第四百三十三話 闇夜の遭遇
天輪宮玄龍殿の地下通路を抜けると、龍府の北門付近の政府関連施設に辿り着く。龍府の地下に張り巡らされた迷宮めいた通路を辿れば、龍府内のどこにでも出ることができたが、ガンディア軍が南門から入ってきたであろうことを考えれば、北門付近に出るのが正解に違いなかった。そういう意味では、彼女は嘘を言ってはいなかったのだ。もちろん、施設を出ても、馬車などは用意されてはいないのだが。
死ぬことを考えていたミレルバスが、龍府からの脱出手段を用意するはずもなかった。それはオリアンのことであっても同じだ。オリアンとて、龍府から脱出する予定はなかった。なにもかも予定とは大きく違っている。
ミリュウに殺されることが、最大最後の目的だった。
殺されなければならなかった。
長い長い人生の最後を飾るのは、ミリュウによる殺害だったはずだ。そのために積み上げてきた。そのために築き上げてきた。そのためだけに、彼女を育て上げ、凶悪な殺戮兵器へと作り上げた。彼女の憎悪が自分に向くように、彼女の殺意が自分に注がれるように、どう足掻いても、殺したくなるように仕向けた。
しかし、彼の目論見が達せられることはなかった。
十年かけて作り上げた作品に裏切られて、彼は、多大な喪失感を味わう結果になったものの、それも悪くはないと思った。妙な感情だった。本当に奇妙で、不可解な感情だった。
(手に余るとはこのことか)
彼は、そんなことを思いながら、北門を目指した。龍府に入ったというガンディア軍の手は、北門までは回っていなかった。門番に門を開けさせるのに多少手間取ったものの、それ以外の問題はなかった。オリアン=リバイエンの権力を以ってすれば至極簡単なことだ。もっとも、龍府がガンディアによって制圧される目前、彼の権力など露と消えるものに違いないのだが。
北門の門番は、まだ正確な情報を得ていなかったらしく、オリアンの通行も軍事行動の一種だと思っていた節が有る。そう思わせたのは彼自身の言動ではあるのだが。
わずかに開いた北門から龍府を出ると、征竜野のだだっ広い平地が広がっていた。当然、ガンディア軍の姿はない。ガンディア軍が展開したのは征竜野の南側である。数でザルワーン軍を圧倒したガンディア軍ではあったが、龍府を包囲できるほどの数ではなかった。
「さて、どこへ行こうか」
オリアンはつぶやくと、背後を振り返った。彼は、ひとりではなかった。地下通路を進んでいると、ひとりの男との予期せぬ再会を果たしたのだ。クルード=ファブルネイアだ。守護龍の操者であったはずの彼がなぜ地下通路にいたのかは定かではなかったが、問い質したところで答えが返ってくるとも思えなかった。蘇生薬の副作用で変わり果てたクルードは、自分がなにものかもわからなくなっているようだった。
彼を連れてきたのは、なにも慈悲心からではない。地下通路に放置していてもよかった。彼は地下の迷宮で何度も死に、何度も生き返ったことだろうし、いつかは地上に辿り着いたかもしれない。いや、その前にガンディアの手によって確保されただろう。それを避けたかった。死んでも死なないクルードを研究し、蘇生薬の秘術が解明されることを恐れた。所詮、蘇生薬は不完全なものだった。そんなものが蔓延すれば、どうなるか。
この世は地獄と成り果てる。
(それはそれで面白いかもしれないが)
研究者としては、喜び難い世界だ。
もっとも、いまさらのことかもしれない。
征竜野の戦いのために、どれほどの蘇生薬をばらまいたのか。
五百余りの兵士が不死者となり、戦場を跋扈した。そのほとんどすべてが首を切り落とされて蘇生不可能となったようだが、中には殺されなかったものもいるかもしれない。そこから解明される可能性もないわけではなかった。
解明されたからといって、実現できるものでもないのだが。
「どこへ……?」
クルードが、こちらの言葉を反芻するようにつぶやく。彼は、その不気味な外見を隠すように漆黒の甲冑に身を包んでいる。全身を包み込む異形の鎧は、オリアンが彼のために召喚したものだった。もちろん、契約者はクルード=ファブルネイアということにしてある。つまり、オリアンの精神消耗は召喚時だけで済んでおり、後の召喚維持費はクルードから供給されることになる。便利なものだが、それだけ高度な技術でもある。
「そうさな……」
オリアンは再び北に目を向けた。龍府から北へはふたつの街道がある。ひとつは、ライバーン砦へと至る北西行きの街道。ひとつは、リバイエン砦へと通じる北東行きの街道。どちらの砦も守護龍召喚の触媒となって消滅したが、街道が潰えたわけではない。
ライバーン砦への街道を辿れば、いずれアバードに至るだろう。アバードといえば、ガンディアとの戦争のどさくさに紛れて軍勢を出してきていたはずだが、それがどうなったのかは判明していない。守護龍に討たれたか、それとも、守護龍の出現に恐れ慄き、撤退したか。クルードがこの状況では、アバード軍に関する情報を引き出すことは難しかった。それに、アバード軍がどうなろうと知ったことではない。
考えるべきは、身の振り方だ。
どこでだって、生きていくことはできる。オリアン=リバイエンは、不世出の武装召喚師であり、外法に精通した人物だ。彼ほどの才能と実力を欲する国は数多あるだろう。ザルワーンほどではないにせよ、それなりの待遇を得られることは疑いようがない。無論、国に属さずとも、生きていく自信がある。皇魔を退治していくだけでも食うには困らないだろうし、そういう生き方も悪くはない。が、その生き方では、彼の目的を果たすことができたとしても時間がかかりすぎる。
彼は、街道を歩きながら、度々背後を振り返ってクルードの様子を見た。彼は、多くのものを失ってしまった。無限に近い命を得た代償なのだ。いや、それだけではない。守護龍の操者となったことも影響している。擬似召喚魔法によって異世界から召喚された五首の竜を操るということは、多大な精神負荷に耐えるということも同じだった。
普通の人間は愚か、武装召喚師ですら耐え切れないような過負荷を乗り越えるには、蘇生薬による無限の生命力が必要だった。しかし、それも耐え切れる、というものではない。死んでも蘇ることで、負荷を欺瞞していたに過ぎないのだ。いまのクルードを見ればわかるだろう。彼は、過度の精神不可によって人格さえも破壊されてしまった。もはや、クルード=ファブルネイアという人物は死んでしまったのも同じだ。
彼は生きながら死んでいて、死にながら生きている。
そんな彼を連れて行くというのだ。アバードのような普通の国では無理がある。
それならば、と考えつくのが、北東へ伸びる街道だった。街道はリバイエン砦へ至ると、そこからいくつかの分岐を示す。ひとつは、ライバーン同様北の隣国アバードへ進む道であり、ひとつはライバーン砦へ、さらにファブルネイアへと通じる街道があった。さらにマルウェールと繋がる街道もあるが、ガンディアに制圧された都市に向かう意味はない。ミレルバスが敵視したガンディアに降る理由はなかった。
しかし、その街道を辿れば、途中、クルセルクへの道が開けるはずだった。ガンディア軍によって封鎖されている可能性はなきにしもあらずだが、可能性は低い。
クルセルク。
魔王による王位の簒奪以来、急速に勢力を伸ばしている国だ。皇魔を使役しているという噂があり、オリアンは実態を確かめるためにクルセルクへの潜入を計画したのだが、ミレルバスによって却下された。ザルワーンの内情が安定するまでは、オリアンを国外に放つことはできないというミレルバスの考えは、ある意味では正しかったのだが、その結果、クルセルクへの対処が後手に回ったのは間違いない。もっとも、クルセルクがザルワーン侵攻を企むより早く、ガンディアが侵攻してくるとは思っても見なかったが。
クルセルクを支配し、瞬く間にザルワーンと肩を並べる強国へと成長させた魔王がどのような人物なのか、興味はあった。ユベルという名前と、どうも二十代の青年らしいという噂しか知らなかった。美貌の皇魔を従えているという話もあるが、噂の域を出ない。
クルセルクは他国との外交を行っておらず、ほぼ鎖国状態にあるといってもよかった。ミレルバスがオリアンの潜入計画に反対したのはそれもある。ガンディアによる国境封鎖の心配がないのもそれだった。クルセルク自体が国境を封鎖しているといってもいい状況なのだ。わざわざガンディア側が兵を割く必要はない。マルウェール付近には兵を配置しているかもしれないが、マルウェールに接近しなければ問題はないだろう。
「そういうわけだ」
オリアンは丁寧に説明したものの、クルードが理解しているとは思わなかった。記憶に刻まれるとも考えにくい。独り事のようなものだ。
やがて、夜が来た。
征竜夜を北東に進み、樹海へと至るころには夜も更けている。上天には無数の星々と月がきらめいてはいたものの、樹海の闇の深さが変わることはなかった。整備された街道を進むだけのことだ。道に迷うことはないが、夜の森ではなにがあるのかわかったものではない。皇魔が出現する可能性もないわけではない。龍府近郊に皇魔の巣はないものの、皇魔が遠征に出てくることもある。遭遇すれば戦闘になるが、その点では問題はない。クルードは常に召喚武装を身につけているのだ。彼が戦ってくれさえすれば、オリアンはなにもする必要はない。
(戦ってくれさえすれば、な)
オリアンは、闇の中、淡く発光するクルードの目を見て、つぶやいた。光を発しているのはクルードの目ではなく、兜の目に当たる部分だ。全身を完全に覆い尽くす甲冑は、彼の目も隠していた。結果、彼の姿は異形の怪物と成り果てたが、彼本来の姿よりはマシだろうというのがオリアンの感想だった。
不意に、クルードがオリアンの前に出て、手で彼の前進を制してきた。
「皇魔か?」
「……ない」
「ん?」
「わ、から……ない」
クルードの辿々しい返事に、オリアンは、蘇生薬の不備を思った。所詮、不完全な代物だったのだ。外法の粋を集めて作り上げた蘇生薬も、英雄薬も、その代償があまりに大きすぎる。死んでも蘇る蘇生薬は、そのために人間性を失うものであり、一時的に英雄豪傑の力を得る英雄薬は、その効能時間の終了とともに命を終える。
なにかを得るには代償を払う必要がある。
この世の道理ではあるのだが。
オリアンは、クルードの制止に逆らわなかった。周囲に視線を巡らせるも、闇の中では森の風景はどれも同じように見えた。魔晶灯を携行するべきだったかと思ったものの、その必要はなかった。
「ふむ……」
異臭がした。人間に不快感をもたらす臭いは、皇魔特有の気配といってもよかった。複数の足音が聞こえ、飛び交う殺気が、オリアンの全神経を昂らせる。森の闇に、無数の光点が出現した。赤い光。皇魔の眼光。
「皇魔か」
オリアンは、術式を思い浮かべたが、やめた。クルードが無意識に反応したのだ。彼に任せてみるのも一興だと、オリアンは思った。
森の中に作られた街道の道幅は狭くはない。軍隊が行軍するには少々不便かもしれないが、通常の使用範囲では問題のない幅だった。道の両側は森の真っ只中であり、無数の木々が立ち並び、草花が生い茂っている。風は穏やかだが、冷え込み始めている。その冷風が、異臭を運んできていた。異臭の根源には異世界の怪物たち。
と、オリアンは、皇魔たちが一向に襲ってこないことに違和感を覚えた。皇魔といえば、人間を見つけると見境なく襲ってくるのが相場だった。例外など聞いたことがなかった。
街道の先から、何者かが近づいてくるのがわかる。足音からして皇魔ではなかった。人間。皇魔の集団と行動をともにする人間など、いるはずがない。いや、ひとりだけ心当たりがある。
魔王だ。
「こんな時間、こんなところでひとに出遭うとはな。偶然か、必然か」
闇の中、相手の姿は見えないものの、超然とした声には風格があった。
「どちら様かな?」
「名を問うならば、まずは名乗るべきではないか」
「……ふむ、それもいいか。わたしはオリアス=リヴァイア。しがない武装召喚師さ」
彼は、そのとき、オリアン=リバイエンという仮初の名を捨てた。ザルワーンを出るのだ。名を捨てるのは、当然のことだった。惜しくはなかった。数十年、使った名ではあったし、想い出深いものでもあったが、捨てなければならないのだ。でなければ、ザルワーンに縛られることになりかねない。それは愚かなことだ。
「はじめまして、オリアス。俺はユベル。魔王をやっているものだ」
男が告げると、周囲の皇魔どもが囃し立てるように雄叫びを上げた。
樹海そのものが吼えているかのようだった。