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第四百三十六話 生還

「それもそうか」

「そこは否定してくれないと困ります」

「なにが困るのかな?」

「まるでわたくしがじゃじゃ馬のようではありませんか」

 憤然といってきたリノンクレアの顔に子供の頃の面影が重なる。“うつけ”のレオンガンドをひたすらに信じ続けた彼女は、みずから剣を取ることで、彼の奮起を促してきたものだった。しかし、レオンガンドは彼女のあとに続くことは出来なかった。

 しなかったのではなく、できなかったのだ。

 彼は、暗愚でなければならなかった。シウスクラウドが病床にあった当時、近隣諸国の目を欺き続けることが重要だった。英傑の誉れ高い王の命数が尽きようというときに周辺国が気にするのは、つぎの王のことが。シウスクラウドの才を受け継いだ賢王ならば、早々に潰すしかないと判断するだろうが、暗愚ならばどうか。

 わざわざ戦争を起こして無駄な犠牲を払うよりも、自滅するのを待つという判断を下すのではないか。そして、その思惑は上手く働いた。シウスクラウドが病に倒れてから没するまでの二十年間、ガンディアはその国土のほとんどを失わなかったのだ。

 だからこそ、ガンディアはザルワーンと戦うことができた。ザルワーンと戦い、下すことが出来たのは、その二十年間、国力を維持しつづけることが出来たからに他ならない。有能な人材の流出は止められなかったが、最低限の戦力は保持できた。アルガザード=バルガザール、デイオン=ホークロウ、ジル=バラム、ガナン=デックス――戦うに足るだけの武将は揃っていた。そして、ログナーを併呑したことで、ログナーの名将アスタル=ラナディースを配下に迎えられたのは大きかった。

 状況は変わった。

 彼は“うつけ”をやめたものの、剣を手に取る必要はなくなった。リノンクレアが望んだ王の姿はそこにはないのかもしれないが、それは仕方のないことだ。レオンガンドは、シウスクラウドとは違う。英雄や豪傑ではない。権力を持った、ただの一個人に過ぎない。

 レオンガンドは、リノンクレアの期待に答えられない自分を少しばかり不甲斐なく想ったものの、彼女と自分の理想は別のものだと考えれば、当然のことでもあるのだ。彼女には彼女の理想があり、レオンガンドにはレオンガンドの理想がある。それが重なり合わなかった、ただそれだけのことだ。悲しむようなことではない。

「違うのか?」

 彼がハルベルクを見ると、同盟国の王子は、涼やかに微笑んだ。

「まったく、その通りです」

「ハルベルク様?」

「まあ、リノン様はじゃじゃ馬だったのですね」

「ナージュ様まで!」

 リノンクレアが顔を真赤にして、ナージュに詰め寄る素振りを見せた。ナージュはまるで鬼でも恐れるように玉座の後ろに隠れると、ハルベルクがリノンクレアを宥める。リノンクレアは心外だといわんばかりにそっぽを向き、周囲の笑いを誘った。

 ナージュが戯れに付き合ってくれる人柄なのはわかっていたことだが、こうも簡単にガンディアの気風に馴染むとは思いもよらなかった。悪い傾向ではない。むしろ、良い兆候だろう。彼女は、后に迎える女性だった。

 政略結婚である。レマニフラとガンディアの同盟を結ぶための婚約であり、紐帯を強固にするための結婚だった。王侯貴族の人生などは国のための手段であり、道具だ。レオンガンドの人生もガンディアのために費やされている。リノンクレアはガンディアとルシオンの絆を深めるために嫁ぎ、ハルベルクが彼女を受け入れたのも政略だ。もっとも、ふたりは相思相愛であり、その仲睦まじさはだれもが羨むほどのものだった。

 が、すべての政略結婚がそう上手くいくものでもない。国のため、家のために仕方なく結婚するものも少なくはない。そして、夫婦関係が上手くいかないからといって、夫婦であることをやめるということはできない。その瞬間、政略が破綻する。もちろん、離婚したから即険悪になるというものでもあるまいが。

 ナージュは、どうだろう。少なくとも彼女は、レマニフラにいるよりは外にいる方がましだと考えていたようだ。そして、レオンガンドを気に入ってくれたらしい。とはいえ、自由闊達なガンディアの気風が合わなければ、彼女にとっては苦痛以外のなにものでもなかったはずだ。

 いくら国のためとはいえ、彼女に苦痛を感じさせたくはなかった。

「さて、そろそろ、ルシオンの王子夫婦がわたしを探していた理由を伺いたいのだが」

「ああ、そうでした。とても大切なことを報告しなければならなかったのです」

「とても大切なことか」

「ナーレス殿の無事が確認され――」

「なんだと!」

 レオンガンドは、驚愕のあまり玉座から身を乗り出し、そのまま下段に転げ落ちそうになった。なんとか踏みとどまり、玉座に腰を落ち着けたものの、続くハルベルクの報告も耳に入ってこなかった。

「心身とも無事ではあるようですが、健康状態はとても良好とはいえず――」

(ナーレスが生きて……いた……!)

 死んだとばかり思っていた。

 生きているはずがないと思い込んでいた。

 彼はザルワーンを内部から破壊するための工作員だったのだ。露見すれば、死しかない。殺されるか、殺されずとも、ガンディアの情報を守り抜くには自害する以外はなかった。ナーレスが拘束され、彼の策謀のすべてが明らかになったと考えられたからこそ、レオンガンドはザルワーン侵攻に踏み切ったのだ。

 兵力差は圧倒的だったが、それでも踏み切らざるを得なかった。いま決断しなければ、ナーレスの五年に渡る策謀の数々が水疱と化してしまう。ザルワーンの弱体化が解かれ、強国に返り咲いてしまう。そうなれば、手の打ちようがなくなるのだ。ガンディアが国力をつけ、対等な戦力を得る頃には、ザルワーンは更に強大な国に成長していることだろう。だからこそ、あのときだったのだ。ナーレスが拘束された直後。ナーレスの猛毒が消え去る前に侵攻しなければならなかった。

 ナーレスを救うための侵攻ではない。彼が死ぬのは、工作が露見し、拘束されたときに決定された運命だった。

 工作員を生かす道理はないのだ。

 軍師として将来を嘱望されながら、その力を存分に発揮することなく死んでしまった彼のことを想うと、レオンガンドはいてもたってもいられなくなったものだ。ナーレスはいわばシウスクラウドの弟子であり、レオンガンドの師でもあった。また、兄のように慕ってもいた。人格者であり、慈愛に満ちた彼を慕う人間は多かった。貴族、軍人、平民のだれからも愛されたのは、偏に彼の稀有な人柄によるところが大きいのだろう。

 故に、五年前、彼がガンディアを離れた時、レオンガンドを責める声が地に満ちた。それも計算のうちではあったのだが。

 レオンガンドは、当時、“うつけ”を演じなければならなかったのだ。

「そうか……生きていたか。ナーレスが、生きて……」

 これ程嬉しいことはなかった。

 視界が滲む。

 ハルベルクやリノンクレアの顔がぼやけて見えて仕方がなかった。


 ナーレス=ラグナホルンを救出したのは、リューグとミリュウだった。ふたりは、ナーレスの妻メリルとともに天輪宮の地下深くにある魔龍窟に赴き、その最深部の小部屋から異臭が漂っていることに気づいたという。それは凄まじいばかりの汚物の臭いであり、ミリュウたちは、臭いの発生源である小部屋になにかがあると踏んだ。小部屋に真っ先に飛び込んだメリルにより、瀕死といっても過言ではないような状態のナーレスが部屋の中から発見された。ろくに食事も与えられていなかったどころか、小部屋の劣悪な環境は、とても人間が生活できるようなものではなかった。体力を奪われ、精神を擦り減らし、それでも彼は生きていた。

 その直後、兵士がひとり、ナーレスの様子を見に来たらしく、ミリュウが彼から事のあらましを聞き出したというのだが、それもまた酷いものだった。

 ザルワーンに対する破壊工作が露見し、拘束されたナーレスは、当初、通常の牢に入れられていた。それはミリュウやメリルの証言からも、ほかの文官、軍人の証言からも間違いない。しかし、メリルが秘密裏にナーレスと逢瀬を重ねていることを知ったミレルバスの命令によって、別の場所に幽閉される手筈になったという。そのとき、彼の幽閉場所を定めたのは、マクシス=クロンという天将であるらしい。

 マクシス=クロンは、ミレルバスの命令以上の待遇をもってナーレスに報いたのだろう。その判断がマクシス=クロンの独断であることは、ナーレスの幽閉先が彼の一部の部下しか知らなかったことからもわかる。

 ミレルバスにしてみれば、愛娘のメリルがザルワーンの敵だということが判明したはずのナーレスを慕っていることはともかく、密会を許すことはできなかったはずだ。だからこその牢獄の移動であったようなのだが、マクシス=クロンはそれを曲解したのか、どうか。

 マクシス=クロンがナーレス=ラグナホルンを妬んでいるのは確かだったようだが、単純に裏切りの報復であったとしてもおかしくはない。秘密裏に殺されたとしても不思議ではなかったし、実際、生きたまま発見されたのは幸運以外の何物でもなかったのだ。

 ナーレスの様子を見に来たというマクシス=クロンの部下は、この期に及んでい――いや、だからこそ――ザルワーンを破滅に導いた張本人である彼を殺そうとしていた。

 ミリュウたちが幽閉場所に辿り着くのが少しでも遅れていれば、彼女らが対面していたのは、ナーレスの死体だったに違いない。

「よくぞ、無事で……!」

 天輪宮の一室でナーレスと対面したレオンガンドは、そのあまりに変わり果てた姿に声も出なかった。まるで骨と皮だけといっても過言ではないような姿であり、ろくに食事も与えられていなかったことがわかる。髪も髭も伸び放題で、眼窩は落ち窪み、目から生気も失われていた。十数日に及ぶ長期間、劣悪な環境にその身を置いていたのだ。痩せ細りもするだろうし、生きる気力も失うだろう。彼は、自分が生き抜けるとは思いもしていなかったのではないか。

 それでも、彼は生き抜いた。わずかばかりの食事で生を繋ぎ、悪臭漂う空間でもなんとか生きてきたのだ。

 臭いは、完全には取りきれてはいなかった。しかし、だからなんだというのか。レオンガンドは、寝台に寝かされた男の手を取ると、彼の顔を見た。いまのナーレスに以前の面影を見出すのは難しい。以前といっても、五年以上前の姿なのだ。五年も経てば体格が変わっていてもおかしくはないのだが、今回はそういう問題ではない。

 憔悴しきった男は、いまは眠りについている。メリルたちが発見した時も気を失っていたようだが、ここに運んでくるまでに何度か言葉をかわすことはできたという。

 本当に、ただ幽閉されていただけなのだろうか。

 ふと、そんなことを考える。ミリュウが尋問したマクシス=クロンの部下は、食事係であり、それ以外のことは知らないといったそうだが、どうもそれだけとは考えにくい。とはいえ、ナーレスの体には暴行や拷問の後は発見されなかったといい、杞憂かもしれない。

 ミレルバスは、ナーレスの手を寝台にそっと置くと、寝台の隣の椅子に座っている女性に目を向けた。少女といってもいい外見であり、実年齢も少女に相応しいのだが、女性と呼ぶのが相応しい人物であろう。彼女がナーレスを見つめる目は、真剣そのものだ。名はメリル=ラグナホルン。ミレルバス=ライバーンの娘であり、ナーレスの妻である。

「メリルさん」

「は、はい」

「彼のことを頼みます。彼はガンディアにとっても、わたしにとっても大事な方ですので。なにか必要な物があれば、いつでもいってください」

 そういって、レオンガンドはその部屋を辞した。ナーレスは眠っていたのだ。無理に起こす必要はなかった。

 あとのことは、彼女と軍医に任せておけばいい。王が余計な口出しをして容態を悪化させるなど、あってはならないことだ。目下の戦いは終わったのだ。休養する時間はたっぷりとある。軍師の存在はいつだって必要では有るのだが、いまは療養を優先させるべきだった。


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