第四百十六話 獅子と龍
レオンガンドは、一瞬、なにが起こったのかわからなかった。
いろいろなことがありすぎて混乱していた、というわけではない。ザルワーンの国主ミレルバス=ライバーンが単身で本陣に特攻してきたこともそうだが、戦場に渦巻く光の乱舞も、事前の報告でわかっていたことだ。
ミレルバスが単身、防衛網を突破できるほどの武力を有しているなどということは知らなかったとはいえ、起きている現実に戸惑うことはない。冷静に考えなくても異常なことではあるのだが、彼が召喚武装を用いているとすれば、考えられない話ではない。召喚武装は、たとえどれほど微力なものであっても、通常の兵器とは比べ物にならないのだ。もちろん、召喚武装を扱うのはたやすいことではない。セツナでさえ、黒き矛の支配に苦心しているというのだ。通常人が召喚武装を操るというのは、難しいものなのだろう。
ミレルバスが手にしているのは一見何の変哲もない太刀だったが、それが召喚武装ではないとは言い切れなかった。太刀の一閃で兵を鎧ごと切り裂くだけでなく、アーリアの攻撃を凌いだときには空いた口が塞がらなかった。ミレルバスは、間違いなく、アーリアの攻撃を見切っていた。
結果、あと一歩、というところまで接近を許した。
満身創痍の、鬼のような形相の男が迫ってくるのだ。
レオンガンドは肝を冷やしたものの、いまになって考えれば、ミレルバスの斬撃が彼に届くことはなかった。いま現在、レオンガンドとミレルバスの距離は大きく開いている。アーリアが、レオンガンドの体を後方に移したからだ。アーリアは、レオンガンドとミレルバスの間に姿を見せている。垂らした両手から伸びた無数の鋼線が、彼女の全周囲に複雑怪奇な結界を構築している。
このような事態にならずとも、ミレルバスは、レオンガンドに到達することはできなかったのだ。
(なにが起きたんだ?)
彼は、本陣に満ちた沈黙の中で、ミレルバスの体が崩れ落ちるさまを見ていた。あと一歩のところまで踏み込んできた彼の鬼気迫る顔を思い出すだけで、寒気がする。生への執着を捨て去ったものだけが持ち得る覚悟の表情。死、そのものではなかったか。
だが、死の刃がレオンガンドに届くよりも先に、別の死がミレルバスを貫いた。光だ。少し前から戦場を賑わせていた光と同質の光が、突如としてレオンガンドの視界に現れ、ひとの形を成した。それがメリスオールの猛将グレイ=バルゼルグだとわかったのは、記憶力の賜物だろう。
グレイ=バルゼルグの姿となった光は、槍を閃かせ、ミレルバスの背中に突き刺したのだ。槍は、見事にミレルバスの体を貫き、ミレルバスの太刀は空を切った。
『報いたぞ』
グレイ=バルゼルグの声が聞こえたのも束の間、まるで白昼夢でも見ていたかのように、猛将の姿は虚空へと溶けて消えた。しかし、それが夢でも幻でもないということは、ミレルバスの様子を見れば明らかだった。
背中から胸を貫かれたミレルバスは、まさに瀕死といっていい状態だった。槍はグレイ=バルゼルグとともに消え去ったものの、いや、だからこそ流れ出る血を止めることもできないのだ。血の流出は、命が流れ落ちるのと同じだ。流れ尽きれば、命は終わる。彼は死ぬ。
「はっ……ははは」
ミレルバスが乾いた笑い声を上げるのを聞いて、レオンガンドは現実に舞い戻ったのを実感した。呼吸を整え、額の汗を拭う。背後を一瞥すれば、ナージュたちの無事な姿を確認できる。レオンガンドを護るために壁になろうとした姫君と侍女たちも、アーリアの鋼線によって後方に退けられていた。彼女たちも、なにが起きたのか理解し難いといった表情をしていた。
それは、本陣にいる全員の共通認識だろう。
なにが起きたのか。
見たままのことが起きた、としかいいようがない。ミレルバスの本陣特攻は成功したものの、レオンガンドを殺す事はできなかった、ということだ。突如として出現した光が、どういう理由か実体を得、ミレルバスに致命的な一撃を突きつけた。彼の体は崩れ落ち、いまや虫の息だ。
呆然としているのは、レオンガンドだけではない。ゼフィルもバレットも、ラクサスにミシェルといった騎士たちに、アーリアですら、戸惑いの顔を見せている。
それだけのことが起きたのだ。
レオンガンドは、小さく息を吐くと、ミレルバスに歩み寄ろうとした。アーリアが視線で警告を発してくるが、彼はそれを無視するように糸の結界に足を踏み入れる。アーリアの糸は、レオンガンドを傷つけまいと、完璧な防壁を解いていく、
ミレルバスへの道すがらアーリアの肩に触れ、労をねぎらうと、彼女は無言のまま姿を消した。もちろん、本当に消えたわけではない。レオンガンドたちの認識から消えただけだ。消えたからといって不安がる必要もない。いつものように見守ってくれているに違いないのだ。
前方、前のめりに崩れ落ちていたミレルバスは、ただ、こちらを見据えている。その目には力がある。精気がある。とても、瀕死の人間がする目ではなかった。一瞬、気圧され、レオンガンドは足を止めたものの、すぐさま歩行を再開した。眼力に負けるわけにはいかなかった。
近寄ると、ミレルバスは、おもむろに体を転がした。うつ伏せよりも仰向けのほうが、気分的に楽だったのかもしれない。瀕死の重傷。気が楽になることなどありはしないのだが。
数多の命を吸ったのであろう太刀は、彼の手から離れている。手を伸ばしても届かない位置に転がっていた。おそらく、アーリアがやったのだ。彼女は、いつだって、レオンガンドの身を案じてくれている。
「わ、たしの……負け、か」
ミレルバスは、絞りだすように言葉を紡いできた。声を発することすら困難なくせに、目だけは、ぎらぎらと輝いている。勝機を逃すまいとしている、そんな目だ。そんな相手に近寄るべきではないのだろうが、レオンガンドは、ミレルバスの死に様を見届けなければならないという使命感に駆られた。長年の宿敵ともいえる国の王が死ぬのだ。落日の時を、この目に焼き付ける義務があった。くだらない感傷だと切り捨てることは簡単だった。それが正しい。そうするべきだと、レオンガンドの中の冷徹な意志が囁いている。しかし、彼が死ぬのを遠くから眺めることなど、だれにだってできるのだ。それこそ、本陣の守備部隊だって構わない。しかし、ミレルバス=ライバーンの最期を至近距離で看取ることができるのは、この本陣にいる人間にしかできないことだ。ならば、レオンガンドが為さねばならない。
何十年。いや、何百年。
ガンディアとザルワーンの長きに渡る闘争も、ようやく終わろうとしている。その最後を飾るのは、どちらかの王の死でなければならない。そしていま、ザルワーンの国主ミレルバス=ライバーンの死によって幕が引かれようとしている。
「そうだ。あなたの負けだ。ミレルバス=ライバーン」
レオンガンドはそう告げたものの、自分の勝ちを誇るつもりはなかった。勝利の実感など、あるはずもない。戦ったのは、彼ではない。彼の手足となって働いた側近がいて、大将軍がいて、将軍たち、軍団があり、兵士たちがいた。同盟三国の支援があり、傭兵たちがいた。彼がなしたことなどなにもないといってもいい。
ひとつあるとすれば、戦争に踏み切る決断を下したことくらいだ。あのとき、ナーレス=ラグナホルンの工作が明るみになり、身柄が拘束されたことが判明したとき、レオンガンドは決断を迫られた。五年に渡るナーレスの内部工作を無駄にしないためには、即座にザルワーンに攻めこむしかなかった。でなければ、ナーレスの工作が無駄になる。シウスクラウド最後の策謀が無為に終わる。レルガ兄弟の死も無意味になる。選ぶ道はひとつしかなかった。
レオンガンドでなくとも、戦争に踏み切っただろう。
そういう意味では、レオンガンドはなにもしていないといえるし、やるべきことをやっただけともいえる。
レオンガンドは、静かに告げた。
「戦いは終わる。あなたの死によって、幕が下りる」
報告によれば、戦況もこちらが優勢であり、全体を通しての勝利も目前だった。ガンディアがザルワーンを下すのも間近だったのだ。そんな中で、ミレルバスの本陣への到達を許したことは、本来ならばあってはならないことだ。敗北に等しい。喉元に刃を突きつけられたのも同じだ。
無論、レオンガンドが無事である以上、敗北には程遠いのだが、それに近い感情が彼の胸中に渦巻いていた。敗北感がある。
それに比べ、ミレルバスの表情は、負けを認めてはいなかったのだ。