第四百四十四話 ミリュウ=リバイエン(四)
「そうか」
セツナの声と、静かな風の音だけが、ミリュウの耳に届く。
朝の龍府は、静寂に包まれていて、彼の小さな声もしっかりと聞こえた。いい声だと、彼女は思っている。聞いているだけで安心できる声だった。彼の声だけを聞いていたいと思うこともある。そうすれば、少なくとも、心がざわつくようなこともないのではないか。
いまも、彼の声を聞いただけで、落ち着きを取り戻し始めた自分がいることに気づいて、彼女は胸中で苦笑せざるを得なかった。
「……難しいことはよくわかんないけどさ、結局のところ、ミリュウはどうしたいんだ?」
「わからない……」
ミリュウは頭を振った。頭の中が真っ白になっている。空白のような真っ白な空間に取り残されている――そんな感覚の中で、セツナの声だけが実感を伴っている。セツナの言葉だけが、彼女と現実を繋ぎ止めている。
「わからないのよ。あたし、どうしたらいいんだろう。どうしたいのかな……わからないよ」
混乱は、時間とともに深まっていく。加速度的に。破滅的に。父を殺せなかったあのとき、作り上げてきたものがすべて崩れ落ちた。復讐のためだけに生きてきた人生をみずから否定してしまった瞬間、足場さえも失ってしまった。自分はどこに立っているのか。自分はどこに向かうべきなのか。指針も方向性も見えないまま、もがくことも、あがくこともできなかった。
ただ溺れ、沈んでいく。
「……それならさ」
気が付くと、セツナが微笑んでいた。
「やりたいことが見つかるまで、ここにいればいいんじゃないか?」
「え……?」
「ガンディアにさ」
ミリュウは、言葉を失った。彼は、なにをいっているんだろう。そんな風に考えてしまうほどに、思考が狂っている。いや、正常なのか。どちらにせよ、彼の言葉の意味を理解するのに少しばかりの時間を要した。そして、時間を費やして理解したところで、行き着くのは、彼の考えがわからないということだ。
セツナは、どうしてそんなことをいうのだろう。
「ミリュウほどの実力があれば、十分にやっていけるだろうし。ガンディアは万年人材不足だっていうしね」
「でも、あたしは……敵だったのよ?」
それは疑問ではない。ただの反論に過ぎない。敵であっても戦いが終われば、受け入れるのが戦国乱世というものだということは、彼女だって知っている。歴史上、ザルワーンもそうやって敵国の将士を受け入れてきたという事実もある。そんなことは、わかりきっている。
「そんなことをいったら、エインだって敵だったさ」
「あたしは、ガンディアの兵を殺したわ」
「俺だって、彼らの大切なひとたち、仲間や同胞をたくさん殺している」
「でもでも、あたしは、あなたを利用したのよ?」
「こっちだってミリュウを利用してるじゃないか」
「でも……でも……!」
むきになって反論しているということはわかっている。だが、反論するしかない。セツナの言を受け入れれば、彼に甘えることになってしまう。彼に一度甘えれば、もう二度と、彼から離れられなくなる――そんな予感がある。いや、予感ではなく、確信だ。いまでさえ離れ辛いというのに、これ以上、依存してしまうと、どうにかなるのではないかと想うのだ。
しかし、それは決して、気分の悪い感情ではなかった。
「ガンディアが嫌になれば、いつでも抜け出せばいい。嫌じゃないなら、いつまでもいればいい。つぎの目的が見つかれば、それに向かって進めばいい。見つからないなら、見つかるまでガンディアにいればいい。簡単なことだろ?」
セツナは、こちらの感情を逆撫でにしないように、慎重に言葉を選んでいるようだった。その優しさが嬉しくて、涙が出そうになるのだが、彼女はぐっと堪えた。泣くのは簡単だ。しかし、弱った姿を見せて、同情を引きたくはないという個人的な感情もある。
「……いいのかな?」
「たぶん、きっと」
「自信はないのね」
「うーん……でも、俺、一応、親衛隊の隊長だし、なんとかなると思う」
セツナは、やはり自信なさげにいってきた。確かに彼のいうとおりかもしれない。彼は、王立親衛隊の隊長に任命されている。ガンディアの王立親衛隊は三隊しかなく、その隊長にはガンディアでも有数の実力者が名を連ねているという。セツナはそんな親衛隊長のひとりなのだ。とてつもない権力者といっても過言ではないはずだ。
「権力者だものね」
「実感ないけど」
「変なの」
「変かな」
彼が、笑った。いつもと変わらない笑顔は、彼女には光にしか見えない。あの地獄の底で求めていた光が、こんなところにあったのだ。信じられないことだが、拒絶するつもりもない。光を欲したのは彼女自身だ。ここは、血の臭いが蔓延する地獄ではない。しかし、求めていた光は、光に満ちた世界でも輝いて見えるものだった。
「変よ」
彼女も笑った。笑うしかなかった。涙が溢れるほどに笑いながら、彼のことを想うのだ。
(でも、そういうところが好きなんだと思う)
口に出してはいわなかったが、それが彼女の素直な気持ちだった。いや、どういうところが好きだとか、そんなことはどうでもいい。好きになってしまったものは、仕方がないのだ。原因がなんであれ、感情は止めようがない。父への殺意を消せなかったように。父への愛を拭い切れなかったように。自分の心ほどままならないものはないのだと、彼女は改めて認識した。
心が軽くなっているのがわかる。さっきまでの苦痛が嘘のように消えていて、別の想いが胸の内を埋め尽くしている。空白が塗り潰された。目の前の少年への想いで、いっぱいになっている。それがなぜか妙に気恥ずかしくて、彼女は視線を逸らした。
「どうしたんだ?」
「な、なんでもない!」
セツナの追求を振り切るように叫んだものの、彼が追求してくるような人間ではないことも知っていた。顔が熱い。いや、顔だけではない。胸の奥から溢れてくる感情が、熱を帯びて彼女の意識を席巻していく。
なんということだろう。
なんて、簡単な事なんだろう。
ついさっきまでの懊悩が馬鹿馬鹿しくなる。
それくらい単純で、容易い答え。
「あたしは、セツナの側にいたい」
「そっか。それなら、それでいいんじゃないかな」
「本当に……いいの?」
ミリュウは恐る恐る、問うた。何度も同じことを聞いている気がするが、それも仕方のないことだ。恐れがある。自分の中には、十年に渡って醸成された悪意が潜んでいる。それは、父を殺せなかったことで蒸発したわけではない。そんなことで消え去るはずもない。それは、昏く深い心の奥底で、目覚めの時を待っているのだ。
それが、セツナに牙を剥くかもしれない。そんなことはありえない、とは言い切れないほど、いまの彼女は弱っている。オリアンを殺せなかったものが、他の人間を殺せるとも思えないが、殺せないとは断言できない。実際、数多の人間を殺してきたのが彼女だ。ガンディアの兵士だって殺している。オリアンが殺せなかったのは、父だったからだ。この世でたったひとりの、最愛の父だったからだ。愛の影が、彼女の殺意を鈍らせた。
相手がセツナならば、どうか。
彼も、この世でただひとりの、彼女の想い人だ。一方的ではあるものの、記憶を共有する相手でもある。そんな相手に刃を向けることがあるだろうか。
殺せないだろうとは思うのだが。
「いっただろ。したいようにすればいいって。俺の近くにいることがミリュウの望みなら、それもいいさ」
きっと、セツナは彼女の言葉の意味を理解してはいまい。ミリュウの想いのすべてを込めた告白も、ただ空を切っただけに過ぎないのだ。しかし、それでいいと思っている。ミリュウは、ただ、彼の側にいたいのだ。
それ以上のものは、いまは見えなかった。