第四十一話 平穏なりし要塞の日々
「ふう……やっと抜け出せたわね」
洪水のような人だかりから、もみくちゃにされながらもなんとか脱出することに成功したファリアは、その静まりそうもない喧騒から離れた。物凄まじい人だかりであり、騒ぎだった。彼女にも想像がつかないくらいの状況だったが、それもこれも、レオンガンドの不用意な――それでいて真摯な――言動のせいに違いない。
先の戦いの勝利を軍の手柄にすることもできたのだ。そうすれば、ガンディアの弱兵という評判は覆されたはずである。が、レオンガンドは、それをしなかった。元より誠実な人柄だということもあるのだろうが、意識を失うほどに戦い抜いたセツナへのせめてもの報いなのかもしれない。
もちろん、それだけではない。戦後速やかに行われた論功行賞の際、セツナには多額の褒賞が約束されているのだ。当然の結果だ。セツナの働きによって完勝したといってもいいくらいの活躍である。だれも文句は言いようがないし、そのことについて批判が出たとしても、お門違いも甚だしい。
彼は、与えられた役割を全身全霊でこなしただけなのだ。そのせいで数日に渡って意識を取り戻さないという事態に陥り、ファリアを含め、周囲の人間を大いに騒がせたが。
ともかくも、レオンガンドの喧伝によって、セツナ=カミヤの名はガンディオン中に知れ渡り、一躍有名人となってしまったのだ。いや、それだけではない。ガンディア国内のみならず、周辺諸国にも、その名前は知られたに違いない。
ガンディア国内ならば、大きくても今回のような騒ぎになるだけで済むのだろうが、これが国外であった場合どうだろう。ログナーならば――。
(駄目駄目。馬鹿なこと考えてる場合じゃないわ)
ファリアは、胸中でひとりごちると、頭を振って思考を切り替えた。いまは、セツナとともにここから立ち去ることを第一に考えるべきだろう。人だかりを一瞥する。恐ろしいまでの騒ぎへと発展してしまったのは、やはり威厳をある程度は取り戻すことに成功した国王の言動に原因があるのだが、それが大袈裟な誇張ではないために、彼女ではどうすることもできなかった。
市民がセツナのことで盛り上がるのはいいのだ。むしろ、セツナの活躍で活気を取り戻せたのなら、それに越したことはない。しかし、セツナの日常に支障が出ては、本末転倒この上ないと思うのだが、どうだろう。とはいえ、こんな騒ぎも、しばらくすれば起きなくなるに違いない。ここまで過剰に盛り上がっているのは、熱しやすく冷めやすいというガンディア国民の性格を大きく反映しているからに過ぎない。
ファリアは、嘆息を浮かべて、セツナを探した。彼はまだ人だかりの中にいるのだろうか?
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
(なんか、とてつもなく疲れたぞ)
セツナは、ぐったりと、その場に座り込んだ。疲労感がどっと押し寄せてくる。
山のような人だかりからなんとか抜け出すことに成功した彼は、人目を避けるようにして大通りを外れ、人通りの少ない路地に身を隠したのだ。そうでもしなければ、またあの騒ぎに巻き込まれそうな予感がして、セツナは気が気ではなかった。
もちろん、数え切れないほどの人たちに誉めそやされ、持ち上げられるのは、悪い気分ではない。むしろ、あまりの気恥ずかしさに卒倒してしまいそうなほどだった。それは心地よさとへ別の感情なのかもしれないが、ともかく、彼はあの人だかりの中でもみくちゃにされるのには辟易した。
なんとか脱出することはできたものの、ファリアを見失ってしまったのは痛恨の失敗だった。抜け出した後、その場に留まっていればいつかは合流できたのだろうが、その前に、あのひとの山がこちらを発見しそうで怖かった。
(なんだかな~)
セツナは、嘆息交じりにレオンガンドの顔を思い浮かべた。いつになく晴れやかな笑みをした美貌の男が、大観衆の前でセツナの名を喧伝するといった光景を幻視して、彼はため息をさらに深めた。
もちろん、レオンガンドに対してどうこういうつもりはない。彼には彼のやり方があり、その結果としてセツナは人々の注目の的になってしまっただけのことなのだ。レオンガンド自身、ここまでの事態になるとは予想だにしていないだろう。
人だかりが未だに収束していないことは、大通りのほうから聞こえる喧騒のおかげで簡単に把握できた。いや、収束どころか拡大の一途を辿っているように思うのだが、それは勘違いでもないのかもしれない。
数え切れないほどのひとが集まっているところを見れば、気になるのが人情というものだ。そして、その渦中にいる人物が、巷で噂の武装召喚師となれば、放っておかない手はないだろう。ひとりひとりの思惑は違う。
ひとつは好奇であったり、興味であったり、皆がそうしているから参加したものもいるだろうし、わけもわからず巻き込まれたという人もいるかもしれない。ともかくも、老若男女が見せる数多の表情が、セツナの網膜に焼き付いて離れなかった。
「はあ……」
興奮して見境のなくなった集団の恐ろしさを身に染みて感じることになった先の出来事は、セツナにとって、忘れがたい出来事になったのだった。
頭上を仰ぐと、さっきから代わり映えのしない青空が、その雄大さを誇示することもなく、ただただ漠然と広がっていた。白く輝く天体は、やはり太陽であるらしく、夜空を照らすのもまた、月といった。そういう意味では、セツナの生まれ育った世界――というよりは地球――と、このイルス・ヴァレに目に見えた違いはないように思える。もちろん、武装召喚術という技術などと呼ぶには強大すぎる力もあるにはあるし、皇魔という化け物もいるのだが。
(それを除けば……なあ)
無論、彼の住んでいた街とは随分と勝手が違う。中世の町並みとはいうものの、それは見た目だけの話であり、実際のところはどうなのかなど、ほとんどまったくわかっていないのが現状だった。そもそも、この世界の時代区分とセツナの世界の時代区分が同一であるという前提で考えること自体、無理があるのかもしれない。
ゆっくりと伸びをして、あくびを漏らす。ファリア曰く、五日もの間眠りっぱなしだったというのだが、セツナにはそのような実感はまるでなかった。よく寝た、という感覚さえもない。夢は――。
(見たのかな?)
おぼろげな記憶を辿れば、見たような気もするのだが。
(ま、どっちでもいいさ)
セツナは、静かに立ち上がると、辺りを見回した。大通りを少し逸れた路地に人気がないのは、露天や屋台の集中する大通りにこそ人足が集中するからだろう。それにしても、大通りから少し外れただけで、人影ひとつ見当たらなくなるのは異様な感じがした。
「?」
ふと、セツナは違和感を覚えた。とてつもなく奇妙な感覚だった。寒気とともに全身の皮膚が粟立ち、意識が尖鋭化されていく。
それは、なにかが発散している波動のように感じられた。
(どこだ……?)
セツナは、違和感の発信源を探して、視線を廻らせた。決して広くはない路地の隅から隅まで行き渡らせ、異常の有無を確認する。見知らぬ町並みから異常を見出すことなど不可能かもしれなかったが、あれこれ考えている暇はなかった。そうする間にも、違和感は酷くなる一方だった。
まるで戦場に立っているような感覚に近い。しかし、違うのだ。戦場ではない。血の臭いもなければ、死の影も見えない。狂ったような熱気などあるはずもなく、故に、昂揚することもない。
ただ虚しい意識が、違和感の移動を捕捉していた。
「!」
セツナは、路地の先、大通りとの合流地点に目を向けたとき、緩慢な人波の中を悠然と進む女の姿を発見して、息を止めた。燃えるような真紅の髪は、さながら煉獄の業火のようであり、人波に埋没することなくその存在を主張している。
(あれは……!)
セツナは、我知らず、その場から飛び出していた。地面を蹴る足に力が篭もる。見失うわけにはいかない。会って、問い質さなければならないのだ。
炎の如き髪の女など、セツナはひとりしか知らなかった。
(アズマリア=アルテマックス!)
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ったく、だらしないなあ。そんなんだから、手柄を全部持っていかれるのさ」
などと口にしながらも、ルクス=ヴェインは、だらしなくくずおれた男たちの姿に呆れ果てたわけではなかった。木剣を右手に持ったまま、周囲を見遣る。
彼の周りでは、屈強な肉体を持つ男たちが、息も絶え絶えといった様子で這い蹲っていた。人数にして三十人以上はいるだろう。年齢はまちまちだった。二十代前半の青年が中心だったが、三十代半ばの男も少なくはない。男たちの全身から噴き出した大量の汗が、乾いた地面を黒く塗り潰すかのようだった。
晴れやかな青空の下、吹き抜ける風が、軽い運動をしたばかりの体に心地いい。
そこは、バルサー要塞の堅固な城壁の内部だった。中心に聳え立つ壮麗というよりは剛毅な印象を与える天守、その少し南に運動をするのに適した広場がある。元々、要塞に常駐していたガンディアの兵士たちが訓練に使っていた場所らしいのだが、ルクスは、バルサー要塞に留まることになって以来、毎日のようにこの場所で訓練に精を出していた。
そうでもしなければ、気が狂いそうなほどに退屈だったのだ。
ガンディアとの契約期間の延長によってバルサー要塞に留まることになった《蒼き風》の面々だったが、実際のところ、彼らがすべきことなどほとんどないといってもよかった。いわば、ログナーへの牽制である。
戦後、取り戻したばかりの要塞を再び奪い返されないために、ある程度の戦力を残す必要に迫られたレオンガンドが下した結論でもあった。つまり、ガンディアの正規兵は頼りにならないということであり、傭兵たちこそ信頼できるということに違いなかった。それは当然の結論だった。
ガンディア軍の戦場でのあの腰の引け具合を見たならば、そういった決断を下さざるを得ないだろう。無論、兵士たちとて全員が全員、惰弱ではない。一部には、みずからの命も顧みずに果敢な攻撃を行ったものもいる。数で上回る敵軍に物怖じせず、勇敢に戦い抜いたものもいる。
しかし、ガンディア兵の大多数が、最後の最後で醜態を曝したのだ――。
(いや……それも仕方ないか)
彼は頭を振って、みずからの考えを打ち消した。思い返す。ルクスたち歴戦の猛者ならばこそ、彼の在り様を受け入れることができたのかもしれない。
荒れ狂う暴風の如く戦場を駆け抜けたひとりの少年、その脅威を。
その力は、あまりにも強大すぎたのだ。あまりにも苛烈であり、あまりにも凶悪だったのだ。
だからこそ、兵士たちは、セツナに恐怖を抱いたのだろう。畏れ、慄いたのだろう。身動ぎひとつ取れないものもいただろうし、なにより、彼の凄まじさに卒倒してしまったものもいるのだとか。
ともかくも酷い有様だった。
ルクスの記憶にもないくらいの惨状だった。
(惨状……か。ひどいな)
ルクスは、自分の言葉に苦笑した。セツナの凶悪なまでの活躍振りを惨状と評するのは、あまりにも失礼だろう。彼は彼なりに力を尽くしただけなのだ。だれよりも純粋に、役割を果たしただけに過ぎない。その様子がいかに悪魔的であろうとも、悲惨なものではないはずだ。
もっとも、気高く清らかなものでもないのだろうが。
「手柄、ですか……?」
と、ルクスの意識を現世に呼び戻したのは、若い男だった。黒髪の青年は、手にした木剣を杖代わりに立ち上がると、一呼吸置いてからこちらに向き直った。《蒼き風》の傭兵ではない。ガンディアの正規兵であり、アルガザード将軍とともにバルサー要塞に駐留することになったひとりだ。それは彼以外の倒れている全員にも言えることではあるが。
そうなのだ。
ルクスが、今もなお地面に倒れ伏し、立ち上がることさえままならない男たちに呆れないのは、彼らから多少の向上心を感じ取ることができるからだ。それは、彼ら約三十名の兵士がみずからの意志で、ルクスの鍛錬に付き合っていることからもわかるだろう。
彼らが、訓練を付けてくれと、志願してきたのだ。
一介の傭兵風情に過ぎないルクスに、である。
これにはさすがのルクスも目を丸くしたし、同時に、ガンディアもまだまだ捨てたものでもないかもしれないと想ったのだ。
彼らも彼らなりに考えていたのだろう。
あの戦いにおいて、自分たちの果たした役割とはなんだったのか。そもそも役割を果たせたのか、なにかできたのか、ただその場にいただけではないのか。弱兵の謗りを受け続けることに納得できるのか――。
「そ。手柄。君らがもっとしっかりしていれば、セツナなんかに手柄を奪われずに済んだってこと」
「そんな無茶な!?」
大袈裟なまでの悲鳴を上げたのは、立ち上がったひとりだけではなかった。倒れたままの兵士たちも、ルクスの言動に打ちのめされたかのような声を発していた。
ルクスは、予想以上の反応に満足した。微笑する。
「ま、冗談はこれくらいにして、続きをやるかい?」
「じょ、冗談……って」
たかがそれくらいのことで崩れ落ちそうな青年の様子に、ルクスは、木剣を構えるのをやめた。彼は立っているのがやっとなのだ。全身から疲労感が滲み出ている。これでは木剣を振るうこともままならない。訓練にもならないだろう。
それはやはりほかの兵士たちも同様であり、地に伏す彼らを見回して、ルクスは、ひとまず訓練を切り上げようとした。時間にして約二時間ほどではあったが、ルクスにとっては良い運動といった程度のものだった。彼らを訓練をしていてもみずからを鍛えることにはならない。それもわかってはいたことだが。
「おお、やってるな。相変わらず死屍累々じゃねえか!」
野太い男の声に、ルクスは、全力でそちらを振り返った。《蒼き風》団長シグルド=フォリアーの巨躯が、威圧感たっぷりに近づいてくるのが見えた。無論、彼とて周囲を威圧しながら歩いているつもりはないはずだ。しかし、鍛え上げられた肉体と野生の猛獣を想起させる風貌は、他者を圧倒せざるを得ないだろう。
もっとも、いまはその顔には、似つかわしくないくらいに清々しい笑みが湛えられていたが。
ルクスは、勤めて冷静に告げた。
「団長、怖いよ。顔、怖いよ」
「――!」
ルクスがシグルドに追い掛け回される羽目になったのは、言うまでもない。