第四百四十二話 ミリュウ=リバイエン(二)
なぜ、部屋を飛び出したのか、自分でもわからなかった。
言いたいことがあったはずだ。伝えたいことがあったはずだ。言葉にしたい感情があったはずだ。しかし、頭の中がぐるぐる回って、上手く言葉に出来なかった。
目が覚めたばかりの少年を前にして、想いが溢れた。
(本当に馬鹿ね、あたしって)
廊下を駆け抜ける彼女を呼び止める声はなかった。何人か、軍人と思しき人物とすれ違ったものの、相手がミリュウ=リバイエンとわかると声をかける気にもならなかったのかもしれない。
捕虜の身でありながらガンディア軍に協力的だったミリュウは、ある種の有名人になっている。
天輪宮紫龍殿の中はいま、ガンディアの関係者によって制圧されたも同然だった。ほとんどが軍関係者なのは、戦争に帯同するような文官が少ないからということもあるだろう。そういった役人がガンディア本国から龍府に派遣されてくるのは、少し先の事になりそうだった。そして、そのときがくれば、龍府からザルワーン色が一掃されるのだろう。
古都がガンディアの色に染まるのだ。それは決して悪いことではない。五竜氏族による絶対支配が覆され、ひとびとが多少なりとも人間らしい人生を謳歌できるようになるということにほかならないのだ。五竜氏族の支配下にあって、権勢を振るっていた一部の連中は、ガンディアによる統治に絶望していることだろうが、仕方のないことだ。
取り留めもなく、色々なことが頭の中に浮かんでは消える。国のこと、家族のこと、氏族のこと、ひとびとのこと――どうでもいいことが大半で、どうしてそんなことが自分の思考を埋めるのかがわからない。
どうでもいいことでも考えていないと、息が詰まってしまうからかもしれない。ふと、そんな風に思ったが、あながち間違いではないのかもしれない。
彼のことを考えると、息が詰まりそうになる。
廊下を駆け抜け、突き当りを左へ。途中階段を駆け上って、さらに廊下を進む。紫龍殿二階のベランダに出ると、彼女はようやく足を止めた。まるでなにかから逃げ出すようにして駆け抜けてきたが、こうまでする必要があったのかどうか。
ところどころに龍の意匠が見られるベランダは、天輪宮の四つの外宮(紫龍殿、双龍殿、玄龍殿、飛龍殿)には必ずあった。色彩も鮮やかな柱と屋根の下、窓辺に向かえば、龍府の町並みがある程度見渡すことができる。別に景色を見るためにここまで走ってきたわけではないにせよ、心を落ち着けるには、風に当たるのがいいと考えたのは事実だ。
紫龍殿のベランダに入り込む風は穏やかで、つい先日までの戦いの激しさなど微塵も感じられない。当たり前のことだ。風は風だ。人間の闘争になど興味など持つまい。ただ、戦場の熱気も、狂気も、吹き飛ばしていくだけのことだ。
(あたしの感情も、吹き飛ばしてくれないかな)
ミリュウは、ベランダの柱に背を預けると、龍府の風景を一瞥した。古都と呼ばれる都市の外観は、朝日を浴びてきらきらと輝いている。様々な形状の建物の多くには、龍を模した飾り付けがなされており、ここが龍の府であるということを喧伝しているかのようだ。
九月二十九日。
龍府にガンディア軍がなだれ込んできて、二日目の朝を迎えていた。
つまり、セツナは丸一日以上眠っていたということだ。彼が龍府に到着したのは、二十七日深夜のこと。エイン=ラジャール率いる特別編成の部隊によって、ヴリディア砦跡からクオンともども回収されてきたのだ。
クオンもセツナも疲れ果て、起きる気配さえ見せなかった。それもそのはず、彼らはだれよりも激しい消耗を強いられるような戦いをしなければならなかった。常識的に考えてありえない戦闘だ。そんな戦い方は、武装召喚師ならば思いつかないし、思いついたとしても実践しようとはしないだろう。
該当武装召喚師の負担があまりに大きすぎる。
他に方法がなかったとはいえ、だ。作戦を立案したものも、了承したものも、武装召喚師のことを知らなすぎではないのか。
(もし、セツナに後遺症でも有ったらどうしてくれるのよ)
ミリュウは、作戦立案者や了承したのであろう王に詰め寄って問いただしたいと思ったものの、彼らは涼しい顔で受け答えるに違いなかった。それが、彼らの役目であり、正しいあり方だといわれれば、ミリュウにはなにもいえない。それに、セツナは軍人だ。与えられた命令をこなすことだけがかれの役割なのだ。
そんなことはわかりきっている。わかりすぎるくらいに、わかっているはずなのだが。
ミリュウは静かにため息を吐いた。ゆっくりと、肺の中の空気を吐き出し、新鮮な朝の空気と入れ替える。そうしたところでなにかがかわるわけではないということも理解しているのだが、なにか行動を起こさなければ頭がどうにかなりそうだった。
混乱が、収まる気配を見せない。
セツナのことばかりを考えている自分がいる。
奇妙なことだ。おかしなことだ。馬鹿げたことだ。しかし、頭の中に浮かぶのは、少年の顔ばかりなのを止められなかった。戦いを終え、疲れ果てたセツナの寝顔を見ていると、このまま目覚めなかったらどうしよう、などと考えてしまうほどに不安が膨れ上がった。目覚めようと、目覚めまいと、自分には関係のないことだということはわかっているのに。
(もう、関係のないことなのよ)
ミリュウは頭を振って、セツナのことを頭の中から排除しようとした。しかし、できなかった。力の逆流からこっち、セツナの記憶と自分の記憶の混濁が激しい。いや、わかっているのだ。これは自分の記憶で、あれはセツナの記憶なのだと、判別できる。しかし、それが解決策として機能していない。
不意に、突風がミリュウの横顔を撫でた。見ると、セツナが立っていた。黒髪に紅い目の少年といえば、彼以外はいない。
「セ……ツナ?」
ミリュウは、呼吸を忘れるほどの衝撃を覚えた。意識が真っ白になる。なにもかも吹き飛んでしまった。
「いきなり飛び出すからびっくりしただろ」
彼は、手にした黒き矛を送還すると、そんなことをいってきた。漆黒の矛が無数の光の粒子となって虚空に散らばり、溶けるように消えていく中、ミリュウは彼がどうやってここに来たのかを理解した。
空間をねじ曲げ一瞬にして転移してきたのだ。カオスブリンガーの能力のひとつだが、そのためには血を必要とするはずだったが、よく見ると、彼の左手に傷口があった。みずからの体を傷つけて、ここまで転移したということになるが。
「へー……これが龍府かあ。さすがに古都といわれるだけのことはあるなあ」
彼は、ミリュウの目の前を横切ると、ベランダから龍府の町並みを一瞥して、なにごともなかったかのようにいった。気を使っているのがわかる。ミリュウの感情を探ろうとしている。なにを考え、なにを思っているのか、知ろうとしてくれている。だが、いや、だからこそ、ミリュウには、彼の行動が理解できなかった。
「なんでよ……」
「ん?」
「なんで、そこまでできるの? あたしは、なにもないのよ? なにもない、なにもかもを失ったの。そんな女にどうして、そこまで優しくできるのよ」
「優しくしているつもりもないんだけどな」
セツナがこちらを向いた。困ったような顔をしている。困らせてしまっている。苦しい。胸が締め付けられるのは、どうしてなのか。
「あたしは……!」
ミリュウは言葉に詰まった。
なにか、いいたいことがあったはずだ。伝えたい言葉があるはずだ。自分はなんだ。自分は、なにをしたのだ。なにをして、なぜ生きている。生き延びて、惨めな姿を晒しているのは、どういう理由だったのか。それを伝えたいのか。伝えて、なんになる。救いを求めているのか。慰めを欲しているのか。そうではない。そういうことではない。もっと、単純なことだ。
「無理をしなくて、いいよ」
はっと、する。
「無理に伝えようとしなくていい。いわなくたっていい。いままでだってそうだったじゃないか」
「でも、あたしは……あたしは、ここにはいられないよ」
言葉にできたのは、そんなことだ。
「どうして?」
「だってあたしは……すべてを失ってしまった。生きる目的も、生きる理由も、生きる力も、なにもかも」
ミリュウは、揺れる視界の真ん中にセツナの顔を収めた。彼と向き合えば、伝えられるかもしれない。
そんな風に思えるほど、彼女の心を占める彼の割合は大きい。