第四百四話 怪人対超人(二)
「うおおおおっ!」
咆哮とともに繰り出された一撃を左の剣で受け止めたものの、イリスは、あまりの重さに顔をしかめた。片手では耐え切れないと判断すると、すぐさま右の剣で左の剣を支える。二本の剣の交差部分で戦斧を受けることで耐え抜くと、ようやく敵の姿を視認する。若い男だ。若いとはいえ、イリスよりも年上であることは疑いようがない。眼力が凄まじいが、それよりも超人的な膂力を誇るイリスを圧しかねない腕力に舌を巻く。
(またか)
敵陣に突撃して以来、何十人ものザルワーン兵を斬り殺しているが、その中には雑兵とは言いがたい強敵が何人も混じっていた。超人とでもいうべきか。常人とは比較できない力を持つ彼らの攻撃は早い上に重く、まともに受ければイリスとてひとたまりもないものだった。もっとも、イリスはここに至るまで手傷らしい手傷を負ってはいない。敵陣での戦い方は心得ている。敵兵の中で上手く立ち回れば、敵は攻撃しようもない。味方を傷つけることなどできるはずがない。目の前の男のように、仲間の死体を利用することすら、普通は躊躇うものなのだ。そういった状況を作り出すことができれば、相手がいかに超人的な力を発揮しようと、敵にはならない。しかし、眼前の男は違う。龍の装飾が施された鎧兜を纏う、おそらくは部隊長以上の地位にある人物。味方の死体を利用することを躊躇わないどころか、周囲の仲間の存在などどこ吹く風で猛攻を仕掛けてくるような、戦闘狂。
イリスは、男が戦斧を片手で叩きつけてきていたことを知り、目を細める。片腕だけで、イリスの膂力を圧倒しようというのだ。彼女とすれば面白いはずがない。自分の人生が馬鹿みたいに思える。
男が斧の柄に左手を添えようとするのを見越して、後ろに飛んだ。着地先の背後の敵兵を切り捨て、戦斧の男の猛追にも対応する。突進とともに振り下ろされた戦斧を間一髪でかわすと、男の目が笑った。やっと敵に巡り会えた、とでもいいたげな表情。
「はっはー!」
地面を抉った斧を振り上げながら、男が声を上げる。豪快な笑い声に周囲の兵士たちがビクリと震えた。
「これが戦い! これが戦闘! これが、本当の!」
「戦場だぞ。本当も嘘もあるものか」
イリスは、油断なく二刀を構えると、にべもなく告げた。わずかでも余裕を見せれば負傷し、油断を見せれば命を落とす。それが戦場というものだ。常に周囲への警戒を怠らず、微妙な動きさえ見逃してはならない。特に彼女はたったひとりで敵陣に飛び込んできている。それもこれも仲間の負担を軽くするための行動だったが、だからこそ、ヘマをしてはならない。調子に乗って突っ込んで負傷するなど、笑いものになるだけだ。
全身が緊張している。程よい緊張だ。筋肉が強張りすぎず、反応が遅れることもなく、全力を出すには十分。周囲の敵兵の視線が自分と、眼前の戦斧男に集まっているのを意識する。雑兵は、この戦いに参加できまい。が、そういう思い込みが窮地を生むのだ。彼女は気を引き締め直すと、男の笑みを見つめた。
男は、戦斧を両手で握り直すと、軽く振るった。風圧が起き、イリスの頬を撫でた。
「そうだな。その通りだ。だが、俺としちゃあ、こういう戦いがしたかったんだよ」
「貴様の都合など知るか。死ね」
左前方に飛び、男の側面に回り込む。と、戦斧が地を薙ぎ払いながら追いかけてきた。全身を回転させての斬撃。
「いいぜ、そういうの。歓迎だ。大歓迎だ!」
地面を掘削しながら迫り来る戦斧を飛び越えると、隙だらけの背中が見えた。突っ込む。眼光。見られている。男が足を地に突き刺して、強引に回転を止めた。逆回転の斬撃が飛んでくるが、そのときには、イリスは右の剣を男の脇腹に差し込んでいる。見上げる。男の口の端が笑みに歪んでいる。猛烈な衝撃がイリスの左脇腹から全身に伝達された。一瞬、目の前が真っ暗になる。気がつけば、彼女の体は空中に吹き飛ばされていた。落下の衝撃は追撃となったものの、脇腹の痛みよりはましだ。激痛に苛まれながら、足音を聞く。雑兵共が群がってくるのがわかる。だが、それも一瞬のことだった。
「その女は俺の獲物だ! 手ェ出すんじゃねえ」
戦斧の男が恫喝染みた命令を発すると、兵士たちの動きが止まった。男は間違いなく、部隊長以上の権限を持っている。ザルワーン軍――いや、龍眼軍の指揮系統がどうなっているのかは知らないが、動きを止めた兵士たちは、男の直属の部下か、下士官に違いない。でなければ、いくら恐ろしくとも、彼の命令に従う必要はないのだ。
とはいえ、イリスは、窮地を脱した、などとは思わなかった。脇腹の痛みは収まる気配を見せず、深刻な痛手を負ったことがわかる。左の剣を支えに立ち上がるが、体を動かすたびに激しい痛みが走り、彼女は歯噛みした。
肋骨が数本、折れているかもしれない。
(痛みには耐えられる)
問題がないとはいえない。戦闘に支障をきたす可能性が大きい。実力通りの力が発揮できなくなれば、勝機も見出だせなくなる。
敵は、強い。
超人の中の超人といってもいい。常識外れの膂力から繰り出される攻撃は、痛いなどというものではなかった。まともに喰らえばひとたまりもなく絶命するだろう。幸い、イリスが喰らったのは、戦斧の柄部分による打撃であり、骨が折れる程度の負傷で済んでいる。柄の長い戦斧だ。もし、距離の詰め方を誤っていれば、彼女の胴体は両断されていただろう。
「獲物か」
「獲物だよ」
戦斧の男は、棒立ちに突っ立っていた。左脇腹にイリスの剣が突き刺さったままだ。吹き飛ばされたとき、手放してしまったようだが、手放して正解だったのだろう。あのまま握っていれば、さらに深刻な傷を負わされていた可能性が高い。剣は深々と突き刺さり、致命傷だということがよくわかった。周囲の兵士たちも、不安そうに斧の男を見ている。彼は死ぬ。だれもが、その厳然たる事実を理解している。
剣を伝う血が、柄頭からこぼれ落ちる。その柄に男の手が触れた。掴み、無造作に引き抜く。男の表情がわずかに歪んだ。傷口から血が流れ出す。蓋をしていた剣を抜いたからだろう。止めどなく流れ落ちる血は、彼の生命力を急速に奪っていくように思えた。
「だが、強い獲物だ。だからこそ、戦う価値がある」
男が、剣を掲げる。波打つ刀身が特徴的な剣。血の赤に塗り潰された刀身は、揺らめく炎のようにも思えた。男は、その剣をひとしきり眺めると、目を細めた。
「命を賭ける価値がある」
投げて、寄越してくる。
「なんの真似だ」
イリスは、剣が放物線を描き、足元の地面に突き刺さったのを見届けると、男を睨んだ。この期に及んで情けをかけられるのは、馬鹿にされているような気がしてならなかった。
「いっただろう。俺は本当の戦いがしたいだけさ。二刀流があんたの戦い方なら、一本じゃあ、本気は出せないだろう?」
「舐められたものだ。その傲慢さが己の命を奪うと知れ」
「はん」
男は鼻で笑うと、戦斧を両手で構えた。
「どうせ、死ぬ」
「……そうだったな」
男は、自身の傷の深さを知っているのだ。応急処置をすれば間に合ったかもしれない。だが、その機会はとっくに失われてしまった。そもそも、イリスを殺そうとすれば、間に合わなくなる。彼女とて、あのまま黙って殺されるつもりもなかったし、追撃して簡単に殺せるとは、男も思ってはいなかったに違いない。かといって、部下に殺させるのは癪だったのだ。
延命よりも、目の前の勝利を。
そういう思考なのかもしれない。