第四百三十話 恩讐の行方
息を潜めるような慎重さで、彼女は歩いている。
龍府天輪宮泰霊殿・主天の間を出ると、天輪宮の外の大騒ぎとは打って変わった静けさが横たわっていることに気づく。泰霊殿が喧騒に包まれるということ自体、ありえないことではあるのだが、それにしても、外との温度差には驚くものだ。
天輪宮の中でも泰霊殿ほど出入りの少ない区画もないのだ。玄龍殿や飛竜殿のように、ご粒子ぞくだからといって自由に出入りしていいわけではない。政務に携わるようなごく一部の人間だけが、自由に行き来することができるのが、この空間だった。
五つの宮殿からなる天輪宮の中心に位置する建物でありながら、他の宮殿との行き来は基本的に禁止されている。通路はあっても、封鎖されているといっても過言ではなかった。対角線上に位置する宮殿に行くための最短経路として泰霊殿が使えないというのは、不便極まりないのだが、だれも不満ひとつ漏らさなかった。
「ところで、どこへ行くつもりだね? ガンディア軍は既に龍府に入り込んでいるのだろう?」
刃のような冷ややかな問いに、彼女は息を止めた。オリアン=リバイエンの声を聞くだけで鼓動が強まるのだが、悟られるわけにもいかない。振り返りもせず、静かに、告げる。
「玄龍殿の地下通路から北門に出ます。北門には馬車を用意していますので、それを使えば逃れられるかと」
「ほう。用意周到なことだ」
「ミレルバス様のご命令です」
「そうか。ミレルバスがな……」
オリアンは低く笑ったが、それ以上はなにもいってこなかった。こちらを信用している。疑う余地はあるまい。彼女は、ザルワーン軍の正規兵らしい格好をしているのだ。龍眼軍の軍装に軽装の鎧兜。どこからどう見ても、ザルワーン兵だった。軍人らしく振る舞えているかどうかが問題だったが、そこまで気にすることではない。
オリアン=リバイエンが隙を見せる瞬間まで騙し通すことさえできればいい。
暗い回廊を進む。
主天の間は、泰霊殿の上層中枢にあり、玄龍殿に向かうには回廊の北側から階段を降りる必要があった。階段を降りれば玄龍殿への連絡路はすぐそこだ。連絡路の通行は禁じられているものの、オリアン=リバイエンが一緒ならばなんの問題もない。彼は、泰霊殿を自由に出入りすることが許された人物のひとりだった。
国主ミレルバス=ライバーンの片腕であり、魔龍窟総帥。先の国主マーシアスの時代から謎の権勢を誇った武装召喚師は、ミレルバスの時代になってさらなる権力を得た。国主に次ぐ権力者となった彼だったが、術の研究と武装召喚師の育成に力を注ぎ、権力を振るうということはなかったらしい。彼ほどの権力があれば、彼女の人生を守ることも容易かったはずなのだが。
憎悪が噴き出しかけて、彼女は慌てた。回廊に靴音が響いても、なんの問題もなかった。彼女とオリアンだけが、泰霊殿上層部にいるようだった。主天の間のある階層には、ほかになにがあるわけでもないのだ。国主や政治家たちが政を行うのは泰霊殿の一階であることが多く、いまも、ガンディアに対してどう対応するべきかという議論が繰り広げられているに違いない。
オリアンが会議に参加せず、主天の間で眠りこけていたのは好都合だった。彼が会議に参加していれば、彼女はその会議場に飛び込む必要があったからだ。会議場に飛び込めば、当然、大騒ぎになる。その騒動の中で、彼ひとりを狙うのは難しいかもしれない。
いまになっても、無駄に殺したくはなかった。
階段を降り、一階通路に出ると、ひとの気配が感じられるようになった。しかし、周囲にひとがいる様子はなく、遠くからの話し声がわずかばかり耳に届く程度だった。おそらく、彼女たちの足音は聞こえてはいまい。
通路を北へ向かえば、玄龍殿への連絡路へ至る。連絡路には衛兵がおり、彼女の前に立ちはだかったが、背後にオリアンがいることがわかると、すぐさま道を開いた。ザルワーン式の敬礼を交わし、玄龍殿へ進む。
彼女が天輪宮の中枢である泰霊殿に潜り込んだのは、玄龍殿ではなく、紫龍殿からだった。紫龍殿へは正面から入ることができた。紫龍殿は一時期彼女らに貸し与えられていたということもあり、紫龍殿に携わる人々とは面識があった。
紫龍殿の衛兵は彼女の生還を喜んだものだが、表面的なものに過ぎない。内心はどう思っているものか。口止めは、簡単だった。父を驚かせたいという子供染みた発言を信用してくれたのは、彼女としてはありがたいとしか言いようがなかったが。
ともかく、そうやって彼女は天輪宮に入り込んだ。それから、一般兵の鎧兜を用意するのは苦労したものの、その甲斐あって、彼女は正体を知られることなくここまで辿り着けたのだ。
玄龍殿が泰霊殿よりも静かだったのは、彼女としても予想外の事態ではない。龍眼軍の兵士が全てで払っているのだから当然なのだ。
龍府はいま、もぬけの殻も同然だった。
ザルワーンの中でも特に重要な人物であるはずの国主もいなければ、軍の統括者である神将もおらず、ましてや龍眼軍の部隊長たちも出払っている。そして、その多くが戦死したに違いない。ガンディア軍が入府したということは、ザルワーン側が負けたということなのだ。敗北するということは、死傷者が出るということだ。どれだけの人間が無駄に死んだのかは、彼女にも予測がつかない。
(無駄に死ぬのね。誰も彼も)
玄龍殿は、天輪宮の他の宮殿に比べて複雑な作りになっている。彼女が、オリアンに告げた北門へ至るための地下通路とは、龍府の地下に迷宮の如く張り巡らされた地下通路そのものであり、必ずしも玄龍殿から行く必要はなかった。しかし、地下は迷宮同然であり、彼女やオリアンですら道に迷う可能性が多分にあるのだ。玄龍殿から北門へ至るだけならば、迷うことはないだろうというのが彼女の判断だった。
「そうだ。君の名を聞いていなかったな」
「名前、ですか」
玄龍殿に至るまでの間、ずっと沈黙を守り続けていたオリアンが唐突に口を開いたのには、彼女も警戒せざるを得なかった。そして、その反射が彼の疑いを生むことになるのだが、それは致し方のないことだった。
「無事、逃げ果せることができたのならば、いつかお礼をしなければなるまい?」
「礼など、不要です。わたくしは、ミレルバス様の命令を――」
「ミレルバス……ミレルバスか。彼がそのようなことを命ずるような男だと思っていたのか?」
一転して閃いた殺気に、彼女は前方に転がり込んだ。なにかが空を薙ぐ音がした。振り向くと、オリアンが小刀を振り抜いていた。切っ先が赤く濡れている。血。痛みがいまさらのように彼女の背中から走ってくる。しかし、傷は浅い。致命傷ではなかった。戦える。
玄龍殿一階の中央。無数の通路が交差する集中点であり、戦闘するには狭いものの、小さな空間があった。人気はない。ふたりきりだ。
オリアン=リバイエンと、彼女だけがこの場にいた。
「確かに、彼とわたしは半身を自認する間柄ではあったよ。だが、だからこそ、だ。互いの生存を望んだりはしないのだ。死ぬときは勝手に死ね。いつも言い合っていたものだ」
「だったら――」
彼女は、腰に帯びていた剣の柄に手を触れた。ごく普通の剣の柄から伝わる冷ややかさは、召喚武装のそれとは大きく異なるものだ。だが、ひと一人を殺すには十分すぎる。
「いま死ね」
振り向きざまに飛びかかると、オリアンの狂ったような笑みが彼女の目に止まった。オリアン=リバイエン。彼女のたったひとりの父親。物心付く前から、彼女にとっては天地のすべてであり、彼女が生きる世界の根幹を成す存在といっても良かった。だれよりも愛し、そしてだれよりも憎んだ相手だった。その父親が眼前にいる。歯噛みし、剣を抜き放つ。
(ああああっ)
声にならない声で叫びながら、彼女は剣を振り抜いた。しかし。
「なにをしている?」
心底呆れ果てたようなオリアンの声とともに、彼女の腹部に衝撃が走った。激痛の中で腰を折り曲げ、その場に崩れ落ちる。剣が床に転がる音が、空々しく響いた。胃液が逆流して、舌の上で跳ねている。
彼女の斬撃は、空を切ったのだ。
(斬れなかった……どうして……!)
心の中で絶叫しながら、彼女は、口から溢れ体液が目の前の床を侵食していくさまを見ていた。その向こうに、オリアンの靴がある。黒い靴は、彼女が子供の頃から同じ意匠ではあるが、同じものを履いているというわけではない。
彼女はオリアンによる追撃を覚悟したが、こなかった。
代わりに、オリアンは、彼女には理解の及ばない言葉を吐いてきた。
「まったく、これではなにもかも台無しだ」