第四百四十三話 ミリュウ=リバイエン(三)
「あたしは、父を殺すことがすべてだと思っていた。魔龍窟に落とされたあたしに救いの手を差し伸べてくれるどころか、地獄へと追いやったあの男を殺すことが、あたしの人生のすべてだった。すべてを賭けてでも、殺そうと思ったの」
ミリュウは、セツナとの間に横たわる距離を詰めようとは思わなかった。いつもならば、少し前の自分ならば、すぐにでも彼に縋り付こうとしただろう。強引にでも彼にくっつき、それで少しでも心を満たそうとしたはずだ。わずかばかりの接触で充足感が得られるだけの、安い心。その程度の人間だったのだ。そして、それで良かった。どうせ、終わりの見えていた人生だ。それだけで、十分だった。それ以上を求める必要はなかったのだ。
「だから、ガンディアの捕虜となったのは絶好の機会でもあったのよ。捕虜の身で龍府に潜入し、オリアン=リバイエンを殺す――願いを果たすことができると思ったから」
セツナは、なにもいわない。ただ、ミリュウの吐き出す言葉に耳を傾けてくれている。それがとてつもなく優しく感じられるのは、ミリュウの心が弱っているからだろうか。
心の中の黒いものを吐き出しているのに、セツナは眉ひとつ動かさなかった。紅く濡れたような目が、ミリュウを見つめている。
「龍府に忍びこむことはできた。そして、オリアンを発見することも。あたしは歓喜したわ。目的が果たせる。念願成就の時が来たって」
泰霊殿主天の間にオリアン=リバイエンを見出したときは、体が震えた。心臓が跳ねるとはこのことだと思うほど、歓喜に打ち震えたものだ。その喜びが相手に伝わったのではないかと思うほどだった。もっとも、それは杞憂に終わる。
オリアンは、あのとき、眠っていたのだ。
つまり、殺す好機を逸したということだ。
「でも、できなかった」
ミリュウは、体の震えを鎮めるために拳を握った。爪が手のひらに食い込んでいくのがわかる。爪が皮膚を突き破るのではないかと思うほどに力を込めてしまっているのだが、止めようがない。想いを伝えるということは、それほどまでに大変だということなのだ。
「殺せなかったのよ! あの男を!」
脳裏に浮かぶのは、オリアン=リバイエンの表情だ。失意と絶望に満ちた男の顔は、父親のそれでも、魔龍窟総帥のそれでもなかった。ミリュウがまったく見たこともない表情だったのだ。彼女の知らない人物がそこにいた。オリアン=リバイエンではないなにものか。
ミリュウの意識が凍りついたのは、そういうこともあったからかもしれない。オリアン=リバイエンという名を仮初めのものとした別人が現れたのだ。彼女は、ただただ呆然とした。そして、絶望した。
「殺せなかった……! 殺したかったはずなのに。あの男を殺すためだけに、力を磨いてきたはずなのに。戦い抜いてきたはずなのに。生き抜いてきたはずなのに。それなのに、あたしは、あたしは……!」
ミリュウは、頭を抱えて、叫ぶようにいった。自分でもなにをいっているのかわからない。他人に話すようなことではないのは確かだろう。特に、セツナには聞かせたくない言葉を発しているのではないか。そんな気がして、心が傷んだ。痛みは、涙となって溢れていく。
「なにもできなかった」
セツナを直視することができない。きっと、あきれてものもいえないのだ。だから、彼は黙っている。黙って聞いているしかない。ミリュウは、それでも、独白を続けた。一度堰が壊れれば、流れきるまで言葉を発し続けるしかない。
「傷つけることさえ、できなかった。いいたいこともいえなかったよ。罵倒することも、怒りを伝えることも、憎しみをぶつけることも、なにもかも」
オリアン=リバイエン――いや、あの男がいったことを思い出す。ミリュウが魔龍窟に落とされた理由。兄弟の中で、ミリュウだけが資格を持っていたという。資格とはなんなのかわからずじまいだったが、そのせいで、彼女は人生をめちゃくちゃにされたのだ。その怒りをぶつけることくらいなら許されたはずなのだが、それすらもできなかった。いや、それをすれば、彼の思惑通りになっていたのだろうが。
あの男の思惑を潰せたというのに、まったく喜べないのはどういうことだろう。
なにかを期待していたというのか。
「殺せば、それで終わりだったのに。それだけがすべてだったのに。人生の、目的だったのに」
独白とは別に、思考は巡る。
オリアン=リバイエンになにかしらの言葉をかけてもらいたかったのかもしれない。
父親としての言葉を、対応を期待していたのかもしれない。
愛を欲したのだ。
(ああ、そうか……)
そこに考えが行き着いたとき、ミリュウは顔を上げた。自分は、なんて馬鹿な女なのかと思うと、涙すらこぼれなくなった。
(あたしは、もう一度、愛されたかったんだ……)
父親に。
あの男に。
魔龍窟の総帥として君臨し、五竜氏族の子女を地獄の底に叩き落とした男に。
もう一度。
子供の頃のように。
箱庭の世界にいた頃のように。
もう二度と戻らない光景を夢見たのだ。
心を埋め尽くしていたものがぼろぼろと崩れ落ちていく感覚の中で、彼女は、セツナが最初と変わらぬ表情でこちらを見ていることに気づいた。彼は、同じ態度、同じ目で、ミリュウを見ていた。ミリュウの心情の吐露を聞いていた。
嬉しいと思う一方、彼がどうしてそこまでできるのかが不思議でならない。
ミリュウ=リバイエンは、彼にとってなんなのだろう。
彼を殺そうとして、殺せなかった敵武装召喚師に過ぎないのではないのか。ミリュウが黒き矛の力を制御できず、意識を失ったから、彼は生き延びた。彼は生き、ミリュウは囚われの身となった。彼にしてみれば、それだけのことだ。それから先のことは、ミリュウの都合に過ぎない。ミリュウは、記憶の混合の結果、セツナに好意を抱くに至るのだが、セツナにはそれはない。セツナにしてみれば、鬱陶しい存在だろう。ついさっきまで殺し合っていたはずの相手だ。そんなものの好意を受け入れる道理など、ない。
だが、ミリュウの記憶の中のセツナは、彼女を邪険にしなかった。突き放されても文句ひとつ言えないはずなのに、受け入れられることを当然のように思っていたのはなぜだろう。そして、受け入れられているということに疑問を感じなかったのは、どうしてだろう。
「セツナ……あたしは、なにもかもなくしちゃったよ」
生きる目的も。生きていく力も、夢も、願いも、望みも……なにもかもすべて、手のひらからこぼれ落ちていった。父の愛を求めていたのだとすれば、それさえも、もう二度と手に入らないものとなった。あの男は、ミリュウによる自身の殺害を望んでいたのだ。あのとき、殺すことさえできていれば、ミリュウは、彼の愛を得ることができたのかもしれない。当然、そんな形の愛など、望んですらいないのだが。
喪失感は、時間とともに強くなっていく。
自分を形成していた多くの物事が崩れ去っていくのがわかるからだ。ミリュウ=リバイエンという人間を、人格を形成していた最大のものは、オリアン=リバイエンへの復讐心であり、殺意だった。その暗い熱情こそが、彼女の生きる糧だった。それさえあれば、どれほどの苦痛だって耐えられるし、孤独だって耐え抜くことができただろう。
父親を殺すことで、ようやく、すべてが終わり、すべてが始まるのだと思っていたのだ。
魔龍窟のために失われた十年間を取り戻すことはできない。が、その十年間から解き放たれることはできる。それが、魔龍窟総帥を殺すことだった。魔龍窟の支配者たるオリアンの命脈を立てば、この魂も魔龍窟の呪縛から解放されるに違いなかった。
しかし、殺せなかった。
殺せなかったにもかかわらず、彼女は、自分と魔龍窟の繋がりが希薄になっていることに気づいている。まるで、自分の存在が薄れていくかのように、すべてとの関わりが消えていっている。
そんな感覚が、彼女を絶望させるのだ。