第四百三十五話 龍王の座に在りて
ザルワーン戦争における戦闘の多くは、レオンガンドと関係のないところで行われたものだ。
ナグラシア強襲から始まる一連の戦いの勝敗に、彼がわずかでも寄与したことはない。ロンギ川会戦でもそうだったし、征竜野の戦いでもそうだった。彼は後方にあり、戦況に耳を澄ませ、戦場に目を凝らすだけだった。指揮は大将軍以下に任せてある。わざわざ口を出すこともない。
それは、彼自身が無力だからではない。人並み以上には戦える。戦闘訓練も日々欠かさないし、体力にだって自信がないわけではない。それでも、極力戦わない。極力、みずから剣を振るおうとはしない。前線に出ようとも思わない。王たるもの、臆病にも後方に篭もっていろ、というのが、彼の師とでもいうべきナーレスの教えでもあったからだ。
彼の教えを破ったのは、一度だけだ。バルサー要塞を奪還するための戦いにおいては、彼は前線に飛び出す覚悟があった。セツナがどれほどの働きを見せるのかわからなかったこともあるが、そうでもして鼓舞しなければ、弱兵たるガンディアの兵士たちに勝利を掴ませるのは難しいという判断もあった。
バルサー要塞の奪還はなり、それ以来、彼は後方に留まることに終始している。皇魔と戦闘したこともあるが、ああいう無茶ができるのも、アーリアがいるからこそだ。彼女の守護がなければ、無謀な真似はしなかっただろう。
いま思い返せば、ログナーとの戦いも、いわばザルワーンとの戦いだった。ログナーはザルワーンの属国であり、ログナーがバルサー要塞を執拗に攻め立てたのは、ザルワーンの南進政策によるところが大きかったのだ。
バルサー要塞は、ガンディア攻略の橋頭堡となりえた。しかし、ログナーがバルサー要塞を制圧してからというもの、ガンディア攻略を諦めたかのように沈黙を保っていたのは、ナーレスの魔手がログナーの政情を不安定にさせたからに他ならない。
「その長い戦いも今日で終わり、ですか」
「ああ、そうだ。終わりだ。いや、終わったのだ。ミレルバスが倒れ、ザルワーンが全面降伏したいま、ガンディアの勝利で終わった」
レオンガンドは、隣に立つナージュを仰ぎ見て、微笑んだ。緊張が、少しずつ解けていくのがわかる。
二十年来の戦いが終わった。
シウスクラウドが病に倒れた原因がザルワーンの手によるものだと判明したのもごく最近のことではあるのだが、戦いが始まったのが、二十年前のマーシアスとの会食だったのは間違いない。
二十年。
レオンガンドは成長し、王位を継いだ。ガンディアの王となり、ログナーを降し、ザルワーンへと攻め込んだ。そして、勝利を掴んだ。そのために多くの犠牲を払ったが、なにかを得るということはそういうことだろう。
対価を払わねば、前に進むことなどままならない。
「父は、喜んでくれているかな」
「きっと……お喜びになられておられますわ」
「そうだといいが」
彼は、小さく息を吐くと、視線を眼下に戻した。姿勢を正した三人の侍女は、ただそれだけに絵になった。宮殿の風景というよりは、戦場の風景にほかならないが、鎧を着込んだ美女というのも悪いものではない。
考えるのは、シウスクラウドのことだ。ガンディアの先の王であり、レオンガンドにとっては越えるべき壁として立ちはだかる偉大なる父だ。二十年前、病に倒れるまでは、稀代の英傑として名を知られた人物であり、その勇名は遠く帝国まで鳴り響いたと噂されるが、それは誇張にもほどがあるというものだ。
いくらザイオン帝国の情報網が凄まじくとも、小国家群の、とりわけ弱小国の王に注目するとは思いがたい。子供のころはそういう風聞を信じ、興奮したものだが、いまとなればそれがただの作り話に過ぎないということもわかる。もちろん、全盛期のシウスクラウドには、そのつくり話を信じさせてしまうような凄みがあり、だからこそ、ガンディア国民も彼に心服し、“うつけ”を演じたレオンガンドに失望したのだろうが。
そして、シウスクラウドに英雄の風格があったからこそ、マーシアスは毒を用いたのだろう。龍府に招きれながら、暗殺を試みなかったのは、評判を気にしてのことだろうか。それとも、力に訴えては敗北を認めるようなものだとでも思ったのだろうか。病毒によって時間をかけて殺すのも暗殺と同じだが、どちらのほうが嫌らしいかというと、病毒のほうだろう。
暗殺ならば一瞬だ。しかし、龍府でシウスクラウドが死ねば、どう取り繕おうとも暗殺の疑いを消すことはできない。そうなれば、ザルワーンの信頼も評判も地に落ちる。マーシアスがその程度のことを気にするような人物とも思えないが、正々堂々と龍府に乗り込んできたシウスクラウドを暗殺できるような人物にも見えなかった。
マーシアスの超然とした目を、覚えている。その視線を涼しい顔で受け流すシウスクラウドの横顔も、だ。
(自分は、どちらだろうな)
レオンガンドは、そんなことを思った。シウスクラウドのように超者に対して涼しい顔を浮かべられるのか、それとも、マーシアスのように超然と振舞っているのか。
不意に、主天の間の開放したままの扉の向こうから近づいてくる足音に気づいて、彼は視線を上げた。泰霊殿の回廊に反響する靴音は複数あったが、その一糸乱れぬ足音から、軍人たちだということがわかる。レオンガンドたちを探し回っていて、ここに辿り着いたということかもしれない。
そういえば、彼はだれにもなにもいわず、ここに来ていた。ゼフィルたち側近にせよ、大将軍たちにせよ、皆戦後処理に忙殺されていたのだ。彼が一言声をかけるのも躊躇われるほどに。もちろん、彼とて暇ではない。暇ではないが、彼が政務に忙殺されることになるのは、もう少し後のことだ。ゼフィルらの報告書に目を通すには、彼らが一仕事を終えてからでなければならない。
「義兄上、ここにおられましたか」
主天の間に入ってきた一行のうち、先頭の人物がこちらを見つけるなり、そういって声をかけてきた。彼のことを義兄上と慕ってくれる人物などひとりしかいない上、姿が見えている以上、間違うはずもない。ハルベルク・レウス=ルシオン。ルシオンの王子であり、レオンガンドの妹にしてガンディアの王女でもあったリノンクレアの夫だ。そのリノンクレアは、彼のすぐ後ろに控えている。白聖騎士隊というルシオン有数の騎士隊を率いる“戦う王子妃”は、レオンガンドとふたりきりのときとは違い、しおらしささえ漂わせるほどに大人しい。王子夫妻と行動をともにしているのは、女性騎士ばかりが五名。おそらく白聖騎士隊の精鋭なのだろう。つまり、精鋭中の精鋭ということになる。余程のことがない限り、王子夫妻の身に危険が及ぶことはなさそうだった。どの騎士も精悍な顔つきをしている。死線を潜り抜けてきたのは想像に難くない。
「やあ、ハルにリノン。こんなところで油を売っていてもいいのかな?」
「戦後処理を部下に任せて、婚約者と現を抜かしておられる陛下にいわれたくはないですが」
「ははは、これは辛辣だ」
レオンガンドは、リノンクレアの言い分に笑みをこぼした。隣でナージュも笑っているが、それはリノンクレアの声音に棘が含まれていなかったからだろう。戯れに過ぎない。戦争が終わって、緊張が解けてきている。ザルワーンに乗り込んで以来、このように和やかな気分になれたのは、はじめてなのではないか。もちろん、ナージュの存在がレオンガンドの緊張を解したことは何度となくあったが、全体の空気が和らいでいるのは、戦争が終わったからに違いない。
もう、命の取り合いをする必要がなくなったのだ。緊張が解けるのも無理はない。むしろ、当然だ。そうでなくてはならない。緊張のあとには緩和がなければならないものだ。
一方で、ハルベルクは顔を強張らせているのだが。
「リノン、言い過ぎではないか?」
「いや、よい。同盟国の王子妃である以前に妹だからな。それくらいの戯れは許されるさ」
「ですが……どんなときでも礼儀は大事かと」
ハルベルクらしい生真面目な言動に、レオンガンドは戯れたくなった。遊びを欲するのは、戦争中には出来なかったことだからかもしれない。戦いの間、彼は籠の中の鳥も同じだった。自由気ままに振る舞うことなど許されない。それは、生まれながらにしての宿命でも有るのだが、平時ならば、遊びがある。遊びは、緊張の連続の中で硬直していく心を溶かすためにも必要な物だった。
「ならば、義兄上、というのも注意せざるを得ないな。貴公にとっては、妻の兄であるが、同盟国の君主であるわたしと、同盟国の王子である貴公とでは、そうならざるを得まい?」
冷酷ぶって告げると、主天の間が水を打ったように静かになった。一瞬、緊張感が満ちる。リノンクレアの表情に驚きがあり、ハルベルクの目にも動揺が浮かんでいるように見えた。距離は決して遠くはない。王子夫妻は、段差のすぐ近くまで歩み寄ってきていた。
「冗談だよ。気を悪くしたなら済まない」
レオンガンドがつぶやくと、リノンクレアがいたずらっぽい笑みを作った。
「まさか。あの程度で気を悪くするようなら、わたくしを妻に迎えなどしていませんわ」
毅然たる態度は、彼女がひとりの人間として立派に成長したことを明示していた。