第四百四十話 目覚めの朝
『結局、戻ったのか。戦禍の只中へ』
皮肉に嗤う声と言い争う気にはなれなかった。
声の主が何なのか、彼は知っている。
偉大なる力の主だ。
黒き矛。またの名をカオスブリンガー。混沌をもたらすものという名は、戦場を掻き乱す圧倒的な力を秘めた矛には相応しいと、彼は思っている。もっとも、黒き竜は気に入ってくれなかったようだが。
その声を聞くようになったのは、ドラゴンとの戦いの最中からだ。いや、もっと前に聞いている気がする。黒き竜の声とは異なる響きを持つ声音は、とてつもなく巨大で、広大な深淵を感じさせる。夢の淵に現れた黒き竜も威圧的で、強大ではあったのだが。
どちらも、黒き矛の顕現であることに違いはないのだろう。
黒き矛の意思。
なればこそ、セツナはその皮肉も受け入れることができる。黒き矛だけが、セツナの戦いのすべてを見てきている。どんな苛烈な戦いも、血を血で洗うような激闘も、ただ雑兵を蹴散らすような戦いも、黒き矛とともに潜り抜けてきた。黒き矛がなければ、彼が戦いに打ち勝つことなどできるはずもなかった。
『それでいいさ。それがおまえのすべてだ』
「戦うことが……俺のすべて」
『おまえ自身がいったことだ。戦わなければ、だれも必要としてくれない。誰も必要としてくれなければ、この地に存在する理由などないとな』
黒き矛の声が妙に優しく感じるのは、きっとセツナの心が疲れきっているからだろう。ドラゴンとの戦いは、凄まじい精神力の消耗でもあった。身を削り、心を削るような戦闘だった。そうしなければ戦い抜くことなどできなかったし、倒せなかっただろう。
『ならば存分に戦え。おまえが望む限り、力をくれてやる』
突き放すようでいて、決して手放すことのなさそうな声に、彼は心底安堵した。黒き矛に見放されたら、それこそ、セツナの人生は終わってしまう。
「……ありがとう」
セツナは、深淵の彼方から聞こえる声に感謝すると、意識が浮上するような感覚に苛まれた。急速に昇っていく。どこへ? わかっている。現実だ。朝が来る。夢が終わる。ただそれだけのことだが、少しばかり寂しさを覚えたのは、黒き矛の声が聞こえなくなるからかもしれない。
いや、カオスブリンガーの声など、いつだって聞けるはずだ。夢の淵であろうとなかろうと、関係はない。
あのとき、その声を聞いたのは、ドラゴンとの戦いのさなかだった。
安心感とともに、彼は目覚めのときを待った。
瞼を開けると、まず、視界に差し込んでくる日光の眩しさに辟易しなければならなかった。ただの日光も、長い間夢を見ていたにセツナには強烈すぎる刺激をもたらすのだ。日差しは、ちょうど彼の顔面に突き刺さるように入り込んできている。
彼は、寝心地のいい寝台の上にいた。天井を見ている。遠い天井は木造で、木目が妙な懐かしさを感じさせる。
疲労が、残っている。それもかなりの疲れだった。仕方のないことだと諦めるしかない。ドラゴンを撃破するのにどれだけのことをしたのか。考えるだにぞっとしない。意識が拡散してしまうほどの力を引き出し、使ったのだ。結果を見れば成功に終わったものの、失敗すれば目も当てられなかっただろう。あのまま、セツナの意識が虚空に溶けてしまったかもしれない。
それは、死と同義だ。
もう二度と、あれだけの力を使うまいと彼は心に決めた。心に決めずとも、そのような事態が訪れるとは思えないが。あんなドラゴンと何度も戦うことになるわけがない。
「やっと起きた」
甘ったるくも拗ねたような女の声にびくりとした。声は、よく知っている。ミリュウ=リバイエンだろう。なぜ彼女が彼の寝床にいるのか。不思議だが、当然のようにも思える。彼女は捕虜となってからというもの、ほとんどずっとセツナの側にいた。寝るときも、起きている間も、セツナが意識を失っている間も、ずっと。
視線を声のした方向に向けると、さらに驚かなければならなかった。すぐ目の前に、ファリアの頭頂部があったからだ。どうやら彼女は寝台に突っ伏したまま、寝入っているようだった。寝息が聞こえるほどの距離。どぎまぎするのも無理はなかった。
「ファリアはね、あなたが寝ている間、ずっと見守っていたのよ。あたしがいるから仕事をしろっていうのに、聞いてくれなくてさ」
あきれたような、それでいてどこか嬉しそうなミリュウの言い方に、セツナも表情をほころばせた。素直に嬉しく思う。ファリアならば、仕事を優先するものだと思っていたのだが。
「……そうなんだ」
「いっておくけど、あたしもよ? あたしも、ずっとここにいたんだから」
「うん……ありがとう」
セツナがそちらに目を向けると、ミリュウは慌てて顔を背けたが、セツナこそ視線をそらしかけた。軍装を解いたミリュウは、はっとするほど美しい女性だったのだ。彼女が美人であるということは、最初からわかっていたことだ。戦場でまみえた時からずっと、わかっていたことなのだが。戦場を離れて見ると、改めてその魅力に気付かされるというものなのかもしれない。
赤い髪が、いつになく眩しい。
「あ、いや、勝手にいただけなんだから、感謝されるいわれもないけど……」
「でも、嬉しいよ」
「そ、そう。それならいいんだけど」
口ごもる彼女に追い打ちを掛けると、ミリュウは多少表情を崩した。彼女は赤が好きなのだろう。私服も赤一色だった。どこか派手な印象のあるミリュウにしては、大人しい服装だったが、それが普通なのかもしれない。
対して、寝台に突っ伏したままのファリアは、軍服に身を包んだままだ。ミリュウの話を信じるならば、彼女は軍の仕事をほっぽり出してここに来たということだが、着替えてもいないのだろうか。そうは見えない。少なくとも、戦塵にまみれたままではなかった。
セツナは、上体を起こすと、痛みに顔をしかめた。少し体を動かしただけなのだが、全身の筋肉が悲鳴を上げた。筋肉痛だろう。あれだけの戦いをしたのだ。当然の結果ともいえる。が、彼はその痛みを黙殺するようにして、室内を見回した。自分の置かれている状況を知るのは大事なことだ。
古めかしくも、清潔感を感じさせる部屋は、セツナひとりを寝かせておくには広すぎる空間だった。高い天井に分厚い壁。窓からは暖かな日差しが入り込んでいて、セツナの胸元に突き刺さるかのようだ。ファリアの青みがかった頭髪が、日差しの中で輝いて見える。
彼女を起こそうとは思わなかった。ファリアも、疲れきっている。彼女だけではない。ガンディア軍の一員として戦っただれもが、疲れきっているに違いない。長くも激しい戦争を終えたのだ。戦争中という緊張感から解放されたいま、すべての疲れが押し寄せてきたとしても不思議ではない。
「ここは……?」
「天輪宮紫龍殿の一郭よ」
「てんりんぐう?」
「ザルワーンの首都、龍府の中心をなす宮殿のことよ。天輪宮は五つの宮殿からなる建物で、いわば王宮のようなものなの。本来なら五竜氏族や政府高官だけしか立ち入ることの許されない領域だったわ」
ミリュウの澱みない説明は、彼女がザルワーンの人間であることを思い知らせるかのようだ。実感が沸かないことだが、彼女は間違いなくザルワーン人なのだ。ザルワーンの魔龍窟に属した凶悪な武装召喚師。セツナの側にいることのほうが不思議だ。
「さすがに詳しいな」
「当たり前でしょ。あたしを誰だと思ってるの? 五竜氏族のミリュウ様よ」
ミリュウは胸を張っていってきたが、すぐに脱力したようだった。
「……なんだか、いってて虚しいわね。五竜氏族の名も、いまや昔のものと成り果てたわ。ザルワーンはガンディアの一部になるんだもの。建国神話を背景にした五竜氏族という存在は、消えて無くなるしかないのよ」
「消えて、無くなる……」
「あたしも、消えてしまおうかしら」
ミリュウは、こちらを見て、力なく笑った。