第四百四十五話 意味と価値
「なんとか、丸く収まったみたいね……」
柱の影からベランダのふたりを見遣りながら、ファリアは安堵の息を吐いた。脱力とともに額の汗を拭う。セツナの部屋から飛び出していったミリュウを探すため、彼女は全力で紫龍殿の中を駆け回らざるを得なかったのだ。セツナのように黒き矛で空間転移できるわけでもない。
セツナが黒き矛を召喚したときは驚いたものの、それ以上に有効な追跡手段はないのは確かだった。
セツナをけしかけたのは、ファリア自身だ。ファリアは、ミリュウ=リバイエンが嫌いではなかった。ミリュウが深く傷つき、落ち込んでいる姿を見ていられなかった。なんとかしてあげたいと思ったが、その役目が自分ではないこともわかりきっていた。彼女が求めているのは、ファリアではない。ミリュウの心には、セツナがいる。彼女自身がいっていたことだ。
黒き矛を複製してしまったがための後遺症なのだという。しかし、そのことで思い悩んでいるのではなさそうだった。もっと別のことだろう。彼女の存在に関わるようなことなのだろう。
元は敵だ。
だが、そんなことを言い出せば、この乱世を生きていくことなどできない。昨日の敵は今日の友であり、今日の友は、明日の敵かもしれないのだ。ザルワーン戦争でガンディア軍の勝利に大きく貢献した傭兵たちは、つぎの戦場では敵かもしれない。《蒼き風》も、《白き盾》も、ガンディアの前に強敵となって立ちはだかるかもしれないのだ。それが戦国の習いというものなのだろう。命のやり取りをしていても、戦争が終われば、そんなことなど忘れてしまったかのように手を取り合えるのが人間なのだ。
(それほど脳天気にはいかないけれど)
エイン隊の兵士の中には、同僚を殺したミリュウを強く憎んでいるものもいる。それも仕方のないことだ。すべての人間が割り切れるわけではない。軍人ならばだれしもが戦争中のことは仕方がなかったと割り切れるのならば、それほど簡単なことはない。しかし、ひとの心はそう単純な構造をしてはいないのだ。
とはいえ、ガンディアは、彼女を受け入れるだろう。その他大勢のザルワーン軍人、ザルワーン人と同じように、平然と受け入れ、軍役を課すに違いない。ログナー軍人がそうであったように、すぐにガンディアの軍人となるのだ。そうやって、国は強大化していくのだ。
ガンディアは、着実に肥大をはじめていた。数カ月前まで、弱小国家の筆頭にあげられるような国だったのが嘘のような現状に、彼女は目眩さえ覚えた。それもこれも、ここ数ヶ月の連戦連勝のおかげにほかならない。
ベランダでは、ミリュウとセツナが戯れていた。ミリュウがいつもの勢いを取り戻したのが見て取れる。
「これで……いいのよね」
「自分で恋敵を増やしてどうするんですか?」
「だれがよ!?」
喉から心臓が飛び出るかと思うほどの驚きに、彼女は大声を発しかけた。幸い、ベランダのふたりには聞こえなかったようだが。
振り向いた先には、エイン=ラジャールの澄まし顔がある。ファリアは額の汗をぬぐった。全身から吹き出した汗の冷たさは、彼女の驚きの深度を示している。警戒を怠っていたとはいえ、前方に意識を集中している時に背後から声をかけられれば、そうもなろう。
「まあ、ガンディアの戦力の充実を図るという観点から見れば、最良の結果だとはいえますけど」
「ほかにどんな観点があるのかしら」
ファリアが素知らぬ顔をすると、エインはやれやれとでもいいたげに手を振った。軍服を着せられたようにしか見えない少年には、この上なく不釣り合いな仕草だったが、彼女はなにもいわなかった。いったところで、この致命的な敗北感を拭い去れるはずもない。
「なんにせよ、武装召喚師がひとりでも仲間になったことは喜ばしいことですね」
「まだ仲間になると決まったわけではないでしょう? 陛下がどう判断なさるのか」
「陛下だって、戦力は欲しいはずですよ。それが武装召喚師で、セツナ様と渡り合った実力者なら尚更。しかも彼女はセツナ様にぞっこんときている。受け入れない理由はないでしょう」
「軍団長の部下を殺した相手では?」
ルベン近郊での戦いのことを思い出す。黒き矛のセツナを囮とする大胆不敵な作戦は、エインの立案したものだった。バハンダール攻撃作戦も、そういえば、ドラゴン突破作戦もエインが練り上げたものであり、どの作戦もセツナが矢面に立たされるのが特徴的だった。黒き矛の力を最大限有効活用しようというエインの意気込みが感じられる一方、セツナへの負担の大きさが心配でもあった。もっとも、ドラゴンを討滅してしまうほどの実力者を心配するのは、侮り以外の何者でもないのかもしれないが。
「関係無いですよ。部下が死んだのは、敵の戦闘能力を見誤ったぼくの責任ですからね。相手がたまたまミリュウ=リバイエンだった。ただそれだけのことです。それに、ミリュウ=リバイエンひとりに部下が殺されたわけじゃないですよ。征竜野の戦いでも、何人死んだか」
エインはきっぱりと告げてきた。彼は十六歳の少年だが、軍団長としての在り方をしっかりと認識しているようだった。セツナよりも年下でありながら、セツナよりも余程多くの人の命を預かるのが彼だ。
セツナは隊長とはいえ、その部下といえば、独立自尊の精神が強い武装召喚師たちなのだ。比較するのも馬鹿馬鹿しいことだが。
戦争は終わった。ガンディアとザルワーンの全面戦争といってもいいような、大きな戦いが終わったのだ。それは喜ぶべきことだが、そのために命を落とした人の数を考えると、素直に喜べないのが実情だった。情報が集まりきっておらず、正確な数は把握できていないが、それでも敵味方合わせて何千人もの戦死者が出ている。
そのうち、どれほどが、セツナが殺したザルワーン兵なのだろう。考えるだに、ぞっとしない。だからこそ、あえて数えまいとしているし、正確な数字が出ることはありえないとも思うのだが、ある程度漠然とした数が上がってくるのは間違いない。ガンディア大勝利の立役者であるセツナの戦果なのだ。国の内外への宣伝材料になる。
気が重いのは、そういうこともあった。
ザルワーン戦争での活躍により、セツナの名はますます喧伝されることになるだろう。黒き矛、竜殺し、千人斬り――いくつかの二つ名とともに、小国家群に響き渡るに違いない。そうなれば、彼はますます敵に狙われることになるだろうし、酷使されることになるだろう。
「そりゃ、部下のひとりひとりは大切ですけどね。それとこれとは別の話です。ミリュウ=リバイエンがガンディアに所属してくれるのなら、諸手を上げて歓迎しますよ。武装召喚師が増えるということは、一般の兵士の負担が減るのと同義。セツナ様がいなければ、この戦いがどんな結果になっていたものか」
「……それは考えたくないわね」
その場合でも、《白き盾》のクオン=カミヤがいるのならば、ある程度は戦えただろう。《白き盾》にはマナ=エリクシアとウォルド=マスティアのふたりもいる。
しかし、セツナがいないということは、ファリアも参加していない可能性がある。ファリアがガンディアに所属している理由のひとつは、セツナがアズマリア=アルテマックスと繋がりを持っているからだ。セツナがガンディアにいない場合、アズマリアの手がかりを探す事のほうが重要なこととしていたはずだ。セツナという手がかりがあるから、使命の優先度を落とすことができるのだ。セツナにもし、アズマリアの影が見えなければ、彼とともにガンディアに参加したりはしなかったかもしれない。
その戦力で、ザルワーン軍と戦った場合、どのような結果になったのか。結論を導き出すのは難しい。ガンディアの電撃的な侵攻で緒戦は勝ちを手にすることができたとしても、その勢いは長続きしないように思える。
セツナがいないということは、バハンダールの制圧にも時間がかかるということであり、また、ミリュウたち魔龍窟の武装召喚師も控えている。勝利は絶望的だ。
「なんにせよ、戦力の増強はガンディアにとっての急務です。人材を見つけたら積極的に登用せよ、とは大将軍閣下直々の言でもありますしね」
「そうなの」
「ということで、ぼくはミリュウ=リバイエンを我が第三軍団に誘おうとしていたわけですが……」
ベランダのふたりをこっそり覗き見するエインの後頭部に向かって、ファリアはにべもなく告げた。
「無理でしょ」
「ですよねー」
エインはがっくりと肩を落としたが、わかりきったことではあったのか、どこかすっきりとした顔でこちらを見上げてきた。
「そういえば、陛下の帰国の日程が決まったみたいですよ」
「早いわね」
「ザルワーン軍は抵抗の素振りすら見せないし、ザルワーンの人々も、五竜氏族の支配から解放されたと喜んでいて、むしろガンディアを受け入れる姿勢を見せている現状、全軍をザルワーンに置いておく必要性は感じられなかったんでしょう。ザルワーンにガンディア軍の半数程度ですが、ザルワーン軍の吸収も始まっていますし、戦力は十分ですね」
「もう?」
「どうも、ザルワーン側は、端から負けたときのことを想定して動いていたみたいですね。ガンディア軍の入府がなにごともなく行われたのも、国民による抵抗活動が見られないのも、そういった動きのおかげのようで」
「だったら、戦う必要なんてなかったじゃない」
ファリアは、茫然とつぶやいた。征竜野で行われたガンディアとザルワーンの最終決戦は、起きるべくして起きた戦いなのではない。戦力差は圧倒的であり、ガンディアとしては、降伏してくれたほうがありがたかったし、普通に考えれば、ほかに道はないはずだった。勝つ見込みのない戦いになんの意味があるというのか。ただ、無駄に血を流すだけではないか。
実際、ガンディア側も、ザルワーン側も、無駄な出血をしただけのことだ。
最初からわかっていたガンディアの勝利を再確認した、ただそれだけのことなのだから、あの戦いでの死ほど意味のないものはなかった。
それでも、数多の人間が死んだ。
無駄に流れた血は、征竜野を赤黒く染めたのだ。
やりきれないのは、ファリアだけではあるまい。