第四十話 王の決意
「悲鳴?」
情けない少年の叫び声が、それよりもさらに巨大な喧騒の中に飲み込まれていくのを耳にして、彼は、怪訝な表情になった。若い男だ。年のころは二十代前半といったところだろう。金髪碧眼――目鼻立ちも整い、貴公子然とした容貌でありながら、どこか憂鬱そうな印象を与えるのは彼の性格によるところが大きいのかもしれない。背丈は平均的なものではあるものの、鍛えられた肉体は彼がただの貴公子などではないことを表していた。
ルウファ=バルガザール。白翁将軍アルガザード=バルガザールの三人の息子のうちのひとりであり、次男に当たる人物である。
王都ガンディオンの《群臣街》で生活している彼が《市街》を出歩くのは、なにも特別なことではない。《群臣街》などと大層に言っているものの、要するに将士文官などの住宅街に過ぎず、娯楽や暇潰しを求めるのなら、《市街》へ繰り出すしかないのだ。一介の兵士であれ、有能な騎士であれ、退屈な住宅街で日がな一日過ごしたくはないものだ。
もっとも、今のルウファに遊びに現を抜かしている余裕などはなかったが。
ガンディオン《市街》マルス区大通りを歩いていく。
レオンガンド王の帰還と勝利の報は、ガンディオンを数日に渡って熱狂で包み込んでいた。臣民の騒ぎ方が尋常ではないのは、何年にも及んで溜まりに溜まった鬱憤や不満、不安を一気に解放してしまったからだろう。
それも致し方のないことだと、ルウファは想っていた。
レオンガンドが〝うつけ〟だという出所不明の情報を信じ込み、ガンディアの未来に絶望していた人々が、やっとの想いで、その悪夢から抜け出すことができたのだ。何年も何年も抱き続けた不安や恐怖が取り除けられたのだ。少なくともレオンガンド王は暗愚ではないのだろう、と思えたのだ。
確信するにはまだ早い。
だが、絶望から解き放たれるには十分な現実には違いなかった。希望が生まれたのだ。それだけで、世界は薔薇色に変わる。
(希望さえあれば、ね)
ルウファは、自分の手を見下ろした。厳しくも激しい鍛錬の中、彼の手は傷だらけになっていた。それは、かつての己の未熟さを証明するものではあるが、現在の彼の実力を示すものにはなりえないだろう。第一、なにひとつ成果を出していない。戦場に立つこともままならないのだ。
「ねえねえ」
不意に彼の袖を引いたのは、弟のロナン=バルガザールだった。ルウファと六歳も離れたロナンは、一言で言えば童顔である。大きな眼と、朱が差したような唇など、十六歳という年齢以上に幼く見える顔立ちをしており、精神的にもかなり幼稚といっていい。それは、少なくともロナン本人というより甘やかしすぎた周りに原因があったと見るべきだろう。
とはいえ、必ずしもロナン自身に責任がないとも言い切れないのが困ったところなのだが。
ルウファは、ロナンに目を向けた。彼よりも身の丈の低い少年は、なにやら通りのほうを熱心に見つめている様子だった。
「どうしたんだ?」
「見てよ、あれ」
促されるままに前方に視線を向けると、大通りの左側を埋め尽くす集団に目が留まった。凄まじい人だかりだった。まるで局所的なお祭りでも開催しているかのような有様であり、実際、その場に集まった人々はなにかしら騒いでいるようだった。
奇声、悲鳴、嬌声、歓声――さまざまな声が入り乱れ、だれがなにを言っているのかまったくわからない状況だった。例え至近距離まで近づいたとしても、正確に把握することは困難に違いない。
老若男女入り乱れての喧騒は、このお祭り騒ぎの中にあっても、いったい何事か? と首を傾げざるを得ないだろう。事実、遠巻きにその光景を見ている人々は、ルウファと同様に不思議そうな表情を浮かべていた。
「えーと……なんなんだ?」
要領を得ないまま、ルウファは、ロナンを再び見た。答えを期待したのではない。ほかに取るべき行動も考えられなかったのだ。
と、ロナンはこちらに向かって満面の笑みを浮かべてきた。その曇りひとつない笑顔がいつも以上に幼く見えたのは、ある意味当然なのかもしれない。。
「あの中にセツナ=カミヤがいるんだってさ」
「黒き矛のセツナが?」
ルウファの声が若干上擦ってしまったのは、あまりにも驚いたからに過ぎない。しかし、それが事実ならば合点のいく話ではあった。彼が実際あの中にいるのならば、市民が暴走気味になるのもうなずけるのだ。あの絶望の日々を打ち破った戦いの勝利の立役者として、レオンガンド王が直々に名を上げた人物なのだから。
(セツナ=カミヤが!)
それは、ルウファとて同様だった。王が絶賛するだけではない。兵士たちの口々から漏れる言葉のほとんどが、彼への賞賛であり、畏敬であり、恐怖であったのだ。それほどまでの人物が、眼前にいるというのだ。これに興奮を覚えずして、なにに興奮するというのだろう。
セツナ=カミヤ。公表された情報によれば、《大陸召喚師協会》に未登録の武装召喚師。年齢は十七歳。ということは、ロナンよりひとつ年上である。が、それでも少年といって差し支えのない年齢であり、にも関わらず全軍を上げて賞賛するほどの戦果を残したのだとしたら、彼がどれほどまでに凄まじい武装を召喚したのか想像するだに恐ろしいものがある。
今回の戦いでは、傭兵としての参加であったという。名高い《蒼き風》と行動をともにし、戦局を一変させる戦いぶりによってガンディア軍に圧倒的な勝利をもたらしたのだ。
セツナ=カミヤの象徴として語られるのは、黒き矛であった。彼の召喚武装なのだろう。禍々しい異形の矛らしいのだが、実物を見ていない以上、どう判断していいのはわからない表現ではある。
ともかくも、その矛を手にしたセツナは、天魔鬼神の如く敵軍を蹴散らしたのだとか。
「サイン欲しいなあ」
ロナンの何気ない一言に、ルウファの意識は現実に舞い戻った。勤めて冷静な顔で、彼はロナンを見つめた。
「さっき白聖騎士隊の副長からもらったばかりじゃないか」
さっきとは、ほんの半時間くらい前のことだ。白聖騎士隊。同盟国ルシオンが誇るハルベルク王子直属の騎兵部隊であり、リノンクレアが隊長を務めているということもあって、ガンディア国民にとっても馴染み深い組織だ。そして、喧伝されるその強さと見た目にもわかる華やかさから、人気もあった。
ルウファたちが出会ったのは、その副長リーザ=スウェンディを始めとする一団であり、彼女らは臨時休暇を楽しむためガンディオンを散策していたらしい。
「いいじゃん、別に」
「なんでおまえは有名人を見るとそうなるかなあ」
「だって! 欲しいんだもん」
ロナンの実に子供っぽい受け答えに、ルウファは笑いを押し殺すのに必死だった。存在自体に愛嬌が満ちており、彼の前ではどんな堅物であれ、相好を崩さざるを得ない。
「理由になってないなあ。ということで、減点」
「なにが!?」
愕然とする弟を尻目に、ルウファは、視線を人だかりへと戻した。未だに騒ぎ続けているということは、その中に、本当にセツナ=カミヤがいるのだろう。が、それにしても騒ぎすぎている。
浮かれているのだ。
だれも彼も。
王侯貴族は言うに及ばず、群臣の多くも此度の勝利の美酒をあおり、酩酊しているのではないかと疑うほどだ。市民が熱狂に飲まれるのも無理はない。
もっとも、実際にバルサー平原での戦いを経験した兵士のほとんどは、無事生還できたことを大袈裟なまでに喜んでいたとはいえ、王都凱旋以降、驚くほど冷静な様子だった。それは、彼らの存在が戦局を左右したわけではなく(無論、不要だったわけではないだろう)、どこの馬の骨ともわからない武装召喚師ひとりの活躍によって、勝利が転がり込んできただけなのだ。
もちろん、最前線に立つ兵士たちは命がけだったのだろうし、死傷者もいないわけではない。不幸にも命を落としたものもいる。しかしだからといって、彼らが弱兵の謗りを免れ得ない働きぶりだったのは、自他共に認めるしかないはずだった。そして、その事実に納得できないというものたちがいてもおかしくはない。
(ま、そう考えるだけましだな)
ガンディアの兵士が、弱兵の烙印を押されて久しい。にも関わらず、半年前まで国土を維持できていたのは奇跡的な事実であり、考えれば、バルサー要塞の陥落は予想の範疇の出来事に違いなかった。とはいえ、難攻不落という神話を敵も味方も信じていた当時、バルサー要塞が落ちたという報が王都にもたらされたとき、天地がひっくり返るほどの衝撃がガンディオンを震わせた。
市民は愚か、兵士たちも、いつか来るであろうログナーの王都侵攻に恐れ戦いたという。
それから半年あまり。
脆弱な兵士たちとともに王都を発ったレオンガンド王は、セツナ=カミヤという切り札を用いて要塞を奪還、見事なまでの勝利とともに帰還を果たした。従軍した兵士たちの意識に多少の変化があったのだとしたら、それは予想外の出来事ではあれ、悪い兆候ではないだろう。少なくとも、弱兵という評価から脱却しようという気概が、若い兵士たちからはひしひしと感じられるのだ。
(アレンにマイス、ゲイルも頑張ってる)
ルウファの脳裏に浮かんだのは、アルガザード=バルガザールの元で働く若い兵士たちの姿だった。今日も早朝訓練に精を出していた彼らの意気は高く、その向上心の澄み切った輝きは、彼にとって好ましいものだった。
だからこそ、ルウファは、いまこうして《市街》を歩いているのだ。ロナンからの提案には当初から気が乗らなかったのだが、兵士たちの今朝の訓練の様子を見て、考えを改めたのだ。気が向かない、億劫だ、などといって逃げるのがもっとも恥ずべきなのだと、理解したのだ。
「行こうか」
「うん」
「サインはいいのか?」
「だって、あの状態だし」
ロナンの返答に、ルウファは苦笑を隠さなかった。勝利の立役者を中心とする人だかりは、時とともに膨大化していっていた。何百人という人間が押し寄せ、もみくちゃになっていた。ひとびとの怒号や罵声が飛び交い、子供の泣き声や、悲鳴も聞こえる。
大惨事、とでもいうべきかもしれない。
と。
(ん……?)
ルウファは、その人ごみの中からひとりの少年がこっそりと抜け出していくのを見逃さなかった。十代後半のどこにでもいそうな、それでいてどこにもいなさそうな少年だった。黒髪と赤い瞳が特徴といえば特徴だろうか。中肉中背ではあるものの、多少は引き締まって見えた。
少年は、だれかを探すかのように周囲を見回したものの、探し相手が見当たらないことに落胆すると、人だかりを一瞥し、嘆息した。
そのとき、ルウファの脳裏に電流のようなものが走った。
(セツナ=カミヤ!)
直感は即座に確信となり、彼は、喜悦に震える体をどうすることもできなかった。そして、弟を一瞥する。
「兄さんの件はおまえに任せた!」
「へ?」
呆気に取られるロナンを背後に、ルウファの足は地を蹴っていた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「幸運だったのでしょうか? それとも、必然ですか?」
リノンクレア・レーヴェ=ルシオンの問いに、レオンガンド・レイ=ガンディアは、眼前に広げた書類から視線を外した。静かに彼女を見遣る。リノンクレアは、部屋の片隅でくつろいでいる様子だった。
「勝利は必然だよ。そのための戦いなんだからね」
告げて、レオンガンドは、手に取ったティーカップに口をつけた。冷め切った紅茶の喉越しは、決して悪いものではない。
《森の蔵》は、獅子王宮を囲うように広がる《王家の森》の南側、その奥深くに存在していた。鬱蒼たる静寂に包まれたその建物は、その名の通り、王宮で不要となった物品を保管しておくための場所であり、本来の用途を考えれば、ガンディアの王や他国の王子の妃がくつろぐような空間ではなかった。
しかし、レオンガンドもリノンクレアも、倉庫だという事実を特に気にした様子もなく、乱雑とした空間の中で、それぞれが想うままに時を過ごしていた。ここは、ふたりにとって子供の頃からの隠れ家であり、数少ない安息の場所であった。レオンガンドが、子供の頃に戻ったような錯覚を抱いたとしても、不思議ではないのだ。
倉庫として使われるだけあって、広い空間である。王宮で使われなくなった食器などが整理されているのであろう木箱が、所狭しと積み上げられている。ふたりは、その木箱を適当に見繕って並べ、机と椅子に見立てて使用しているのだ。室内は暗闇に覆われているが、ふたりとも携行用の魔晶灯を手元に置いているため、光源は十分にあった。
「必然?」
「そ、必然。でも、そうでなきゃ戦争なんて仕掛けるものじゃないだろう? 必ず勝てるような状況を整え、さらに吟味に吟味を重ねた上で、ようやく戦いに赴くものさ。戦場で奇跡を期待してはいけない」
それはレオンガンドの持論というよりは、アルガザード=バルガザールからの受け売りだった。もっとも、いまではレオンガンドの行動原理になりつつあるのだ。勝ち目のない戦いは起こしてはいけない、ということだ。
「セツナは?」
「保険みたいなものだよ」
臆面もなく答える。実際、その通りなのだから仕方がない。多少の期待はしていたものの、それにしたって、敵の戦力を多少なりとでも削ってくれればいいという程度のものだった。
「ま、彼に関しては俺も驚くばかりさ。彼のおかげで、犠牲は最小限に抑えられたんだ。そればかりは、奇跡といってもいいんじゃないかな」
「セツナがいなければ危うかったように思いますが」
魔晶灯の光を反射するリノンクレアの瞳の冷ややかさに、レオンガンドは、ふっと笑った。確かに、セツナのいなかった場合を考えれば、ガンディア軍は窮地に立たされたはずだと想うだろう。
「そうでもないさ。バルサー要塞が空になるのはわかっていたし、ミオンの突撃将軍の機動力なら、空の要塞を手に入れることなんて造作もないだろう?」
「空になるのがわかっていた……?」
「ジオ将軍に吐き出させたんだよ、全兵力をね」
軽く告げて、レオンガンドは、妹にウインクを飛ばした。リノンクレアが鼻白む様がはっきりと見えなかったのは、残念で他ならなかったが。
「どうやって……!」
「秘密。ま、そのおかげでこちらもかなりの覚悟を強いられたんだけど……それはセツナがひとりでやってくれたからね。本当に、驚嘆に値するよね、彼」
レオンガンドは瞼を閉じた。不意に訪れた暗闇の中に浮かび上がるのは、死兵と化したログナーの殿と死闘を演じる少年の鬼気迫る姿だった。悪魔、鬼神、化け物――そのときの彼を言い表すならば、なにが相応しいのだろう。あれはもはや人間ではなかった。人間業ではなかったのだ。
恐ろしくもあり、頼もしくもある。
「……兄上は、彼をどうなさるおつもりですか? セツナは現在、ガンディアの兵士ではないのでしょう?」
リノンクレアの疑問はもっともだと、レオンガンドは想った。セツナは今回、傭兵として参戦したに過ぎない。それは金銭による契約であり、契約金については戦功を加味した上で、褒賞とともに授与する予定であった。
彼はそこまで考えて、困ったように笑った。
「そう……なんだよね。そこなんだよ、悩んでいるのは」
「悩む? なにをです?」
「彼には彼の道がある。彼の生き方がある。未来がある。強制はできないだろう?」
それは優しすぎる考えかもしれない。甘いのだろう。しかし、レオンガンドはセツナのことを考えるたびに、そのように想ってしまうのだ。彼には別の未来があるのではないかと、考え込んでしまうのだ。自分からこの戦いに引っ張り出しておいて、だ。
リノンクレアが、冷笑する。
「いまさらなにを言っているんです?」
彼女は、いつになく冷ややかなまなざしだった。研ぎ澄まされた刃のように鋭利な視線は、たやすくレオンガンドの意識を切り裂いていく。その瞳は、わずかな失望を抱いていた。
レオンガンドは、自分の愚かさに気づいたものの、即座には口を開かなかった。彼女の言葉を聴いていたいと想った。
「兄上は、彼に戦場に立つことを望み、彼はそれを受諾した。彼は兄上の望みに応えるために存分に力を振るい、屍の山を築いた。それがすべてでしょう?」
リノンクレアの言葉のひとつひとつがレオンガンドの耳朶に突き刺さるたびに、彼の意識は冴え渡っていくように感じられた。酔いから醒めていくような感覚とでもいうべきか。初めての勝利に酔ったつもりなどはなかったが、もしかすると、勝利という未知の美酒に酩酊していたのかもしれないとも想う。
狂気こそ戦場に置いてきたものの、圧倒的勝利という感覚だけは引き摺り続けていたとしても、おかしくはなかった。レオンガンドとて、完璧ではない。それは昔からわかっていたことでもある。
「彼は、ログナーの敵になったはずです。憎悪の対象となったはずです。数多の兵士を殺戮した悪魔として認識されたでしょう。兄上が彼の存在を公にしたがために、その名も彼の国に知れ渡っていることでしょうね」
「……ああ」
「セツナのことを想うのなら、最初から、軽い気持ちで戦いになど誘うべきではなかった。勝てると決まっているのなら、なおさら。違いますか?」
「……その通りだ」
レオンガンドは、リノンクレアの凍てついたように輝く瞳を見つめ返して、肯定した。反論する意味もない。すべて事実なのだ。
セツナは、ログナーにとって恐るべき怨敵となったのだ。そうなった以上、彼が望む望まぬに関わらず、ログナーの刃がセツナに襲い掛かるだろう。無論、ログナーから遠く離れればその限りではない。しかし、多かれ少なかれ、彼はこれから先、みずからの名がもたらす災禍と戦っていかなければならなくなった。
ログナーとの戦いで、一騎当千の活躍をした武装召喚師の名は、瞬く間に周辺諸国を駆け巡ったはずだ。
レオンガンドが、セツナの名を口にしたがために。
「どうやら、俺は決意が足りなかったらしい。彼を巻き込んだのは俺だ。彼の意志など関係ない。彼に武器を振るわせ、その手を血で染め上げたのは俺の意志だ。俺の望みに他ならない。確固たる勝利を欲した俺の想いに、彼が持てる力の限りを尽くして応えてくれたんだ」
慟哭が、耳朶に残っている。
セツナの魂の咆哮。
「ならば俺も、彼の力に応えよう」