第四百三十八話 帰陣のこと
ガンディア軍ログナー方面軍第三軍団長エイン=ラジャールが、王立親衛隊《獅子の尾》隊長セツナ・ゼノン=カミヤと傭兵集団《白き盾》団長クオン=カミヤの両名と、ヴリディア砦跡で合流し、龍府のガンディア本陣に帰投したのは、日付が二十八日に変わった真夜中のことだった。
龍府の南門はエイン隊の帰投を待つためだけに開け放たれ、篝火が大袈裟なまでに焚かれており、エインたちは龍府が近づくに連れて安堵を覚えたものだった。広漠とした夜の闇を照らすには、魔晶灯よりも篝火のほうがよかった。
南門を潜り抜けるとき、衛兵たちは敬礼してエイン隊を迎え入れた。エインが軍団長だからというのもあるが、エイン隊が率いる馬車の中には、この度の戦闘の殊勲者であるといっても過言ではないふたりが乗っていたのだ。ガンディア軍人ならば、最敬礼で持って迎えようとするのが当然だろう。たとえ、セツナの待遇に疑問を抱いていたり、その存在に恐怖を覚えていたとしても、勝利に貢献した事実を歪めたりはしないのではないか。
そんなことを考えながら門を抜けると、古都の旧式然とした景色が広がっているのだが、真夜中ではその美しさがわかるはずもなかった。それに、エインたちは任務の真っ只中であり、古都の景観に心を奪われてはいけないのだ。
真夜中の龍府は、ちょっとした喧騒に包まれていた。ザルワーンの役人や軍人、あるいは龍府の住人、ガンディア軍人たちが古都のあちこちに見受けられた。なにやら話し合っているものもいれば、口論しているものもいる。龍府の軍人、役人が龍府の住人に詰め寄られているらしい。少し前ならば見られなかった光景に違いない。少し前、ザルワーンが健在であったころならば、ザルワーンの民間人が軍人や役人に暴言を吐くことなどありえなかった。
エイン=ラジャールはログナー人だが、ログナーは五年もの間、ザルワーンの属国に甘んじていた歴史がある。ザルワーンのやり方というものを嫌というほど見てきたのだ。ログナー人がザルワーンを激しく憎むのは、ザルワーン人のログナー人に対する仕打ちによるところが大きい。
ただ、支配者と被支配者という関係ならば良かった。ログナーはザルワーンとの戦いに敗れたのだ。支配されるのは、必然だった。ザルワーンのように国が滅びるまで戦い抜くという選択肢もあっただろうが、アスタル=ラナディースらはそれを望まなかった。結果、ログナー国民は、五年もの長期に渡ってザルワーンの横暴に耐え忍ばねばならなかったが、国が滅び去るよりはましだったのだろう。
徹底抗戦し、ログナーが滅びたとしても、ログナー国民に待っているのは、ザルワーンによる支配という未来だ。同じ、いや、より過酷な支配が待っていたことだろう。あのときのログナーの判断は間違いではなかった。
軍人や役人が民間人に対してふんぞり返っていられたのは、ザルワーン政府という後ろ盾があったからだ。この国の支配階級たる五竜氏族によって運営される政府という強力な後ろ盾が、軍人や役人を居丈高にしていた。
それもこれも、支配階級と非支配階級という二分される環境が原因だったのだ。軍人であれ、役人であれ、非支配階級の出身ならば、五竜氏族の前では無力に等しいのがザルワーンという国の基本構造だった。どれだけ上り詰めようとも、出自を変えることはできない。権力を得ても、五竜氏族とそれ以外というザルワーンの根本原理の前では塵に等しい。役人が民間人に対して高圧的になるのもわからなくはなかった。
その基本構造が、一瞬にして崩れた。
ガンディアがザルワーンを下したことで、五竜氏族の絶対性は潰えたといってもいいのではないか。
「荒れるかな」
エインが心配したのは、五竜氏族の支配から解放されたザルワーン人が、ガンディアを新たな支配者として迎え入れてくれるものだろうか、ということだった。杞憂に終わればいいのだが、抑圧から解放された人間というのはなにをしでかすのかわからないものだ。
(ログナーはすぐに受け入れたけど……)
ささやかな喧騒に包まれた古都の街路を進みながら考えるのは、故国のことだ。数カ月前まで存在したものの、いまとなっては歴史に埋没するのを待つだけとなった国。ログナー。長い歴史を持つ国ではある。が、それをいえば、小国家群のほとんどの国がそうであろう。大陸統一国家の崩壊に端を発する大割拠の最中に生まれた国の多くは、いまでもこの大陸に歴史を刻み続けている。ヴァシュタリア、ザイオン帝国、神聖ディール王国ら三大勢力の原点もそこにある。
もっとも、ログナーは大割拠を起源とする国ではないのだが。
ログナーがガンディアに敗れ、長い歴史に幕を閉じたのは、七月、つまり二ヶ月前のことだ。戦後、アーレス=ログナーがレコンダールに篭もり、徹底抗戦の意思を示したものの、セツナ=カミヤによって討伐された。それによって、ガンディアのログナー平定が加速したというのは、間違いない。たとえログナー王家の関係者であっても、刃向かうものには容赦しないというガンディアの姿勢は正しいといっていい。甘やかせばつけあがるのが人間というものだ。
ログナーは、それでよかった。
だが、ザルワーンはどうだろう。
考えてはみたものの、手間取るとすれば龍府の住人の人心を掌握することくらいとも思えた。ガンディア軍は、龍府に辿り着くまでに各地の都市を制圧してきており、それぞれの都市をガンディア色に染めつつあった。ナグラシア、バハンダール、ゼオル、マルウェール――ザルワーンの主立った都市は、既にガンディアの支配下にあり、ガンディアの都市として機能し始めているはずだ。ならば、問題が起きるとしても、龍府か、ゼオルの隣の都市であるスルークくらいのものだろう。
あとは、ザルワーン西端の都市ルベンが、手付かずで残っている。が、たかだか千人足らずの部隊が駐屯する都市だ。軍を差し向ければ、抵抗すらせずに降伏してくるのではないか。いや、既にイシカかメレドの軍によって制圧されているかもしれない。
その可能性も捨てきれないのは、東部の都市メリス・エリスや南東のスマアダが、ザルワーンの隣国ジベルによって制圧されているからだ。ガンディアがザルワーンとの全面戦争に興じている隙を突いたジベルのやり方は狡賢いが、上手いというべきだ。ザルワーンがガンディアに戦力を集中させている間に戦力を投入して、都市を掠め取る。極めて効率的な方法だ。ジベルの王は冴えない人物らしいが、軍事を取り仕切るハーマイン=セクトルという男はその限りではないのだろう。
ガンディアは、ザルワーンの領土を得たことで、ジベルと隣り合うことになった。戦うべき敵となるか、それとも、道を共にする間柄となるかはいまのところ不明瞭だ。しかし、ジベルがガンディア軍に攻撃を仕掛けてこなかったところを見ると、ジベルの思惑の一端が伺えそうだ。
彼は頭を振った。ガンディアの戦略を考えるのは、彼の役目ではない。もっと上の地位に立つ人間の考えることだ。王やその側近たち、あるいは大将軍と左右将軍。軍団長に過ぎない彼には、遠い国の出来事のようなものだ。
いつか上り詰め、ガンディア軍の全権を握る――というのも面白いかもしれないが、いまは別のことで頭がいっぱいだった。馬上、背後を振り返れば、一台の馬車が彼の馬についてきているのがわかる。荷台には、セツナとクオンが乗っている。疲れきったふたりは、荷台で爆睡していることだろう。ヴリディア砦跡で発見した時には寝入っていたし、話しかけてもまったく反応しなかったのだ。仕方なく、断りもなく馬車に載せたのだが、こればかりはどうしようもなかった。馬車に載せるためだけに起こすのは、ふたりに悪い。
ふたりは、ドラゴンとの死闘において、精神を消耗し尽くしたのだ。眠れるだけ寝かせてあげたいと思うのが人情というものだろう。
戦いは終わったのだ。