あとは流れ落ちるように壊滅へと向かっていたのだが、そんな中にあって、本陣を陥れんとする一団が出現したことには、彼が歓喜さえ覚えた。

 敵特攻部隊が王立親衛隊とレマニフラ軍による重厚な防壁にぶち当たり、半壊するのは目に見えていたが、その中からたった一人、突出してきた人物がいた。

 ミレルバス=ライバーン。ザルワーンの国主であり、かつてランカイン=ビューネルの主君だった男だ。ミレルバスは政治のひとであり、武勇とは無縁の人物だったはずなのだが、召喚武装を手にした武装召喚師ですら捉えきれないような動きで、彼を圧倒した。

 カインは、新たな召喚武装ドラゴンクロウで対抗したものの、腕を一本奪っただけで終わった。一刀の元に斬り捨てられた彼は、死を自覚した。

 死んだはずだった。

「なぜ、俺は生きている」

「さあ? 応急処置が間に合ったんじゃない?」

 無愛想でぶっきらぼうな声に、カインは瞼を開いた。隣を見ると、いつの間にか、ウルが椅子に腰掛けていた。艶やかな黒髪と喪服のような黒装束の中で、白い肌が際立っている。灰色の目は、こちらを見てもいない。

「なんだ、君も生きていたのか」

「当たり前でしょ。わたしのような後方待機組が危険にさらされるような状況にはなりっこなかったわ」

 ウルの言う通り、征竜野の戦いに彼女は参加していなかった。彼女の異能に距離が関係ない以上、後方に待機させておいても問題がないということもあるが、当時の彼女が戦闘力的に頼りにならなかったというのも大きい。ウルは、その支配力の大半をカインに割いているのだが、カインに加え、ミリュウ=リバイエンも支配しなければならなかったのだ。カインとミリュウを同時に支配したまま、敵兵を操るのは不可能ではないというのだが、支配することができても一人二人である上、彼女自身が前線に出る必要もあるため、戦場への投入は控えられた。

 そのため、ウルは医療班などとともに後方に待機し、戦いが終わるのを待っていたのだ。

「まあ、あなたがミレルバスを取り逃したおかげで、陛下は片目を失ったそうだけど」

「なんだと……!?」

 カインは、寝台から跳ね起きた。ウルの冷ややかな視線は、カインの反応に対してのものだろうが。

「所詮、狗は狗ね。陛下の話となると、目の色を変えるんだから。でも安心して。陛下が片目を失ったのは、御自身の不注意にほかならないわ。あなたがミレルバスを殺していれば無事だったのは間違いないけれど、病み上がりのあなたにそこまで期待してはいないし」

 ウルはいつものように辛辣な口調だったが、いまはむしろそのほうが気分が落ち着く気がした。変に気を使われるよりはいい。というより、気を使うウルなど、想像もできなかった。そんなことを口にすれば彼女は怒るだろうか。カインには、ウルという女の性格がまるでわからなかった。

「陛下は、ご無事なのだな?」

「陛下の御命は、お姉様が命に替えてでも護り抜くから安心していいわよ」

「……そうか」

 一先ず安心して、彼は小さく息を吐いた。

 それからカインは、ウルから征竜野の戦いの顛末について聞いた。その中で、あの決戦から二日が経っているということを知るとともに、ガンディア軍の本隊が王都に凱旋するための準備に入っているということを聞かされた。

 当然、カイン=ヴィーヴルも帰らなければならない。

「そういえば、ロック=フォックス軍団長の亡骸、見つからなかったって」

 話の最後、ウルがめずらしくもしおらしい表情をしたのが、印象的だった。

 ロック=フォックスは、ガンディア方面軍の第三軍団長であり、ファブルネイア砦に出現したドラゴンの調査に向かった際、ウルを庇って光の中に消えた男だった。彼は死に、彼の部隊は半壊した。生き残った者達は、ウルを魔女と呪ったが、彼女は意に介さなかった。

 そう、思っていたのだが。

(なんだ、気にしているじゃないか)

 ロック=フォックスの亡骸の捜索については、ガンディア方面軍第三軍団の兵士がマルウェールのガンディア軍に依頼したことらしいのだが、そういう情報を耳に入れている辺り、気にしているというのは間違いない。

 だからどう、ということはないのだが。

 魔女にも、人間らしい一面があるところがわかったのは、収穫だったのかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ