第四百二十四話 回帰
「俺が必要とされるのは、俺が黒き矛カオスブリンガーの召喚者だからなんだ。ただの神矢刹那なんて、だれも必要とはしていないのさ」
セツナは、嘆くでもなく告げた。ただの現実を述べただけのことだ。哀しみも、悔しさもない。歴とした事実だ。誰にも否定出来ない、覆しようのない現実なのだ。セツナがガンディアにおいて重宝され、レオンガンドの寵愛を受けられるのは、黒き矛の召喚者だからだ。それ以外の理由はない。召喚者であることをやめれば、途端に彼は不要と判断されるだろう。戦場から遠ざかることはできるだろうが、そうなれば、生きるための糧をえることができるかどうかも怪しくなる。
ここは異世界。
セツナの知人も友人も存在しなかった世界だ。寄る辺もなく、助けもない。そんな世界にあって、ひとりで生きていけるとは到底思えない。他人の力がいる。助けがいる。しかし、召喚者であることを放棄した無力な子供を助けてくれるような人物など、そうはいないだろう。
いまでこそ、友人や知人と呼べるひとが増え、この世界で生きていくことに不便はなくなった。が、それもこれも、彼がガンディアに所属する武装召喚師であるからだ。レオンガンドに見出され、彼の矛として戦い抜いてきた結果だ。
力を捨てるということは、これまでのすべてを放棄するということと同義ではないのか。
生きていくための術さえも捨てるということにほかならないのではないか。
『それがわかっているのなら、なぜ、迷う』
声は、響く。
「迷う?」
『そうだ。おまえは、迷っている。戻るべきか、このまま消えて失せるべきか。だから、戻れない。肉体に帰れない。力はおまえの制御下にあるというのに』
「なにをいって……」
セツナは困惑した。脳裏に響く声の言葉の意味が理解できない。力。黒き矛との取引の末に手にしたのは、制御しきれないほどの莫大な力だ。その力によって、ドラゴンの防壁を打ち破り、心臓を破壊し、ドラゴンを消滅させることができた。そして、セツナの意識は空に飛ばされた。肉体は地上にあるというのに、意識だけは、空にあった。
まるで虚空に溶けるかのよう漂い、世界を見ていた。
『力のほとんどは霧散してしまったからな。残る力はわずかばかり。その程度の力すら、おまえは制御できないとでもいうつもりか?』
「わずかばかり……」
『それはそうだろう。おまえは、あのドラゴンを倒すためにすべて使い果たしたじゃないか』
声の主は、あきれ果てていたようだが、それでもセツナにはわからない。力を使い果たしたのなら、意識を保ってなどいられないはずだ。いままでがそうだった。戦いのたびに意識を失っていた。それは単純に黒き矛の力を使うために精神力を消耗し尽くしてきたからであり、今回は、それ以上の精神力を消費しているはずだった。ならば、意識が消し飛んだとしても不思議はないのだが、現状は、そうではない。
黒き矛の力以外には考えられないような現象に、遭っている。
「じゃあこれはいったい……」
『力の余韻だろうよ』
「余韻……」
セツナは、ただ愕然とした。余韻だけでこれだけのことをしてしまう黒き矛の凄まじさに、声も出なかった。ドラゴンの無敵の盾を破ったことを考えれば、それくらいできたとしてもおかしくはないのだが、それにしても、余韻と呼べる程度の力で、だ。
『おまえが戻ることを決意すれば、すぐに戻るさ』
「……決意」
『おまえに戦い続ける覚悟があるか?』
意識が揺れる。
気が付くと、目の前には大穴があった。足がふらつき、危うく穴に落ちるところだったが。矛を地面に突き立ててなんとか体を支えることに成功する。息を吐いた。体が重い。久々に重力を感じているからかもしれない。ついさっきまで、セツナの意識は重力とは無縁の領域にあったのだ。空を仰ぐ。空は既に赤みがかっている。日が沈み始めているのだ。
その赤みがかった空には、ドラゴンの巨躯もなければ、光の乱舞もない。ただの空だ。風が吹き、雲を押し流している。異世界の空模様に異変はない。
眼前の大穴に視線を戻す。
地の底まで穿たれた巨大な穴は、竜の首を召喚するために必要な代物だったのだろう。砦の敷地をまるごと飲み込むような穴だ。大きすぎるにも程がある。うっかり落ちれば死ぬのは間違いない。
あれほどの土砂降りの後でも水が溜まっていないのは、竜の首で埋まっていたからだろうか。竜の首が消えた以上、雨水などが溜まっていき、大きな湖にでもなるのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えてしまったのは、まさか、こうも簡単に自分の体に戻れるとは思ってもいなかったからかもしれないし、猛烈な精神疲労で思考回路が働いていないからかもしれない。全身から力が抜けきっているのがわかる。少しでも気を抜けば、このまま穴の中に落ちてしまうのではないかという恐怖があった。
ゆっくりと呼吸を整えるものの、肺に空気が出入りするだけでも痛みがあった。まるで、長い間放置していたものを動かすかのような慎重さで、彼は、背後に向き直った。視線を感じていた。冷たい視線には、殺意だけが込められている。
「もう、終わっただろ」
セツナは、うんざりとつぶやきながら、それを見た。緑に輝く物体がこちらを睨んでいる。発光体は、よく見れば、ひとの姿をしていた。知っている人物の顔にも見えるのだが、定かではない。頭を振る。知っている人物が、こんなところに現れるとは思えない。そもそも、セツナの知人といえばガンディアの王宮関係者か軍人や傭兵であり、発光体に知り合いなどいない。
「まだだ……! まだ終わってなどいないっ!」
悲鳴染みた叫び声に、セツナははっとした。聞き覚えのある声が、眠っていた記憶を呼び覚ます。声と容姿が一致して、名前が浮かび上がってきた。衝撃がセツナの意識を貫く。
「なんであんたが出てくるんだよ……!」
「君を倒さなければならない」
「クルード=ファブルネイア!」
「おまえを討たなければならない」
「なんであんたが……」
「貴様を殺さなければならない!」
こちらの言葉など聞こえていないのか、彼は一方的に告げてくると、地面を蹴った。一足飛びに飛びかかってくる。人間の限界を超えた跳躍力と速度は、武装召喚師のそれと同じだ。クルードの右手には槍が握られている。光竜僧。
「くっ」
セツナは、応戦するために、黒き矛を地面から引き抜いた。間合いは、瞬く間になくなった。敵は眼前。鋭い突きが伸びてくる。
「返してもらうぞ、我が女神を!」
「俺に任せたのはあんただろうに!」
刀身で切っ先を受け止め、押し切って突きの終点を逸らす。発光体の顔が目の前まで迫ってきている。鼻息が届きそうな距離、というのは言い過ぎだが、近い。顔は、あの夜の森で見たクルード=ファブルネイアそのままだ。五竜氏族の出身だけあって、貴族然とした顔立ちだったが、その表情はいま、怒りに歪んでいる。
なにに対して怒っているのかは、彼の発言からわかった。ミリュウのことに違いない。クルードが女神と呼ぶ人物は、ミリュウ=リバイエン以外には考えられない。でなければ、セツナに怒りをぶつけてくる理由もない。いや、それでさえ理不尽極まりないのだが。
セツナは踏み込むと、矛の切っ先を相手の首元に突き入れた。だが、手応えはない。発光体は、無数の粒子となって分解し、セツナの視界を流れていく。光竜僧の能力は話に聞いて知っている。使用者が光に変化することで、あらゆる攻撃を無効化するという能力。
「おまえさえ、君さえ、貴様さえいなければ……!」
声は左耳の近くから聞こえた。振り向きざま、黒き矛の斬撃を叩き込む。
「俺がいなけりゃどうだっていうんだ!」
セツナの一撃は、またしても空を切った。光の粒子が眼前の虚空に散らばったかと思うと、大穴の上で人間の形を構築していく。だが、再構築されたクルード=ファブルネイアの姿は、さっきとは大きく異なるものだった。セツナは、その変貌ぶりに息を呑んだ。頭髪が抜け落ち、頬が痩け、眼窩は落ち窪んでいる。そのくせ、目だけはぎらぎらと輝いている。いや、輝いているのは、目だけではない。クルードを構成するのは、光だ。
妖しく燃えるような緑色の光。
クルードが光竜僧を掲げたのを見て、セツナは矛を構えた。こちらの攻撃はまず間違いなく無効化される。が、敵の攻撃を無効化するとき、光竜僧もまた攻撃できないという欠点がある。攻防一体というわけにはいかないのだ。つまり、セツナが畳み掛けるように攻撃すれば、クルードの攻撃を受けることはないということだが。
「セツナ・ゼノン=カミヤ……貴様さえ――」
突如として、クルードの姿が空中で分解し始めたのを見て、セツナは呆気にとられた。なにが起こったのか、まったく理解できなかった。わかったことといえば、突然クルードが現れ、襲いかかってきたかと思いきや、消滅し始めたということだけだ。
発光体は、無数の光の粒子となって虚空に散らばり、大気に溶けるようにして消えていく。クルードが発していた殺意や敵意、怒りや哀しみといったあらゆる情念もともに消滅する。なにもかも消え失せ、セツナだけがその場に残された。
「なんなんだよ……いったい」
セツナは、戦闘の緊張から解放されるともに、とてつもない徒労感に見舞われた。どっと押し寄せるのは、理不尽さへの怒りともやるせなさともつかない感情だった。
「なんだか災難だったね」
「……ああ」
振り返ると、クオンが困ったような顔でこちらを見ていた。
夕日を浴びる少年の素顔は、いつにもまして輝いていた。