第四十三話 ゲート・オブ・ヴァーミリオン
眩しいくらいの青空は、正午過ぎの王都の穏やかな喧騒を優しく包み込んでいた。爽やかな風が、通りを流れる人ごみの狭間を悠然と擦り抜けていく。とはいえ、正午。お昼時である。お祭り騒ぎも一時休憩といった状態であり、《市街》を歩く人々は、どこで昼食を取るのか、どんなお昼にするのかを考えている様子だった。
もっとも、ファリアにとっては通りを行き交う市民の昼食などどうでもいいことには違いない。
彼女は、見失ったセツナを探して、マルス区の通りを走り回っていた。体力は有り余っているとはいえ、市民でごった返した通りを駆け回るのは、それだけで一苦労だった。
(まったく、どこに行ったのよ!)
ファリアは、セツナの勝手な行動に憤慨していた。あの人だかりを抜け出したあと、どこか分かりやすい場所にいてくれればよかったのだ。更なる混乱を避けるならば、どこかに隠れてくれていてもよかったが、それならばそれで、こちらの状況を把握しておいて欲しいものである。
これでは、セツナを監督する立場の人間として立つ瀬がないではないか。
(それは……わたしが悪いのよね)
胸中でつぶやいて、ファリアは、うなだれた。目を離した自分も同罪なのだ。彼だけを責めることもできない。嘆息して、顔を上げる。マルス区の中央を南北に走る大通りの、ちょうど中ほどくらいだろうか。人波はそれほど多くはない。
セツナの姿は、一向に見当たらない。
(本当、どこにいるの?)
ファリアは、足を止めると、後方を振り返った。ガンディオンの北門へと至る通りを埋めるのは、見知らぬ人々の顔であり、気配であり、雑音だった。幾重にも織り成す多種多様な音色が、彼女の意識を取り巻いていく。
(セツナ……)
ファリアは、みずからの手を胸に押し当てた。不意に去来したのは、言い知れぬ不安だった。いままであったはずのものがどこかへ消え去ってしまう、そんな漠然とした不安。胸が締め付けられるのは、その不安が現実になったとき、彼女にはどうしようもないからかもしれない。
離れていくものを止める手立てなど、彼女にはない。
(でも)
ファリアは、胸に当てた手を離した。震えている。握り締め、拳を作る。
セツナを放っておくことはできない。
彼を独りにはできない。
それは、彼女の使命とは別の感情だった。同情とも違うような気がする。確信は持てない。その感情の正体は、ファリアにもわからなかった。
ただひとつわかっているのは、セツナのこれからを少しでも長く見ていたいと想っている自分がいるという事実だった。
それは、ファリアが彼の命に触れてしまったことに大きな原因があるのかもしれない。
(命……)
アズマリア=アルテマックス。
セツナがその名を口にしたことも一因ではあるのだ。彼女の弟子などと名乗ったことも、ファリアが彼から目を話せなくなった理由のひとつなのだ。
しかし、最大の要因は、ファリアがセツナをその死の淵から掬い上げる際に、彼の命に一瞬とはいえ触れてしまったからだと考えることもできた。
あのとき、彼は死に瀕していた。ランカイン=ビューネルの召喚武装による炎が、彼の命を焼き尽くそうとしていた。もはや助からない。だれもがそう想っていた。ファリアをその場に呼んだサリス=エリオンでさえ、そう判断していたのだ。
彼は死ぬ、と。
事実、その通りだった。あのとき、あの場所に、偶然にもファリアが現れなければ、セツナは息を引き取っていただろう。想像を接する苦痛の果てに、命を落としていたはずだ。それほどの重傷だった。いや、重傷などという生易しいものではなかった。大火傷の一言では済まないほどの傷を負い、辛うじて生きている、という状態だったのだ。
彼女以外のだれも、彼の命を救うことはできなかったかもしれない。
もっとも、ファリアの取った方法もそれ以外にはないという最後の手段であり、結果としてセツナは一命を取り留めたものの、彼はその未来のいくらかを失うことになったのだ。
永久に。
(だからなのかしら?)
彼女は自問したが、明確な答えが導き出せるとは到底思えなかった。いや、答えを得ることができたとしても、それは大方歪な形をしたものであるかもしれず、それにしたってそこに辿り着くまでに結構な時間がかかるだろうと判断したのだ。自分の心ほどわかりにくいものはない。
ファリアは頭を振ると、来た道を戻ろうとした。セツナもそれほど遠くまでは離れないだろう。彼とて、こちらを必要としてくれているはずだ。少なくとも、ガンディアにいる間くらいは。
と、そのとき、ファリアは、強烈な違和感を覚えた。
「これは……!」
いや、違和感とは言いがたいかもしれない。むしろ彼女にとっては慣れ親しんだ感覚であり、彼女のすべてに等しいものだった。ファリアがファリアである所以とさえ言えた。
この世ならざる気配の発現。
つまりは、武装召喚術。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その違和感が一体なんであるかなど、ルウファにはわかりきったことだった。
(武装召喚? 《市街》のど真ん中で?)
驚きながらも、前方に感じる気配は武装召喚術特有のものである事実は疑いようがなく、彼は、怪訝な表情になった。彼の向かう先にはセツナ=カミヤがいるはずなのだが、彼がむやみやたらに武装召喚術を行使するとは考えにくい。もちろん、それはルウファの憶測に過ぎないのだが、そもそも武装召喚師が街中で召喚武装を振り回すこと自体がありえないのだ。《大陸召喚師協会》に加入していようといまいと、そんなことで無数の敵を生み出すような馬鹿げた真似は、だれであれ、しようとも想わないものだ。
武装召喚術を身に付けるまでに費やしたであろう膨大な時間と多大な苦労が、水泡と化すことになりかねない。
ましてやここはガンディアの王都である。眠れる獅子の都である。ガンディアの中心である以上、その軍事力も相当なものなのだ。くだらない理由で武装召喚術を行使し、ガンディアの精鋭と一線交えるなど――。
(それも武装によるな~……)
ルウファは、ガンディアの実情を思い出して、脱力感を禁じえなかった。力不足極まりない兵士たちなど、強大な力を秘めた召喚武装の前では塵芥に等しくならざるを得ない。とはいえ、それほどの力を持つ召喚武装もそうそうあるはずもなく、杞憂には違いなかったが。
そこまで考えて、彼は、走る速度を上げた。
(これは……)
彼が感じたのは、全身の肌が粟立つほどの寒気だった。神経を逆撫でにするかのような波長。それは、疑いようもなく、本来この世界に在らざるものの気配だった。彼がその半生で幾度となく戦うことになった異形の存在。まさしく化け物というに相応しい人外の生物。人類の天敵にして、忌むべき種族。
(皇魔!?)
驚きとともに、ルウファは、術式の構築を始めた。口早に呪文を紡ぐ。それは古代言語の羅列である。複雑怪奇な無数の言葉を特定の式に則って口ずさむことにより、自身の生命力を音に乗せて体外に放出するのだ。体の内側、その遥か深奥から不可思議な言葉によって放出された生命の力は、古代言語の意味する通りに虚空へ散らばり、普通の人間には見えない図形を構成していく。神秘的な紋様だった。幾重もの円と線、無数の文字が織り成すのは精緻な魔方陣である。
(なにが起きてるんだ……?)
彼は、術式の構築に集中する一方で、周囲への注意も怠らなかった。狭い路地だ。人影などほとんどなく、静寂に包まれた風景は、大通りの喧騒からは考えられないほどのものだった。しかし、歩みを進めるたびに、彼の中の核心は大きくなっていった。
皇魔の放つ敵意が、強く感じられるのだ。そしてそれは、彼に危機感を抱かせるには十分だった。
王都ガンディオンに皇魔が現れるなど、前代未聞の出来事だった。それが事実であれば、間違いなくガンディア始まって以来のスキャンダルとして知れ渡り、国民の失望を買うだろう。王都である。ガンディアの象徴であり、中心なのだ。何万もの民が平穏と安逸を貪るための都であり、そのために堅固な城壁が築かれているのだ。皇魔を始めとする外敵が、王都の土を踏まないように。
(どうやって、この中に?)
ルウファは、疑問を解決させるには、この先の現場に急行するしかないことを認めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
《門》の召喚。
それは、セツナにも予期できた事態には違いなかった。だからといって、アズマリア=アルテマックスが武装召喚術を行使するのを止めることはできなかった。ファリアの言っていた術式とやらを編んでいる様子さえなかったのだ。
《門》。
セツナがこの世界に来るきっかけとなったあの荘厳な《門》とは、形状からして異なる代物だった。全長五、六メートルくらいはあるだろうか。全体に髑髏や骨をあしらった禍々しい形状であり、煮え滾るマグマのような門扉が、それ自体恐るべき波動を放っていた。猛烈な寒気が、セツナの意識を急激に冷やしていく。
「なんの真似だ?」
やっとの思いで口を開いたセツナは、たったそれだけを問うのに精一杯だった。なにもかも唐突だったのだ。セツナに逢うことが目的のひとつだと言って、すぐの出来事だった。肉体は無論、意識の反応も遅れていた。なによりも驚きが、彼の思考を鈍らせた。
《門》を召喚した女は、いつになく穏やかなまなざしをこちらに向けていた。それが、ことさらに理解できないのだ。威圧するでもなく、ただ平然とこちらを見遣るアズマリアのことがまったくもってわからず、故にセツナは、不安と猜疑のまなざしを向けるしかないのだ。
「試練だよ」
彼女の手が、その背後の門扉へと伸ばされる。漆黒の外套から伸びた腕は透けるほどに白かった。やがて、細くしなやかな指先が、紅蓮の門扉に触れた。
「おまえがこの世界で生きていくに値するかどうか。おまえが力を振るうに値するかどうか。おまえのためにわたしが時間を割くだけの価値があるのかどうか――それらを見極めるための」
「ふざけるな!」
セツナの怒声は、アズマリアの表情を変えることさえかなわなかった。涼しげなまなざしには、ささやかな変化すら生まれない。こちらの意見など端から聞いてはいないのだ。彼女にとっては当然のことなのかもしれないが、その余裕に満ちた態度が、セツナの感情をことさらに刺激していた。といって激情に身を任せられる状況ではない現実を認識してもいて、セツナは、苛立ちを隠せなかった。
アズマリアの黄金の瞳が、妖しく輝いている。
「さあ、始めよう。百鬼演武の儀――見事生還した暁には、おまえにわたしの目的を教えてあげるよ。おまえを召喚した本当の理由も、クオン=カミヤのことも」
彼女の一方的な台詞の中にあの少年の名前があったことに、そして、彼と自分の関係を知っているかのような口振りに、セツナは、驚愕せざるを得なかった。それはセツナの召喚が仕組まれたものであるという可能性を示唆するとともに、やはり《白き盾の》クオン=カミヤは紛れもなく彼の知人であるあの少年のことだという事実だった。
この世界に召喚されて以来最大の衝撃の中で、セツナは、アズマリアの手が紅蓮の門扉を押し開くのを見ていた。燃え盛る黒い炎の如き扉が、音も立てずにゆっくりと開いていく。門の向こう側に覗いたのは漆黒の闇であり、無数の光点だった。どす黒い殺意を孕む、暗く濁った紅い光。それらは、セツナが最初に森の中で見た化け物どもの眼光に似ていた。皇魔。幾多の囁きが聞こえた。ざわめいている。化け物どもが、獲物を前にして舌なめずりでもしているのかもしれない。
門が、完全に開いた。
汚濁の如き殺気の奔流が、セツナの意識を包み込んだ。