第四百十五話 一瞬、一歩、一矢
「これ以上は進ませんっ!」
追い縋る敵兵の腕を振り向きざまに切り飛ばすと、ミレルバスは、相手の悲鳴も聞かずに前進を再開した。地を蹴り、飛ぶように駆け出す。
前方にもはや障害物はない。平坦な大地は、こういうときには役に立った。土地の性質なのか、土砂降りの雨の後でも泥濘んではいない。全力で走っても、地に足を取られて転ぶようなことはなさそうだ。
大気を劈く音が無数に聞こえた。
矢だ。
防衛網から離れた途端に武器を弓に持ち替えた、ということだろうが、おそろしく精度が悪い。一本もミレルバスに当たるどころか、掠りもしなかった。ミレルバスが全速力で移動しているというのもあるだろうが、なんとしてでもミレルバスを止めようと弓射を急いだからでもある。
それに、ミレルバスを追いかける兵士の存在も大きい。ミレルバスを射抜くどころか、味方を射殺してしまっては目も当てられない。
自然、矢は大きな弧を描き、ミレルバスの前方に降り注ぐ。それも、次第に数が減っていく。本陣が近づいたからだ。本陣に矢を射かけることなどできるはずもない。
ガンディア軍の本陣は、もうすぐそこだった。
ガンディアの兵がそれだけ追い縋ってこようとも、彼の進撃を阻むものはもはやいない。ただの直線に障害はなく、直進すればいいだけだった。しかも走りやすい平地。
彼はさらに力を振り絞った。大地を蹴るようにして前に飛ぶ。背後から聞こえる怒号も罵声も、彼の背を押す力になる。前方、変化があった。本陣に隠れていたらしい兵士たちが彼の道を塞いだ。レオンガンドの親衛隊や近衛兵といったところか。しかし、壁は薄い。ここに至るまで幾重もの防壁を破ってきたのだ。いまさら、一枚の壁で止められるはずもない。
ミレルバスは、薄い肉壁の向こう側に立ち尽くす青年を見た。ガンディアの伝説に謳われる銀獅子を模した甲冑を纏う人物は、間違いなくレオンガンド・レイ=ガンディアだった。噂通り、男さえも虜にするような見目麗しい青年だった。
(二十年……成長したものだ)
ミレルバスの記憶の中のレオンガンドは、下膨れの可愛らしい子供だった。シウスクラウドとともにザルワーンを訪れたレオンガンドは、当時三歳でありながら、聡明で、利発そうな顔をしていた。シウスクラウドの英雄性を受け継いだのだろうと、彼を見た誰もが褒めそやした。当時、ザルワーンとガンディアの関係は、それほど悪くはなかったのだ。本格的に悪化したのは、シウスクラウドらの帰国後のことであり、ザルワーン訪問中の出来事が原因だったのだろう。それは、ガンディアがザルワーンを嫌悪するのには十分過ぎる理由になった。
それから二十年の月日が流れた。
時は流れ、状況は変わった。国を取り巻く情勢も、ひとを取り巻く環境も、大いに変化した。ザルワーンは暴君マーシアス=ヴリディアの死により、ミレルバスが新たな国主の座についた。そして、ザルワーンはログナーを属国として支配し、ガンディア侵攻への準備を進めた。
ガンディアは、長年病床に臥せっていたシウスクラウドが死に、レオンガンドが王座についた。ガンディアの“うつけ”の噂は、ザルワーンを含め、近隣諸国をある意味で安心させたものの、それがただの噂に過ぎなかったことを思い知らされるのも時間の問題だった。
情勢は変わった。激変した。ザルワーンは内乱や内紛の対応に追われ、準備を進めていたガンディア侵攻に踏み切ることができないという状況が続いた。そんな中で、ガンディアがバルサー要塞を取り戻し、息を吹き返した。ログナーへの侵攻と平定。ガンディアは、拡大を続けた。
状況は変わった。なにもかもが変わり果てた。信頼していたナーレス=ラグナホルンが、実はミレルバスを裏切り続けていたということが発覚した。ナーレスは、ガンディアの先王シウスクラウドの策によってザルワーンに入り込み、内部から破滅させるために暗躍していたのだ。埋伏の毒だ。
もっとも、ミレルバスはナーレスが毒であるという可能性を知りながら呷ったのだ。毒にも薬にもならない凡才よりも、猛毒にして神薬たる天才を欲した。結果、ログナーを征することができたのだから、その時点では間違いではなかったのだろう。しかし、ミレルバスは彼を信用しすぎた。頼りすぎた。なにをするにも、ナーレスの意見を聞いた。すべての意見を聞き入れたわけではないにせよ、そういった行動が積み重なって、ザルワーンは弱体化していったのだろう。
(だれのせいでもないさ)
なにもかも、ミレルバスの責任だった。
周囲の反対を押し切ってナーレスを登用したのもミレルバスであり、ナーレスを信用し、重役に据えたのも彼自身だ。ナーレスは次第にザルワーンの人々からも信頼を得て行ったものの、それもこれも、ミレルバスが彼を信用していたからだろう。もし、ミレルバスがナーレスにわずかでも疑いを持っていたのならば、そんなことにはならなかったかもしれない。
事態は激変した。ナーレスがガンディアの工作員だということが判明し、彼を拘束して数日、ガンディアの軍勢がナグラシアを強襲、陥落させたという報が入った。ナーレスの拘束からザルワーン侵攻に至るまでの日数の短さは、ミレルバスたちを驚かせた。ザルワーンはまだナーレスの敷いた体制のままであり、ガンディアの侵攻に対応するのは難しかった。
そうするうちに、ガンディアの本隊がナグラシアに到達した。ガンディアは部隊を三つに分け、ザルワーンの各地に差し向けた。難攻不落のバハンダールも、マルウェールも、ゼオルも、ガンディアの手に落ちた。ジナーヴィの軍勢も、ミリュウの軍勢も、敗れ去った。連戦連敗。残存戦力はわずかばかり。守護龍の召喚に踏み切ったのは、正解だったのか、どうか。寿命がわずかに伸びただけのことだ。そんなものに意味はなかったのかもしれない。黒き矛と白き盾の存在する戦場で、華々しく散るというのも悪くはなかったのではないか。
(いや、違うな)
彼は胸中で頭を振ると、盾を構える敵兵の群れを一瞥した。一枚の肉壁。その向こう側に倒すべき敵がいる。ただひとり、殺さなくてはならない人物がいる。レオンガンド。彼は、逃げようともしなかった。こちらの接近を認識しているはずだが、表情に大きな変化は見えない。ただ、剣を抜いた。ガンディアの宝剣グラスオリオンではない。幅広の長剣。その隣の女も、手前の女達も剣を手にした。男どももだ。迎え撃つつもりらしい。彼は、鼻で笑った。
「止められるものか」
低く、翔ぶ。
「陛下に近づけさせるな!」
「命を捨てよ!」
叫び声がふたつ、ミレルバスの耳に届く。防壁が一斉に動き出した。壁が崩れたと思うと、まるで矢のように飛び出してくる。翔ぶように駆けているのはこちらも同じだ。距離は、あっという間に近づいていく。交錯する。剣や手槍、手斧など、思い思いの武器を手にした兵士たちの連携攻撃を太刀と体捌きでやり過ごし、立ち止まらない。進む。本陣目前、派手な甲冑の騎士がふたり、同時に攻撃を仕掛けてくるが、これは飛び越えることで無視する。着地。眼前に褐色の男が殺到してきていた。曲刀がうなりを上げて落ちてくる。左へ転がる。つぎは細剣による突きがきたが、これは太刀の柄頭で弾く。口髭の男が驚いた瞬間には、彼はその男に足払いをしかけている。転倒するのを見届けるまでもなく、本陣の中心へ。女達が立ち塞がったかと思うと、レオンガンドが進み出てきた。若き獅子王の甘い自尊心が、女を盾にすることを許せなかったと見るべきか。
(甘いのだ)
白銀の獅子王は、こちらを見ていた。透き通るような青い目は、二十年前からなにも変わっていないように思えた。透明な、鏡のような瞳。そこに映るのは、龍の甲冑を纏う老将然とした男。ミレルバス=ライバーン。失った左腕からは血が流れ続けている。
「よくもここまで来たものですね、ミレルバス。ミレルバス=ライバーン」
レオンガンドが剣を構えた。装飾も派手な幅広の剣は、とても実用に耐える代物には見えない。儀礼用の剣のように見えるのだが、実際のところはわからない。召喚武装かもしれない。召喚武装を用いるのは、必ずしも武装召喚師である必要はないのだ。ただし、だれでも簡単に扱えるものでもないのだが、警戒する必要はあった。
「二十年ぶり、とでもいっておくべきかな」
ミレルバスは、つぶやきながら、相手との距離を測った。距離は、短い。あと少し踏み込めば、太刀でレオンガンドの素っ首を叩き落とすことができるほどの間合いだ。もっとも、その少しの距離を詰めるには、全方位に散在する敵の攻撃を掻い潜らなければならず、簡単なことではない。
彼は胸中で嗤った。
それは、ミレルバスが生存を望んだ場合の話であり、もはや生に執着のない彼には関係のない話だった。
「再会を喜ぶには、物騒に過ぎますよ」
「お互い様だ」
ミレルバスは、周囲の敵が動き出すよりも早く、踏み込んだ。最後の跳躍。勝利への跳躍。レオンガンドは表情をかけらも崩さない。構えた剣は微動だにせず、彼の足も動かない。しかし、ミレルバスの目に映る空間に揺らぎが生じた。大気が奇妙な動きを見せたかと思うと、目に映らないなにかが彼の喉元に迫ってくる。
「見えている!」
彼は瞬時に太刀を振り回し、そのなにかを切り裂いた。千切れた鋼線が視界を彩る。レオンガンドの表情が歪んだ。あと一歩。彼は止まらない。まだ、なにかが来る。今度は、左腕の残りを差し出した。鋼線が巻きつき、上腕がでたらめに寸断された。血飛沫と肉片が舞う。若き獅子王が愕然と目を見開いた。瞬間、閃光が、網膜の裏に弾けた。
『報いたぞ』
声は、耳元で聞こえた。
そのときには、衝撃が背中を貫いている。
「はっ……」
凄まじい痛みの中で、ミレルバスは、なにが起こったのかを即座に把握した。英雄薬の超感覚が現状を認識させるのだ。
光の中から出現したグレイ=バルゼルグの槍が、ミレルバスの背中から胸を貫いていた。