第四百三十四話 龍の棲んでいた都
レオンガンドが龍府に入ったのは、東の空が真っ赤に染まる頃合いだった。
二十年前に一度見たきりだった龍府の南門を潜り抜けると、あの頃とほとんど変わっていない古都の美しい風景が彼の視界を埋めた。
日が沈む寸前の眩いばかりの紅が、古都の町並みを格別なものにしており、彼もナージュも、彼女の侍女たちも息を呑んで、しばし時が立つのを忘れたほどだった。
レオンガンドたちは天輪宮泰霊殿に直行したのは言うまでもない。そこで、国主に全権を移譲されたという政府高官たちと話し合いの場が設けられた。もちろん、完全な勝利を果たしたガンディアは強気の姿勢だったが、態々強気に出る必要さえなかった。
ザルワーンは決戦に負けた時のことを想定していたらしい。ミレルバスが勝利だけを想定して戦いに臨んだわけではないということがわかり、レオンガンドはなぜか安堵を覚えた。単独で本陣に辿り着いたミレルバスが、ただの妄想家ではなかったことが嬉しかったのかもしれない。
ザルワーン側はガンディアの勝利を認め(当然のことだが)、全面降伏を伝えてきた。レオンガンドらはそれを了承。これにより、ザルワーンの版図のほとんどがガンディアのものとなった。大国と仰いできたザルワーンが地上から消滅し、ガンディアが大国へとなるのだ。歴史的な出来事ではあるのだが、いちいち喜んでばかりもいられないのも事実だった。
ガンディア、ザルワーン双方に多数の戦死者が出た。民間からの死傷者は皆無に近いが、軍に携わる人間は数え切れないほど死んでいる。軽傷、重傷を含めると、それこそ膨大な数になるだろう。それらの情報が上がってくるのは少しばかり先の話になるだろうが、ザルワーンが誇った兵力のすべてをガンディアのものにできないというのは悔しいところだ。しかし、戦争によって勝ち取るということはそういうことだろうし、戦争前よりも戦力が増加するのは間違いない。
ザルワーンは全面降伏により、ガンディアのものとなる。国民も、軍人も、貴族も、ガンディアに属することになるのだ。ガンディア人になるのが嫌ならばそれもいいが、どの道、この国で生きていくにはガンディアに属するよりほかない。属していた国が無くなるのだから。
ミレルバスの亡骸は、龍府に入った時に引き渡していた。戦場で死ぬまで国主であった人物だ。丁重に葬られるべきだった。
ミレルバス=ライバーン。
彼がザルワーンの国主となったのは六年前だったか。その六年で、彼はこの国を大きく作り替えた。五竜氏族による支配が絶対であった国を、人間のものにしようとしていたらしい。実力主義、才能主義を掲げ、後ろ盾のない人間であっても、実力や才能があれば登用し、場合によっては重用したという。
ザルワーンは変わろうとしていた。実際、変革の最中にあった。だからこそ、ナーレスが付け入ることができたのだ。変革という形の分からない状況にあったればこそ、ナーレスの進言はよく通り、ミレルバスも彼の意見を取り入れたのだろう。ナーレスがミレルバスの信用を勝ち取っていたのも大きいだろうが、第一は、それだ。
「竜の国から人の国へ、か」
「はい?」
「いや、なんでもないさ」
ナージュの小首を傾げる様が愛おしくて、もう少し困らせてみようかとも思ったが、やめた。彼女に嫌われたくはなかったし、どうも、そのような気分になれなかった。
龍府天輪宮泰霊殿主天の間に、彼とナージュたちはいた。交渉も終わり、この古都がガンディアのものとなることは決まった。細部のすり合わせはまだ終わっていないが、それらはゼフィルたちに任せておけばいい。彼らならばいいようにしてくれるだろう。
細部というのは、ザルワーン人のガンディアでの位置づけだ。ザルワーンの貴族(五竜氏族と呼ばれる連中)の扱いをどうするかとか、各都市の行政をガンディアに一本化するにはどうするのがいいのかとか、ザルワーン軍をどのようにガンディア軍に吸収するか、といったことだ。軍については大将軍が副将や左右将軍と話し合って決めることだろう。新たな方面軍を作る必要がある。ガンディア、ログナーに続く第三の方面軍。ザルワーン方面軍。
主天の間には、玉座があった。無数の龍が絡みついたような玉座は、二十年前、レオンガンドが父とともにこの都を訪れた時にも見たものだ。当時の国主マーシアスの趣味だという玉座は、権力者が座るに相応しい威容を備えている。
「二十年前、わたしはここに来たんだ。父とともにね」
二十年前、ただの子供に過ぎなかったレオンガンドは、壮麗な古都の風景にただ圧倒されたものだ。見るものすべてが輝いて見えたし、これが大国の首都というものかと感嘆し、感激した。あまりにはしゃぐものだから、回りのものにたしなめられたのだが、彼は懲りなかった。侍従の目を盗んで街に繰り出し、大騒動を引き起こしたのを覚えている。
あの日見た龍府は、まるで原風景のように記憶に焼き付いている。
他国の王を前にして、玉座の手摺に肘を乗せ、おうような態度で応じるマーシアス=ヴリディアの姿が思い出された。対するシウスクラウドも毅然としたもので、ふたりの間には常に一触即発の緊迫感が漂っていた。慌てたのは、マーシアスの側近であり、シウスクラウドの側近たちだ。ただの会談が全面戦争に発展する危険性を孕んでいては、気が気ではなかっただろう。もっとも、シウスクラウドにはその気はなかったし、マーシアスが企んでいたのはもう少し穏便で、残酷な仕掛けだったが。
「思えば、それがザルワーンとの戦いの始まりだった。知らぬうちに始まっていたんだが……」
主天の間は、謁見の間でもあるためか、天輪宮の中でも特別に広く作られていた。上段に玉座があり、謁見するものたちは下段から玉座を仰ぐ形になった。国主はまさに天から見下ろす主のような気分に浸れるだろう。権力者が高所を好むのは、ある意味では必然なのかもしれなかった。
その玉座に向かっている。
いま、主天の間には彼と彼の婚約者と、婚約者の侍女しかいない。いや、彼の半身もこの場のどこかに潜んでいる。完膚なきまでに叩きのめされてなお一発逆転の可能性を彼の暗殺に求めるような輩がいるかもしれない。護衛は必要だった。
もっとも、彼はそのようなものはいないだろうと考えていた。レオンガンドたちが天輪宮に足を踏み入れたのは、ガンディア軍によって完全に制圧された後だ。天輪宮の五つの御殿にあるすべての部屋がガンディア軍の管理下に置かれた。
ザルワーンの高官の中でも、戦後処理に直接関係のないものは天輪宮の外に出され、天輪宮を埋めるのはほとんどガンディアの人間だった。暗殺者が紛れ込む隙は、極めて少ない。そして、アーリアという存在は、その隙を埋めてくれるに違いなかった。彼女は、本陣での失態を恥じ入っていた。レオンガンドが不用意に近づいたことが原因なのだが、アーリアにいわせれば、それでもレオンガンドを守れなかった自分が悪いということになるらしい。それはそれで責任感の強い彼女らしく、頼もしくもあるのだが。
段差を上り、玉座に至る。先代の国主マーシアスの手による玉座だ。マーシアスからミレルバスに受け継がれたのだろうが、ミレルバスが利用していたかどうかはわからない。
ミレルバス=ライバーンとも、二十年前に会っている。当時の彼は、マーシアスの側近のひとりだった。マーシアスに相当気に入られていたらしく、ザルワーンを訪れたガンディア使節団の案内役を一任されたのが彼だった。シウスクラウドとミレルバスは同年代であり、気が合ったのか、度々談笑していたという記憶が、レオンガンドにはある。
レオンガンドは、群れ集う竜の玉座の手摺に触れ、静かに腰を下ろした。座り心地は悪くはないし、玉座から見下ろす眺めも中々にいいものだ。とはいえ、いま彼の視界を彩るのは、三人の侍女だけだが。武装したままの侍女たちは、ナージュとともに上段に登ってはこず、部屋の隅に控えている。
ナージュは、彼の隣にいた。ナージュ・ジール=レマニフラ。彼女との婚姻は、ガンディオンに戻ってからの事になる。そのころには、レマニフラからなんらかの応答があるはずだ。元より、レマニフラの望みなのだから、ふたりの結婚を祝いこそすれ、反対したりはしないだろうが。
「長い……本当に長い戦いだった」
レオンガンドは、玉座に据わった途端、感慨が押し寄せてきたことに戸惑いを覚えたものの、いまはその濁流のような感情に身を任せてもいいと思った。
ミレルバスが目の前で死んだときも、そのあとにも、こういった感情の変化は起きなかった。勝利をしたという確信はあったし、だからこそ勝鬨をあげさせたのだが、実感というものはなかったのかもしれない。